第二章 『花』火の閃き PART7

  7.


 品数が多い料理を堪能した所で、リリー達は必要なグッズを旅館から借りることにした。受付で尋ねると旅館のオーナーが対応してくれた。


「明日は珍しく天気がよさそうだよ、よかったね。お嬢さん、明日はどちらに行くの?」


 もののけの森がある白谷雲水峡に行くことを告げると、オーナーは大きく頷いた。


「そうか、それはいい。屋久島の天気はすぐに変わるから雨が降っていなくても必ずレインコートは持っていってね。俺もお嬢さんのような綺麗な人と山登りに行きたいね」

 オーナーは遠くにいる椿の顔をじろじろと眺めながらいった。


「違います。そういった関係じゃありません」


「ふうん。そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」オーナーはかっかっかと笑い一言追加した。「そういえば二人は部屋が別々だったね。清い交際なんだねぇ、最近の若者にしちゃ珍しい」


「だから、付き合っている訳ではないんです。成り行きで二人で行くことになっただけで」


「大学のサークルか何かで?」


 大学、と聞いてリリーの胸はときめいた。まだ女子大生に見えるのだろうか? お世辞だとしても嬉しい。


「そんな年じゃないですよ。友人がもう一人いたのですが、風邪を引いてしまって」


「本当に風邪なのかなぁ」オーナーは再び不気味な笑いを浮かべた。「それはきっとね、お二人に遠慮したんだよ。ここには自然だけはたくさんあるんだ。君達も自然な仲になれたらいいね。いひひ」


 自然には興味がないと撤回したい。だがオーナーはそんな事お構いなしといった表情で椿の方へ目を向けている。

 話題を変えなければ椿の所にも話しかけるかもしれない。


「そういえば、ここにはたくさんの写真がありますね」


「俺とかみさんで撮った写真だよ。かなり昔の写真だけどね」


 季節毎の写真が綺麗な額縁で飾られている。冬に聳(そび)える縄文杉やみっしりと葉に覆われたハートの形をした木片、紅葉に塗れているもののけの森。その中に一つだけリリーの心を揺さぶるものがあった。


「あの写真は……どこで撮ったんです?」


 雪景色の中、一つの大輪の花が写真全体に収まっていた。白い花びらが美しく、花一つで幻想的な世界を作り出している。


「あれは冬にしか咲かない花でね。オオゴカヨウゴレンという花なんだ」


「そうなんですか。じゃあ今の季節には見られないんですね」


 リリーががっかりした声でいうと、オーナーは愛想を取るように優しく答えた。


「また冬に見にくればいい。その時は彼氏さんとうまくいっているといいね」


 リリーが反論する前にオーナーはそのまま食堂に向かった。どうせいい直しにいった所で茶化されるのがオチだ。このままそっとしておこう。


 談話室で腰を掛けている椿の側に寄った。彼は縄文杉関連の本を読んでいる。


「何か面白いこと書いてます? 縄文杉の年齢とか」


 パンフレットには七千二百年生きていると書かれているが、厳密には違うらしい。今でも年齢については様々な説があるようだ。


「年齢のことは色々書いてますけど、結局わかってないみたいですね」


 ……年は関係ないわよ。


 不意に母親の言葉が蘇る。理論に囚われず感情の赴くままに縄文杉に向かい合った母親にはどう見えていたのだろう。

 今の私にはどう見えるのだろうか。


 部屋に戻るためエレベーターを待つが、心の中には大きな葛藤が残っている。どうしても先ほどの話の続きが気になってしまう。



「帰って来なかったというのは?」

「何でも、登山をしている最中に遭難にあったらしいです」



 その人は女性だったのだろうか。


 それだけでも訊いておけばよかった。心の葛藤とは裏腹にエレベーターは機械的な音を鳴らし部屋の階へ辿り着いたことを知らせる。


「では明日の七時半にドアをノックしますので」


「はい、それではまた。おやすみなさい」


「おやすみなさい」


「あの……」


「ん? 何でしょう?」椿が横顔でこちらを覗いている。


「いえ、やっぱり何でもありません」


「そうですか。それじゃまた明日」


 椿の笑顔を見送りながら再び大きな溜息をつく。縄文杉の謎よりも彼の出会った人物の方が気になっている。


 自分の部屋に入り持ってきたティーバックで一服つく。


 ……別にいつだって訊ける話だ。


 心を落ち着かせるため紅茶に口をつける。部屋の造りに再び既視感を覚えながら、ストレートで飲み続ける。未だ甘いミルクを溶かすことには動揺してしまう。


 ……ここでなら、できると思ったのに。


 間違いなくこの旅館は自分が訪れた場所だろう。心のガラス玉が絶えず動き続け、止まる気配がないからだ。


 ……桃子の具合はどうだろう。


 電話を掛けてみるが一向に繋がる気配はない。もしかするとまだ寝ているのかもしれない。差し支えない程度のメールを送っておく。


 ……やっぱり、私は弱い人間だ。


 自分の恐怖を取り除くために、人の心配をしている。自分よりも弱い人間を見て安心しようとしているのだ。


 ……こんなことで、森に入れるのだろうか。


 母親が愛した森を受け入れられるだろうか。こんな気持ちで百合の気持ちを知ることなど、できるのだろうか。


 ……今でも会いたいよ、お母さん。


 携帯電話の画面を閉じながら、彼女は膝を抱えたまま眠りにつくことにした。

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