あかときいろとくろとしろ
さささ 洋介
ゆうやけと
そのときぼくはテーブルに座っていた。そして今は椅子に座っている。杉の木でできた大きなテーブルは4年前に近所の家具屋で買ったものと同じだ。コーヒーから立ち上る湯気は香りだけのこして消えていく。時計の針は一向に動かない。もしかしたら時間なんてものは存在しないのかもしれない。時間なんてものは、物理的な存在が変化することによる副作用でしかなくて、時間が解決してくれることなんかきっとないのだろう。あるのはそう、解決にかかった時間だけ。扇風機が音を立てて回る。そよぐ風すらも不快なほど、この部屋は熱い。窓の外を見ると薄暮に照らされた見慣れない街並みが広がっている。赤く照らされた屋根の上を猫が歩く。猫。この部屋には猫がいない。箪笥もない。床はある。ただドアがない。だから不思議だ。僕はどうやって入ってきたのかまるで覚えていない。何のための部屋なのかもわからない。ここにいる目的もわからないし、ここがどこなのかも見当がつかない。何も覚えていない。心当たりもない。このテーブルは見覚えがある。それとテーブルの上に腰掛ける痩せてやつれた男も。男はただうつむいている。ぼくはそれを見ている。時折、生気の抜けたように曇った目が力なく瞬いて、長いまつげがぼくにそれを知らせる。落ち込んでいるようにみえてなんだか気の毒に思えてきたので、声でもかけようかとしたがどうもうまく咽喉を使えない。二度三度と発声を試みたがそもそも声の出し方を忘れてしまったようだ。仕方がないのでぼくは椅子から立ち上がる。木と木が擦れる音がかすかに鳴った。男はこちらにちらりと視線を送り、すぐに床に落とした。下を見たまま、男はコーヒーに手を伸ばし、音もたてず二口飲んで大事そうにテーブルに戻した。ぼくはふとのどの渇きを覚えた。何か飲めば咽喉の使い方を思い出す気がする。ぼくは周りを見回して何か飲むものを探した。視線。視線が男を通過するとき、男はぼくの目を見た。目が合う。彼はほとんど唇を動かさず言葉を発した。
「世界には表と裏があるのはご存知ですか?」
音の出し方を忘れてしっまったぼくは黙ってうなずくしかなかった。なるほど、世界の表裏を持ち出すこの男はきっとぼくの反対側に住んでいるのだろう。この男は何のためにぼくに接触を試みたのか。大いなる違反を犯してまで。
「コーヒーでもいかがですか?」
男の勧めに、ぼくはまた小さくうなずくと向きを変えて窓のほうへ歩み寄った。沈む夕日の向かいの空が藍色に染まり始めていた。窓を開けるとさわやかな風が頬をほてりをぬぐう。美しい夕焼けだ。赤く光る雲はたなびき、青く瞬く星がまばらに見える。地平線の少し上に一筋の飛行機雲。ここは世界の表だろうか、それとも裏だろうか。どちらにしてもきっと僕は、昔の僕ではいられないんだろう。昔の僕。むかし?おかしい。どうも思い出せない。すべての記憶がぼんやりとしていて不鮮明だ。もう思い出せないのだろうか?そう思うと途端に悲しくなった。窓外の色が感傷に一役買っているのだろう。
男がマグカップを持ってきた。なみなみと継がれたコーヒーに口をつける。舌に広がる苦味と鼻から抜ける香りがとても懐かしく感じる。「ありがとう」ぼくは声に出してそういった。コーヒーはおいしかった。
「ここはどこなんですか?」コーヒーが半分ほどなくなったところで、ぼくは男に訊いてみた。
「君のいた世界を表とした場合、ここは裏の裏の表の裏にあたります」男の口調は諭すようだった。
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