私は悪く無い
ナガス
私は悪く無い
今の世の中、どこに目を向けてもスマホスマホ。日本人はスマホに魂を奪われているのでは無いかと思ってしまうほどに、スマホの画面を食い入って見ている人が多い。
通勤のために駅に向かうと、その途中に歩きスマホの人。改札にICカードをかざす時にもスマホに目を向けたまま。ホームに着いても大半はスマホ。電車に乗ってもやっぱりスマホ。明らかに連れ添いだと思われるカップルも、自身のスマホに目を向けて、会話のひとつもしていない。
誰も彼もが猫背になりながら俯き、スマホの画面に視線を向けていると気付いた時は、とても不気味な光景を目の当たりにしていると感じ、多少の嫌悪感を抱いたものだ。
そうは思いつつも、自分自身それなりにスマホを見ている時間が長い。歩きスマホこそしないのだが、最近リリースされた某有名モンスター集めゲームにハマっている一人である。このゲームはアプリを起動さえしておけば、音と振動でモンスターが現れた事を知らせてくれるので、画面に食い入る必要が無いという処置を取ってくれているのだ。
モンスターが現れた音と振動がしたら、私はすぐさま周りをチラリと伺い、道の端へと寄り、モンスターを捕まえている。珍しいモンスターをゲットした時の達成感は、三十を超えた今でも嬉しいと感じるものだ。
いい年して、何をゲームに心奪われているのだと言われるかも知れないが、このゲームは私が小学生の頃から第一線で売れ続けているシリーズで、一時期離れてしまっていた期間もあるのだが、懐かしさとあまりのブームに触発され、ハマっている。
しかし当然、マナーは守っているつもりだ。歩きスマホは格好悪いし危険。そして何より、歩きスマホが原因で法律が厳しくなってしまう恐れがある。最近では歩きスマホによる事故が頻繁に起こっており、新聞には連日、このゲームの問題点を面白おかしく書かれているほどだ。
このままでは、いずれ何かしら規制されてしまうだろう。一人ひとりが自制心を持ち、節度を持って楽しむ事が出来ればいいのだが……と、根が真面目な私は考えていた。
考えていた最中の自分の手には、スマホが握られていた。
休み明けの月曜日。空は鼠色で小雨が降っており、湿度がとても高く、まとわりつく生暖かい空気が自分の気分を憂鬱にさせる。それでも社会人である自分は会社に向かわなければならず、いつものように電車に乗り、駅を出て、オフィス街を傘をさして会社へと向かう。
駅から会社までの道には大きな交差点がいくつもあり、私と同じように出社しているサラリーマンがまるで指示されたかのように整列し、信号待ちをしていた。
その中にも、スマホを眺めている人達が大勢居る。片手で傘を持ち、手持ちバッグを脇に挟み、一切の表情を変えずに、スマホを操作していた。
何故そんなに必死なのだろうか……自分自身もゲームにハマってはいるのだが、この雨とムワッとした空気に気分を阻害され、とてもでは無いがスマホを取り出す気分にはなれない。そもそもこの空気でスマホの画面がペタつき、まともな操作が出来なくなるのは自明の理である。
事実、隣に立っている自分より若く見える濃紺スーツの男性は、何度も同じ操作を繰り返しては失敗している。モンスターを捕獲するためのボールを上手く投げられていない。
自分は内心「アホじゃねぇかな」と思いながら視線を逸らし、大量の車が行き来する交差点へと視線を移した。
大きな交差点というのは、それだけ車の行き来が多いもの。それ故にそこを横断するためには長い時間、信号を待たなくてはいけない。いつもなら私もこの待ち時間にスマホを取り出し、モンスターを捕まえている所だ。
しかし今日は小雨が降り、空気が重く湿っていて、私は気分が乗らず、ただただ車道を見つめていた。
だから自分は、目撃してしまった。
黄色い雨合羽を身に纏った、小さな幼児がスマホを片手に、車の往来が激しい車道へと飛び出していく所を。
その光景とほぼ同時に「危ないっ!」という、野太く低い大声が自分の耳に届く。
恐らくその声の主と思われる初老の男性は、通勤ラッシュ中の車道へと飛び出し、小さな幼児を抱きかかえる。
そしてそのまま、ドグッという鈍い音を立てて、文字通り、吹っ飛んだ。
車の数メートル先まで地面を滑空し、地面に叩きつけられ、そのままゴロゴロと転がり、左半身を下にして、止まる。
それでも初老の男性の腕には、黄色い雨合羽の幼児が抱きかかえられたままだった。
辺りからは女性の甲高い叫び声や、男性の「おいおいマジかよ!」という好奇とも心配ともとれる声が聞こえてきていたが、私はあまりの衝撃に身震いを起こし、言葉を失い、ただただその光景を見つめ続けるばかり。
何人かの男性が初老の男性に駆け寄って行き、大声で何かを叫んでいる。その中の一人が「意識はあるぞ! 大丈夫ですか!」と、必死に呼びかけているのが、印象的だった。
そして初老の男性に意識があるという事実に自分自身、安堵したのか、ようやく自分も体の感覚を取り戻し、傘を放り投げて初老の男性へと駆け寄り、スマホを胸ポケットから取り出して、救急へと電話をする。
頭から血を流し、右足の関節がおかしな方向に向いてしまっている初老の男性は「子供は、無事か?」と、呟いていた。その声を聞き、一番に駆け寄っていった若い男性は「無事です! 安心してください!」と、力強い口調で声をかけている。
そう、子供は無事だった。とても怯えた表情をしながら、母親だと思われる女性の手に抱かれている。
「軽いかすり傷程度のものですから!」
「そうか……良かった」
初老の男性は口元を緩め、鋭かった視線を穏やかなものに変えて、ゆっくりと目を閉じた。まるで初老の男性にとって、生涯の最後のように見えてしまい、自分の胸は酷く痛む。しかし初老の男性の胸がゆっくりと上下するのを見て、ただ目を瞑っただけだと悟った。
今まで大怪我なんてした事が無いので彼の心境や状態を知る事は出来ないのだが、恐らく目を開けているだけでも辛いのだろうと思う……彼の頭と足から流れ出てくる血の量を見ると、そう感じる。
「救急車はまだなのっ! ねぇっ! 子供が怪我してるのよっ!」
女性用のタイトなスーツを着た子供の母親が、とても強い口調で叫んだ。目から大量の涙を流し、子供の体を抱き上げて、必死な表情で初老の男性に群がる自分達に怒りをぶつける。
その瞬間、初老の男性に一番に駆け寄っていた若い男性が立ち上がり、母親の顔をギロリと睨みつけた。
「……今は、通勤ラッシュ中じゃないですか。道が混んでいるんですよ。それに貴方の子供は大した怪我では無い。子供の心配より、先に」
「うるさいっ! 子供が怪我してるのっ! 後遺症が残ったらどうしてくれるのよっ! 早く救急車を呼びなさいっ!」
彼女は恐らく、混乱しているのだろうとは思う。
何一つ罪の無い若い男性に向かって、まるで親の仇を見るかのような目で睨みつけ、大きく口を開き、大きな声で叫んでいる。
それを受けて、若い男性は体を震わせた。そして震える指先を、子供の母親に向ける。
「アンタなあぁっ! 俺ぁ見てたぞっ! アンタ子供の手ぇ離してスマホでゲームしてただろっ! そんでグズる子供にスマホ渡して遊ばせただろっ! そんで目を離してただろうがぁっ!」
「うるさいうるさいうるさいっ! アンタ何っ! アンタ何よっ! 悪いのは子供を轢いた運転手でしょっ! なんで私が責められるのよっ!」
母親の声を受け、若い男性は顔を真っ赤に染め上げ、一度「あああっ!」と叫び、頭をブンブンと左右に振って、地面をダンと踏みしめて、今度は初老の男性を指差した。
「この人は俺の上司なんだよっ! アンタの事、ずっと小声で危ないって愚痴ってたよ! 俺も小せえ事気にしてんなって思ってたよ! だけどなっ! だけどなぁあっ!」
若い男性は地面に膝を着き「うわあああっ!」と叫んだ。ビシっと決まった真新しいスーツと、長い手足で大きな動作をしている彼の姿は、まるでドラマのワンシーンを、見ているよう。
「私悪くないじゃないっ! 私は悪く無いっ!」
母親は地面にひれ伏す若い男性の姿を睨みつけ、尚も自身を擁護し続けた。
自分は彼女のその姿を見て、思った。
彼女が抱きかかえている子供は、きっと、ロクな大人にはならないのだろうな……と。
私は悪く無い ナガス @nagasu18
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