第21話 喫茶店にて

 コーヒーカップが目の前で湯気を立てていた。

 眠っていたのだろうか。すこし疲れているのだろう。

 ここしばらく多くの出来事があったが、この一年を振り返ってみてもこれほど端末についての情報を得られたことはなかった。それらは確実に記憶にとどめる必要がある……。



 喫茶店の中は静かだった。

 窓ガラスを濡らす雨の流れは途中でその動きを止め、雨音さえ聞こえない。ここだけ時間が切り取られたかのように。

 音もなく喜緑江美里がソファに座り古泉と向かい合った。

「メールは完全に陽動作戦だったんですね? 我々の目を欺いて彼の護衛が長門さんだけになったのを狙うために。違いますか」

 空港に待機していた機関員は朝倉凉子を発見できなかった。

 やがて搭乗客不明の騒ぎが発生し、機関員は到着ゲートから去ったのだ。

 報告によれば、ゲート周辺に数人の北高生が待っていた。皆、一年五組の女子たちで、朝倉を迎えに来たのだろうと考えられていたのだが。

「おそらくあの中にも複数の端末がいたはず。朝倉が本物だった場合の迎撃要員として」

「証拠はないでしょう?」

「いいえ、あります。あなたを含め、複数の端末がこのところずっと部室にいた。それも涼宮さんの関心を引きそうな話題を提供してね。実は彼の護衛のためだった。なぜなら、あのときすでに長門さんは思念体からの指示により動けなかったからです」


「半分だけ、正解かも」

「半分、ですか?」

 喜緑江美里は、ポケットから小さな包みを取り出した。すこしばかり乱雑な包装を解いて古泉に渡す。

「急進派の手口はほんとうに巧妙だった」

「これは僕たちが作った返礼用のチョコレートですが」

「キョン君が朝比奈さんの指示ですり替えてから、わたしが部室の冷蔵庫から取り出しておいたの」

 古泉は改めて表面を眺める。やや厚めのホワイト・チョコレートに銀色のアラザンが幾何学的に周囲を覆っている。メッセージがチョコ板の中央に茶色のチョコペンで書かれていた。

「”日ごろの感謝を込めて”」

「裏を見て」

 そこには名前が書いてある。吉村美代子……ミヨキチの本名だ。

「朝比奈さんのではなく、ミヨキチさんのチョコレートを見た瞬間、涼宮さんはほんの軽いお仕置きのつもりでキョン君を投げ飛ばすの。……結果は脳挫傷。いくつかの未来では本当に死んでしまう。そこから先は言わなくてもわかるでしょう? 朝比奈さんたちは絶妙なタイミングで干渉したのね」

「ではあの子が?」


 そうなのか。

 正門にやってきて涼宮ハルヒの注意を引いたのも、あの岡本という女子を北高まで誘導したのも……ミヨキチだ。

 そもそもライブに行くことになったのは彼女が原因らしい。

 チョコレートは自分が敗れた場合を予想して手を打っておいたのか。

「ミヨキチは朝倉と同じグループの手先だった?」

「古泉君のご想像にお任せします。でも、あの手紙やメールは急進派の何らかの試行だったようなの。以前から急進派は自分たちの端末が暴走したのを深刻に受け止めていたわ」

「暴走した端末はほかにもいたようですがね」

 喜緑江美里は突然、無表情に古泉を見つめた。

 一瞬、彼女の気分を害してしまったのかと危ぶんでしまう。しかし、端末にそんな感情はないはず。

「急進派は原因究明のために、彼女の構成データから多数のコピーを作ってまったく同じ環境条件で動作させた上で解析していたわ」

「いったいどうやってですか。まさか世界を丸ごとシミュレートするわけにもいかないでしょう」

「急進派はそんな手段はとらなかったわ。だって去年の夏、世界そのものが一万五千四百九十八個も存在したんだから」


 あの夏。

 涼宮ハルヒが望んだこと。高校生らしい夏休みを求めて無限に続くかと思われた永遠の二週間。古泉の記憶では一回だけだが、長門有希だけがすべての回数を経験していた。つまり思念体もあのループの外にいた……?

「それぞれの世界で彼女の挙動を観測していたの。条件パラメーターを少しずつ調整しながら。でも、ほとんどの実験体はすぐに暴走を始めたので排除するしかなかったの」

「つまり、その中で暴走しなかった一体を陽動に利用した?」

「急進派は転んでもただでは起きないわ。結果的に朝倉凉子の最後のメールで、なぜ彼女が暴走し、長門さんに破れたのかが急進派にも理解できたの」

 喜緑江美里は、一枚の紙を古泉のコーヒーカップの横においた。

「これは彼女の最後のメール。キョン君には届けないわ。彼がこれ以上、朝倉凉子にとらわれているのは良くないことなの。だから長門さんが倒したのは朝倉凉子だと信じてもらう必要がある」



 読み終えてしばらく黙っていた古泉はやがて言った。

「実に人間的です。端末がここまで人間の心理を模倣できるとは」

「彼女は当時北高に存在した端末の中で――長門さんよりも遙かに――人間的すぎた。長門さんと同等の能力なのに、破れたのは……いえ、この言い方は正しくないわね。彼女はみずから破れる道を選択したの。それが長門さんに勝つ唯一の方法だと気がついたから」

「負けることによって、長門さんと彼の関係が強まり、それがエラーに発展するのを見越していた?」

「彼女はわかっていたんだわ。長門さんがやがて自分と同じ道をたどるのが。それほどまでに彼女は人間的だった」

「長門さんが深く関われない理由がわかりました。彼女には知らせないつもりですね」

「ええ」


 対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース。

 彼らはその使命ゆえに人間に酷似した感情を持った有機アンドロイドである。

 そのうちの一体の暴走理由を解き明かすために、一万五千以上の個体を同時に同じ環境で稼働させて、それぞれの端末が苦悩し、狂気に陥っていくさまを冷酷に観察していたとは。

 おそらく情報統合思念体と人類とは永遠に相互理解はできないだろう。そして人類と思念体の狭間で端末たちが苦しみ、もがき続けるのだろうか。


「今回のメールの送り主ですが、暴走した過去の端末とどこが違ったのですか」

「彼女は自分が情報統合思念体に作られた、という自覚を完全に取り除かれている。飛行機に乗っていたのはごく普通の人間の女の子だわ」

「しかし、空港のあの事件は」

「暴走の原因が判明した以上、続ける必要がなくなったのでしょうね。手薄になった長門さんには刺客が向かっていたし。着陸の直前、情報結合は解除されている」


 しばらく古泉は黙っていた。

 まだ一つ謎が残っている。机上の紙片を喜緑江美里に戻してから言った。

「なぜ僕にこれを?」

「同じ悩みを持つ端末は彼女だけではないの。彼女がおちいった狂気はどの端末も少なからず内在させている」

「あなたはそれを解明したい?」

「わたしたちだって任務の遂行を妨げない限り自由はあるわ」

 なぜか喜緑江美里が微かに笑みを浮かべたように見えた。

 先ほど一瞬生まれた同情のようなものを押し殺し、古泉は自分に言い聞かせる。目の前の少女はTFEI端末だ。ただの宇宙人製の操り人形に過ぎない。

 聞くべき事は聞いた。早くここから去らねば。

「ここまで話してもらったのは今回が初めてですね」

「わたしは人間がどう考えるかを知りたいの。特に事情をよく理解している人の心の動きを……」

「まさか、人間の心を読めるとでも?」

「その方が人間をよく理解できるわ」

 喜緑江美里はテーブルを回って古泉の横に座った。

 身動きできないでいる古泉のこめかみに喜緑江美里がそっと唇を寄せ、何かを呟く……古泉一樹のここ数分の記憶が虚無に流れ去っていった。

 眠りに落ちた古泉を置いて、有機アンドロイドはエプロンのしわをちょっと直してから立ち上がった。

「わたしは“素のまま”の古泉君のほうが好きなの」




 ……まどろみの中から古泉は目を覚ます。

 コーヒーカップが目の前で湯気を立てていた。

 テーブルの伝票立てに紙片があり、ウェイトレスの小柄な背が厨房ちゅうぼうに消えようとしている。

 少し眠っていたようだ。疲れているのだろう。

 ここ数日、多くの出来事があったような気もするが、それらは永久に記録に残らないまま終わるだろう。……そんな気がした。

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