インフェクテッド・イヴ
東雲メメ
Chapter.1『二人の時間 - (bitter) sweet time』
「今日も来たよ。
「
病室のドアを潜ると、そこには真っ白なキャンバスに筆をはしらせる少女──
俺──
病衣に身を包んだ千鶴は、それを差し引いても有り余るほどの美女であった。肌はまるで日本人だとはとても思えないくらいに白く、触れたら雪のように溶けてしまいそうな、そんな儚ささえあった。腰まで伸びた黒い髪は、窓から差し込む夕陽の光を帯びて、美しいグラデーションを形成している。
まるで人形のような、“絶世の美少女”という言葉はまさに彼女を表すために出来たのだと本気で思わせてしまうような、そんな女の子。
彼女が俺のカノジョだという事実が、自分でも未だに信じられないくらいだ。
「……? どうしたの、心くん」
「え……? あっ、ご、ゴメン千鶴! なんでも、なんでもないから……っ!」
怪訝な眼差しを向ける千鶴に言われ、彼女を凝視していたことにようやく気付いた俺は、気恥ずかしさのあまりつい慌てて目を逸らしてしまった。この一連の様子をもしも仮に第三者が見ているとしたら、きっと俺たち二人の進展具合も、何となく察することが出来てしまうのだろうか。
そう。俺が千鶴に告白して付き合うことになってから約1年。俺たちはキスどころか、抱きしめ合うことも、手を繋ぐことすらもロクにできていなかった。
もちろん、俺としてもこの先に進みたいという思いは少なからずある。しかし、いざ彼女の笑顔を目の前にしてしまうと、そんな気持ちも失せてしまうのだ。普通の女子中学生が浮かべるような、満面の笑顔とは少し違う。無理して頑張っているような、今にも消え入りそうな笑顔。今、目の前にいる千鶴も表情も、まさしくそんな感じだった。
「あっ、そうだ千鶴。……ハイ、これ」
俺は学校指定の黒いカバンからクリアファイルを取り出すと、そこから数枚のプリントを取り出して、千鶴に差し出す。
「それは今日配布のプリント。それから……これ」
続けて、俺は千鶴に色紙を差し出す。
「……! これ……」
彼女は受け取ったそれを目を通すと、まずは心底驚いたような表情を浮かべ、そして次第に涙ぐんだ表情へと変わっていった。
「みんな……ありがと……」
色紙を涙で滲ませながら、弱々しく千鶴かつぶやく。
無理もない。クラス全員からの応援メッセージが綴られた色紙を見れば、誰だってそういう反応をしてしまうだろう。
喜んでくれてよかった、と俺は安堵した。千鶴を元気付けるために、恥を忍んで中学のクラス全員に呼びかけてみた甲斐があったというものだ。
「でも……ごめんね…………。私は……もう……」
しかし、後に続いた彼女の言葉は、俺の予想とは少し違っていた。
どうやら千鶴を元気付けるために贈った色紙は、かえって彼女を追い込んでしまっているのだ。それを見た俺も、すぐに迂闊だったと後悔の念に苛まれる。
彼女の患っている病気の名は、肝臓病。
残された余命は、あと3年。
以上が、医師に聞かされた千鶴の病状だった。
自身の未来が閉ざされていることを知っている少女に対し、クラスメイトからのエールの言葉などというのは、逆効果にしか成り得なかったのだ。
善意からの行為が、かえって裏目に出てしまった。己の犯してしまった過ちに、俺の心までも居た堪れなかった。
「大丈夫……大丈夫だよ……! だってまだ3年もあるんだ! それに……!」
いつの間にか、震える千鶴の手を握っている自分がいた。根拠もないくせに、そんな言葉が勝手に口から出ていた。
「それ……に……?」
千鶴に聞き返され、俺は思わず押し黙ってしまう。
もしこれ以上、彼女に激励の言葉を送ったところで、きっと彼女は『自分はそれに応えることができない』と思い、そんな自分を責めてしまうだろう。
それでも俺は、彼女を何とかして元気付けたかった。
自分には、それくらいのことしか彼女にしてやれないのだから。
「お、俺がついてる! だから……、そんな悲しい顔をしないでくれ……」
それが、自分が千鶴に対してかけることができる精一杯の慰めであり、願いでもあった。
根拠などありはしない。そもそも、なんの才能も特技も持ち得ない自分が一緒にいたところで、何かが変わるとも到底思えない。こんなことを言ったところで、千鶴にとってはやはり辛いだけかもしれない。
「……本当? 心くんは、私とずっと一緒に居てくれる……?」
しかし、千鶴はまるで希望に縋るような眼でこちらを見つめ返してきた。
暖かい。けれど、すぐにでも消え去ってしまいそうな希望の灯火。
俺はその火を、何としても消さないように尽力しようとした。
「当たり前だ! 俺は千鶴の……か、かかかカレシ……なんだからな!」
我ながら顔から火が出そうになるくらい恥ずかしい台詞だった。おまけに途中で噛みまくってしまったまである。
「……ふふ、そうだね。ありがとう、心くん」
しかし、どうやら千鶴を元気づけたいという試みは成功したようだ。彼女は目元に張り付いた涙を拭うと、また先ほどと同じ笑顔を見せてくれた。
彼女のそれは、ともすればただの強がりかもしれないし、こちらを心配させまいと無理して笑顔を作っているだけなのかもしれない。それでも、俺は彼女のそんな笑顔を見るだけで、何もかもが満たされた。
「ええっと……そうだ。千鶴、今日はどんな絵を描いてたんだ?」
何とか話題を明るいものに変えようと考えた俺は病室中を見渡していると、偶然にも描きかけのキャンバスが目に入ったため、それについての話を千鶴に振ることにした。彼女は同年代の女子達と比べてもかなり口数が少ない為、基本的に話は俺の方から振るようにしている。
千鶴は絵画が趣味で、特に一人で病室にいる間は時間を忘れて没頭しているほどだった。個室の病室内には、彼女の手掛けた作品が三脚にかけられる形で立ち並んでおり、まるで小さな美術館のような空間となっている。そしてその作品らは、すべて“空”を描いたものだった。
「……今日の“空”は、黄緑色なんだな」
「うん」
彼女の描く空は、必ずしも“青空”や“夕焼け空”だけではない。時には、とても現実味のないような色で空を彩っていたのだった。
千鶴曰く、『人間には青やオレンジに見えているだけで、“本物の空”が実際にそのような色である確証はどこにもないから』とのことだった。感性は平々凡々で、通知表に記される美術の成績も毎回“3”をキープしている俺にとって、千鶴の感覚は理解し難いものであったが、そんな俺でさえもこの絵を見ると、不思議と気持ちが落ち着くのだった。
何よりも、自分のカノジョには、世界がまるで平凡な人間とは違った風に見えているという事実に、わけもなく嬉しさを感じていた。彼女はきっと、自分なんかよりもずっと特別な存在なのだろう、と思う。
俺は千鶴の描いた黄緑色の空の絵をまじまじと眺めていると、ちょうど真ん中のあたりに白い人のようなシルエットが映り込んでいるのを見つけた。人間のように四肢を持っているが、手や足からは翼のようなものが生えている。
「千鶴、これは?」
指で指しつつ問うと、千鶴は気兼ねなく答えてくれた。
「これは……鳥巨人」
「うんうん。トリキョジンね……うん?」
聞き慣れない単語に、ついつい聞き返してしまった。すると彼女は仄かに笑みを浮かべつつ、その言葉について語り出す。その笑顔はいつも自分に向けてくれるような消え入りそうなものではなく、もっと純粋な微笑みだった。自分よりも絵画にその笑みを向けているのだという事実に、俺は少しだけ嫉妬してしまう。
「鳥巨人はね、この世界を守ってくれる、最後の希望なの。悪魔を振り払ってくれる、私たちの味方……」
「……それも、“妖精さん”に教えてもらったこと?」
コクリ。と千鶴は頷いた。
彼女はしばしば、“妖精さん”という名前を口にすることがある。なんでもそいつは、千鶴の知らないことを色々と教えてくれる存在らしかった。最初にその話を聞いた時は思わず『千鶴が浮気をしているのではないか』と不安に駆られてしまったが、問い質してみたところ、どうやらその見解は違ったらしい。
曰く、“妖精さん”の姿や声は千鶴にしか見たり聞いたりすることができず、千鶴以外の人間には存在自体を認識することすら出来ないとのことらしい。
その話を聞いた当初は流石の俺も馬鹿らしいと思ったものの、医師に相談したことでその考えを改めるに至った。
まだ15歳の少女である千鶴が、余命宣告を言い渡されながらも闘病生活を続けているのだ。彼女の心的不安は他人にはとても計り知れないものであり、そんな彼女が
つまり、おそらく千鶴は自分の中に“妖精さん”という語り相手を見出すことで、心の平静をなんとか保てている状態なのだろう。であれば、彼女の身を案じる俺が“妖精さん”の存在を否定するわけにもいかない。このような理由から、僕や病院の医師たちは“妖精さん”の存在を認めた上で千鶴と会話するようにしている、というわけだ。
「その……悪魔ってのは、やっぱり」
「そう。“イミューン”」
イミューン。その単語を聞いた途端に、俺は思わず息を飲んでしまった。
一応補足しておくと、そのイミューンという存在は決して千鶴の空想上の存在でもなければ、何か映画や漫画に出てくるフィクションの固有名詞というわけでもない。
俺は今朝のニュースで目にした、あまりにも現実離れした異様な光景を思い出す。
『ニューヨーク陥落』。そう銘打たれた見出し文と共に、高層ビル群を破壊して回る異形の怪物たちの姿がそこにはあった。
全身はカラスのように黒く、細く長い四肢を持ち、鳥のような翼を背中から生やしているその怪物は、つい2週間ほど前に突如として現れ、今も各地で破壊の限りを尽くしているらしい。
彼らの出現によりネット上では10数年振りに終末論が騒がれるようになり、いつしかその異形の怪物たちは『不要となった
もっとも、イミューンという呼称はあくまで非公式なものであり、政府や専門家たちは“新型飛行生命体”やら“外宇宙侵略型生命体”などと様々な名称で呼んでいたけれど、世間一般にはあまり浸透していないのが現状だ。
「ええっとつまり、その鳥巨人はイミューンの手から俺たちを守ってくれる存在……って、“妖精さん”は言っていたのか?」
「少し、違う……。鳥巨人は、きっかけを与えてくれるだけ……」
「そ、そっか」
時々、千鶴はよくわからない話をすることがある。それでも俺は、笑って聞き入れると決めていた。そうでもしなければ、千鶴は俺の方を振り向いてくれなくなる。何故かそんな気がしていたのだ。
いま思えば、なぜ俺のような平凡な男の告白を千鶴が受け入れてくれたのかもわからない。自分に惹かれる要素があったとは到底思えないし、正直、千鶴のような美少女と自分が釣り合っているとはとても思えなかった。
だからと言って、こちらの告白に応じてくれた理由について、俺は千鶴本人に直接聞くことすらも出来そうになかった。触らぬ神に祟りなしというように、俺はただ“千鶴と付き合っている”という事実に縋ってさえいればいい。後ろ向きな考えかもしれないが、そう思うことで少しだけ楽になることができた。
「よーし。今日もアレ、作っちゃうか」
言って、俺は気を紛らわすようにカバンからある物を取り出し、テーブルの上に置く。色とりどりに並べられたそれらは、100均やホームセンターなんかで市販されているオーソドックスなタイプの折り紙だ。
「わぁ。心くん、今日も折ってくれるの?」
「へへっ、鶴しか折れないんだけどな」
自慢にもなってないような台詞を自慢げに言いつつ、千鶴に何枚か色違いの折り紙をみせる。
「今日は何色がいい?」
「じゃあね……、白がいいな」
「白? 色付きじゃなくていいの?」
「白は綺麗な色だよ。希望に満ちた、祝福の色」
「了解。白、ね」
千鶴に言われた通り、俺は色とりどりの紙の束から白い紙を抜き出すと、慣れた手つきでそれを三角形に折ってゆく。
「わぁ……。心くん、本当に鶴を折るの上手だね」
「まあね。昔から折り紙は得意中の得意だったんだ」
嘘である。ただでさえ自分は手先が不器用だというのに、昔から折り紙を趣味にしていたわけがないのだ。
この折り鶴だって、ただ千鶴を元気づけたい一心から必死になって練習した、所謂バカの一つ覚えに過ぎないのだ。しかも折れるのは鶴だけで、他はからっきしというのが正直な話である。
それでもこの折り鶴は、容姿も学力も何もかもが平凡で、特筆して何かに秀でているわけでもないこの俺が、唯一千鶴を喜ばせることができる手段であるといえた。だからこそ、こうして毎日病室に足を運ぶたびに、一羽ずつ鶴を折るようにしている、というわけだ。
「よしっ、できた! ほら、千鶴っ」
俺は完成した折り鶴を、さっそく千鶴に手渡す。自分で言うのもなんだが、今日のはいつも以上に関心の出来であると自負することができた。千鶴も喜んでくれたのか、受け取った折り鶴を大事そうに手のひらの上に乗せて眺めている。
「本当に綺麗……。凄いね、心くんは」
「いやぁ、それ程でも……あるかな。いつも通りに吊るしておくか?」
「うん。お願い……します」
俺は千鶴から先ほどの白い折り鶴を受け取ると、病室の窓際に吊るされた無数の折り鶴達の方へと歩み寄る。これらは全て、俺が千鶴のために折った鶴達だった。
毎日1羽ずつ鶴を折って、これが1000羽に達した時、千鶴の病状もきっと良くなるに違いない。そんな祈りが、この未完成の千羽鶴には込められていた。
「……っと、もうこんな時間になってたのか」
窓越しに映る景色は、すっかりと日が暮れて青い夜闇に包まれていた。千鶴と一緒にいる時は、時間があっという間に過ぎてしまうので毎回驚かされてしまう。
「ごめんな、千鶴。俺もそろそろ帰らなくちゃ」
「うん、わかった。こっちこそ、いつもお見舞いに来てもらってごめんね」
「謝るようなことじゃないって。俺は好きで此処に来てるんだからさ」
「うん……でも、本当にごめんね……」
「……?」
時々、千鶴は物凄く悲しそうな顔で下を向いていることがある。最近は特にそれが顕著であるようにも思えた。もしかしたら、精神的に疲労が溜まってしまっている時期なのかもしれない。
「なあ、千鶴」
「……なに、心くん?」
「もし、何か困ったことや辛いことがあったら、いつでも俺を頼ってくれていいんだからな」
俺が千鶴にしてやれる事など限られているし、出来ることなどたかが知れている。医学に理解がある訳でもなければ、奇跡や魔法やらを用いて彼女を救ってやることもできない。
「千鶴の為なら、俺。何だってやってやるからさ」
それでも、俺は千鶴を安心させてやりたいと、心の底から願っていた。
「うん……ありがと、心くん。……ごめんね」
また、千鶴は俺に謝った。
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