第四章 睡蓮の『灯』り PART14

  23.


「こ、これは……」


 リリーは目の前の風景を見て思わず息を呑んだ。


「綺麗……」


 雪が降り積もった真っ白な景色の中、睡蓮の花が淡い光を灯していた。


「凄い……。このお風呂を亭主が入らないようにするため鑑賞用に変えたんですね」


 温泉の中には絶妙なバランスで花が配置されておりひとつずつの睡蓮が輝いていた。


 椿は頬を掻きながら答えた。

「リリーさんが時間を稼いでくれたからです。それがなければできませんでした」


「そんなことないですよ。この発想は誰もが思いつきません」


しかし、とリリーは疑問を持った。

「睡蓮が浮かんでいる温泉は塩分が含まれているので枯れてしまうのではないですか?」


「そのまま塩を残したら確かにまずいですね。でも今入っている樽湯の温泉は炭酸カルシウムが溶け込んでいますから、これに溶かしたんです」


「なるほど、温泉の成分を混ぜ合わせて中和したんですね」


「そういうことです」椿はゆっくりと頷いた。「本来ならそういう方法をとりたくなかったんですが、あまりにも時間がなかったので。今は単純温泉を使って貰ってますよ」


 天井には眩いライトが点いている。きっと水槽にあったものを取ってきたのだろう。


「本当にいいですね、温泉に浸かりながらこんな光景が見れるなんて……」


 リリーは顔を洗いもう一度眺めた。まるでモネの絵画の中に入ったようだ。温泉が池となり睡蓮の花が気持ちよさそうに伸びている。その色使いが自分の心を穏やかで暖かい気持ちにしてくれる。


 目を閉じると瞳の奥から懐かしい光景が浮かび上がってきた。庭で戯れている母親の百合の姿だった。暗い闇に光が差し込むように一筋のスポットが彼女に当たる。



「リリー、こっちにいらっしゃい」


 気がつくと、目の前にはいつもの庭があった。百合はお気に入りの水玉のワンピースを着ており、右手には新しい苗を左手にはスコップを握っていた。


 ……仕方がない、手伝ってあげよう。


 二人は暑い日差しの中スコップで苗が植えられるだけのスペースを掘った。苗を優しく置いて丈夫に育ちますようにとおまじないをしながら土を被せる。


 毎回のことだが母親は花の名前を教えてくれない。どんな花が咲くか自分でも訊かずに花屋さんから仕入れるらしい。


 黄色の花が咲くか、紫の花が咲くか、いや、ピンクだ。暇な時はだいたいこの話題だった。花が咲かずに野菜が育った時もある。その時には二人して笑った。


 季節を巡る毎に庭の色は豊かになっていった。冬にはほとんど枯れてしまうが、春がくるための準備をしているのだと考えると気持ちは沈まなかった。


「今年も春が来るまでお預けだね」


 百合はそういうと紅茶のパックに温かいミルクを注いでくれた。


 冬の楽しみ、ミルク紅茶の出番だ。普通のミルクティーはお湯に浸したパックにミルクを少量入れるが、これはミルクそのものにパックを入れて暖めるのだ。家族一同この飲み物の虜になっていた。


 幼いリリーは父に反発してミルク紅茶の中にレモンのスライスを入れたりした。どんな味になるか試したかったのだ。だがストックは肩を竦めながらも叱りはしなかった。


「何でも挑戦してみるといい」


 そういってリリーの頭を優しく撫でてくれた。


 本当に暖かい家庭だった―――。



 目を開けると、炭酸の音がやんわりと聞こえてきた。妄想は泡と一緒に消えていく。


 ストックはこの景色を眺めながら風呂に浸かったのだ。彼の笑顔が蘇り、心が和らいでいく。あの笑顔はきっとこの景色を眺めたからに違いない。


「綺麗ですね」


「ええ、本当に」


 ……当たり前は当たり前じゃない。


 椿の言葉と共に、心が軽くなっていく。今まで数字以外のものが怖かった。それは確定していないものに触れることを恐れていたからだ。


 しかし今ならはっきりいえる。絶対なんてものは存在しない。生があれば死がある。楽しいことがあれば悲しいことがある。出会いがあるから別れがある。当たり前のことだ。そんな当たり前のことから逃げていたのだ、自分は――。


 ……今のこの気持ちは、当たり前じゃない。


 目を閉じて胸の内に燻っている思いを確かめる。彼に対しての思いは確定している。これはもう変えることはできない。


 ……この気持ちの先を知ってもいいのだろうか。


 両手を重ね再び自分の心に問う。きっと彼には届かないだろう。それでも自分の思いを知って欲しい。秋桜美のことを思っていたとしても、私はこの胸の高鳴りを表現せずにはいられない。


 本日二回目の告白だ。


「……春花さん、伝えたいことがあります」


 リリーは睡蓮の花を見つめながらいった。


「これからも、春花さんと色んな所に行きたいです。もっと春花さんのことが知りたいんです」


「それは……」


 椿が急に真剣な表情になった。


「そういうことです」


 一時の間が空いた後、椿は重々しく口を開いた。


「……僕も同じ気持ちですよ」


 ……えっ、まさか、ということは。


 耳を疑いながら彼の声を待つ。お湯に浸かりすぎて鼓膜がおかしくなったのだろうか。


「……これからもよろしくお願いしますね、お友達として」


 ぱりっと何かが崩れる音が聞こえた。


 一世一代の告白はどうやらなかったことになるようだ。彼がこれほど無神経だとは……。


 ……それでも、伝えてよかった。


 いえたことに意義がある、と彼女は思った。今回の気持ちは彼と付き合いたいというものではなく、ただ純粋に時間を共有したいという気持ちからだったのだ。桃子に話せばきっと詰めが甘いといわれるだろう、だが今回はこれでいい。


「はい、こちらこそ。これからもいいお友達でいましょうね」

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