第四章 睡蓮の『灯』り 旅館視点 PART8
17.
ストックと共にエレベーターで降り、露天の部屋へ移動した。すると雪花と浴衣を着た背の高い男が露天の部屋から荷物を持って出てきた。
「申し訳ありません、長らくお待たせしました」手に持った黒いビニール袋を置いて雪花は頭を下げた。
「……お前、わかっているんだろうな。俺の顔を潰しやがって」
「お叱りは後でいくらでも受けます」
「わかっているのならいい。早くどけっ」
雪花を払いのけ戸を開ける。脱衣所を見渡したが変わりはない。
何も変わっていないじゃないか。あいつは何をしたんだ? それになんだあの男は?
ストックと一緒に脱衣所で服を脱ぎ、第一の湯・檜風呂の部屋に入った。早速かけ湯をして大きな風呂に二人で浸かる。
「いやーいいですな、とても気持ちいい」
仙一郎は機嫌を伺うようにいったが、ストックの顔には何の表情もなかった。そのまま慌てて説明に入る。
「ここは檜で作っているんですよ、檜独特の清々しい香りを味わってもらいたくて作りました。反対側に大浴場があるんですがそこも檜で作っています。ですがストックさんのお好きなように変えて貰って結構です」
タオルを頭に乗せ次の部屋を覗いた。湯の煙でぼやけているが第二の湯・樽湯にも変化は見られないようだ。
会話がなく重々しい。仙一郎はゴマをするように笑みを浮かべて続けた。
「次は一人用のお風呂です。うちでは樽湯と読んでいるんですがね。ですがストックさんのデザインで作られている風呂の方が高級感がありお客さんを呼べると思います。どうぞ意見があればなんなりといってください」
ストックはああ、と声を漏らしただけで目には光はなかった。無表情ながらも左の風呂の樽湯に向かう。合わせて仙一郎も右の風呂に入った。
第二の風呂場には工夫を凝らした形跡がないだけでなく、樽湯の量が半分くらいしか入ってなかった。
……ただ単に準備を怠っただけなのか?
仙一郎は雪花に怒りをぶつけたくなった。徐々に湯の量は増えているがこのままでは湯冷めしそうだ。
「この風呂は炭酸が気持ちいいんです。どうですか? 旅の疲れが癒えるでしょう。半分にしてあったのも半身浴をするためです。ゆっくりと長く浸かれますからね」
無理やり言い訳を並べ立てたが、ストックは引きつった表情で苦笑いした。彼の表情を見て自分の体調が悪いことにも気づく。やはり薬を飲んでおくべきだった。
しかし、と仙一郎は首を振った。ここで風呂から出れば接待は間違いなく失敗する。成功させるために最後の風呂に浸からなければいけない。
「ここからこの扉を開けるとですね、最後の露天風呂が見えるんですよ」仙一郎は目の前に見える木で出来た扉を指差した。「私がこちらの扉を開けるので、ストックさんはそちらの扉をお願いします」
ストックは返事もなく左側の扉を開け始めたが、途中で手が止まった。扉の奥の光景に目を奪われているようだ。その光景を見ながらストックは感嘆の声を漏らした。
「ストックさん?」思わず仙一郎は尋ねた。
「す、すばらしい……」
ストックに視線をやると目に光が戻っていた。
……どうしたのだろう、そんなに露天が気にいったのだろうか。
仙一郎も右側の扉を開けてみた。そこには今までに見たことがない風景があった。思わず声を失った。
……なんだこれは。どうなっているのだ?
ここは本当に俺の旅館なのか?
18.
雪花は左手の時計を覗き込んだ。風呂に浸かってからあの二人は一時間以上も経っている。
……仙一郎は大丈夫だろうか、やはり倒れているのではないか。
さっきは殺しの手口を考えて体が震えていたのに今度は生かす手口を考えて震えている。このままでは頭がおかしくなりそうだ。
二人の姿を確認し、近くに寄るとストックが声を上げた。
「勉強になりました、ありがとうございます」ストックは流暢な日本語で頭を下げて来た。
「え?」
「大変いい風呂でした。日本のお風呂の素晴らしさに心を打たれました」
「いえ、そんな。喜んで頂けてこちらこそ嬉しいです」
彼の心境に戸惑う。ストックが日本語を喋れることなど知らなかった、まして感謝されるとは思ってもいなかった。
仙一郎の様子を見るとどうやら体に異常はないらしい。ほっと吐息が漏れる。
「……よかったよ」仙一郎はぼそっと呟いた。
「えっ? 今なんと、いいました?」雪花は自分の耳を疑った。
「よかったといったんだ、お前の用意した風呂がな」
仙一郎は澄んだ目をしていた。しかし照れ隠しなのか言葉はぶっきら棒だ。
「正直に思ったことをいう。日本には日本のやり方が一番だ。今回の話はなしにして貰う」
「え? 本当ですか?」
ストックは何もいわずに一人でエレベーターに乗った。そのまま彼に礼をすると二人だけになった。
「またここに来たい、そう思わせるものが欲しかった……」
仙一郎は思いを打ち明けるようにゆっくりといった。
「俺はここにはないオリジナルを求めていた。だが本当に必要なものは目の前にあったんだな……」
……やっとわかってくれたんだ。
雪花の目から溢れてきた涙が零れ落ちた。涙は止まらず着物の袖が滲む。
「ありがとうございます。私も、もっと、頑張りますから」
「いいや、礼をいうのはこっちの方だ。俺が悪かったよ」
彼は頭を掻きながらいう。
「やっと気づいたよ。こんな所に大理石で出来た噴水なんかあってもおかしいことに」
緊張していた糸がぽつりと切れる。仙一郎は眉間に皺を寄せて口元を抑えていた、それは彼がはにかんだ笑顔を見せた合図だった。その光景が懐かしく、付き合い始めた頃の記憶が蘇っていく。
経営は確かに厳しい。しかし今の仙一郎を見ているともう一度一緒に頑張ろうと思える。別府にはやっぱり別府の温泉が一番なのだ。日本には日本のいい所がある。それを伝えることが私達の使命なのだ。
雪花は今日が新しい再出発の日になるんだなと心の底から感じ彼にそっと身を寄せた。
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