第4話 観桜

 背後でドアが開いた。

 職員室から姿を現したのは、喜緑江美里さんだった。

 儚げな存在感と穏やかな笑みで思わず警戒を解いてしまうが、俺はこの人が普通の生徒でないことを知っている。

 古泉の話ではこの人は長門のお目付役らしい。

 ハルヒのずかずか歩きとは対極にある緩やかな動きでいつの間にか俺の間合いに入って、ちょっとばかりどぎまぎする。

「涼宮さんは部室におられますか」

 二年生なのに俺になぜ敬語なのかわからないし、放課後のハルヒの所在といったら部室以外にはないだろう。つまり社交辞令というやつか。

「ハルヒに用でもあるんですか」

「先月、資料をお貸ししたでしょう? そろそろ返却願えないかと」

 そうだった。

 先月の文芸誌騒動の真っ最中に、敵前視察かどうか知らないが生徒会長が喜緑さんをお供にやってきて、昔の文芸部が作ったバックナンバーを資料として置いていったんだっけ。

 ま、借りたものを返却するだけならいいだろう。

 俺は部室へと向かったが、喜緑さんは控えめに俺のすぐ後ろについてくる。

 ……彼女は視界の外に出ると本当に気配を感じなくなる。



 ドアを開けた俺の後から遠慮がちに顔を覗かせた彼女を認めたとたん、ハルヒの表情は硬くなった。

 生徒会長が続いて侵入するとでも考えたのだろう。喜緑さんが丁寧にドアを閉めてこちらに向き直ると少し警戒を解いた。

「なんの用?」

「生徒会長のご指示でこちらに参りました」

 喜緑さんはゆっくりと頭を下げる。左右に分けた髪がゆれて、まことに優雅だ。

「あなたを糾弾するつもりはないけど、あいつはなんて言ったの」

「先日お貸しした資料を返却願えないか、とおっしゃっています」

「あいつはそんな丁寧な言い方をしないはずよ」

 喜緑さんは何も答えない。穏やかな表情のままドアの前に立っている。

「ま、いいわ。キョン、返してあげなさい。あとで因縁つけられるのもイヤだし。あたしは借りも弱みも作らない主義だから」

「俺もどこにあるのか知らないんだが」

「じゃ探しなさいよ」

 しかたなく、俺は立ち上がって、本棚に向かう。



 俺が最初の本を広げるのと同時に、ピッチの早いノックの連打が室内にこだまし、ドアが勢いよく開いた。

「いやっほーい。おやっ? なんと殿方はキョン君だけかい? こりゃお邪魔したかなっ?」

 一陣の風とともに部室に到来したのは鶴屋さんである。ここに来るのもずいぶん久しぶりだ。

「いらっしゃい、鶴屋さん」

 鶴屋さんは俺たちSOS団とは距離を置きつつも、ときおりその姿をあらわしては風通しを良くしていく、実に奇特な人なのだ。

 机の上に忽然と湯飲みが出現した。

 この頃は朝比奈さんもすっかり給仕技術を上げて、ほとんどマジックに近い。それを当たり前のように飲み干す鶴屋さんは自然と話題の中心になり、ちょっと思わせぶりな間を置いて言った。

「もうすぐ春休みにょろ? 毎年、ちょうどいい塩梅でうちのソメイヨシノ君が咲くんだよねっ。で、盛大にお花見する予定なのさっ! はるにゃんたちも来ないかい?」

「それはもう、喜んで参加させてもらうわ!」

 ハルヒは先ほどの少々イラついた雰囲気が吹っ飛んで、声に張りが出る。

「キョン君はもちろん来るよねっ? そこの生徒会書記さんも来ちゃいなよ。ウチの庭は広いから何人来ても大丈夫さっ」

 喜緑さんは軽く礼をして参加表明したが、彼女が生徒会長を連れてこないことを俺は祈った。鶴屋家でハルヒが大立ち回りすることだけは阻止せねばならん。


 とにかく、これで春休みのイベントは決まった。

 鶴屋さんのおかげで知恵を絞らずにすんでほんと助かる。これで少しは古泉も楽になるかもしれない。

 願わくば観桜の会が盛大に執り行われ、ハルヒの散発的な焦燥が消えるといいんだが。

 考えてみれば、俺と古泉二人で女子三人だった。今は俺一人に女子五名、部室の中がぱっと華やいでいる。

 ハルヒは性格はアレだが、桁外れの美形だし、朝比奈さんは言わずもがな、長門にも校内でコアなファンがいるという。鶴屋さんだってはっきり言って平均以上の容姿と言っていい。

 ただ、喜緑さんはよく解らない。

 彼女は去年のカマドウマ事件で初めて俺たちの前にその姿を現したんだった。

 俺は、校内にこんな物静かな女子が存在するのを知らなかった――あの谷口の校内美形ランキングにもその名がない――し、出現は唐突すぎた。

 生徒会の改選のあと、古泉にすら感知されずに生徒会筆頭書記として生徒会長に付き従っている。


 鶴屋さんとハルヒがお花見計画を鋭意検討中で、参加者は風雅な和服をまとう事にしたらしい。朝比奈さんは着物をどうしよう、とか言っている。

「キョン、あんた春物の着物は一着ぐらいもってるわよね?」

 春でも秋でも持ってねぇよ。いまどきの高校生で普段着が和装なヤツなんかいないだろう。

「だったら用意しなさいよ。それともあたしが選んであげよっか」

 いや、いい。いつもならここで古泉が間にはいるところだが、仕方がない。

 わかったよ。なんとかするから。

「それと来週、大事なイベントがあるのを忘れないようにね」

 ハルヒはなぜか挑戦的な目で俺を見つめた。

 いったい何の話だっけ?

 気づけば長門と喜緑さんを除く三人の視線が俺に集中している。

 

 鶴屋さんがいきなり高らかに笑い出した。

「キョン君も役者だねっ! ハルにゃん、そういうことにしといてあげれば? あたしもあやかりたいっ!」

「これだけ言って理解できないなら、前日に教えてあげるわ。痛覚刺激でね」

 あきれ気味の台詞を吐いたハルヒがカバンを持ち上げるのを合図であるかのように、女子どもは散会の運びとなった。



 玄関を出て、正門に向かう短い坂道を下っていく。

 夕日が坂道に落とす影の数は、いつもの集団下校よりずっと賑やかだ。

 ハルヒと鶴屋さんは先頭を切って、観桜の会をいかに盛り上げるかで盛り上がっており、わずかに遅れて話題について行こうとする朝比奈さんが続き、少し間を開けて俺と長門が並ぶが会話はなく、しんがりは喜緑さんが黙ってついてくる。

 正門の花壇を通り過ぎた頃、下校中の数人の男子がこちらをガン見しているのに気がつく。

 現在の俺は両手に花どころか、花壇のど真ん中といっていい。間違いなく校内美形ランクの上位に君臨するであろう女子集団の中に野郎一人だ。急にこっぱずかしくなってきた。

 この集団の中の一人に熱烈に懸想けそうしている男子がいるかも知れない。そうなったら俺は憤怒の焦点というわけで、嫉妬に狂ったヤツがいきなりナイフで、なんてな。


 ……縁起でもない。

 おもわず不快な記憶を再生してしまった。

 俺は正月明け早々、大小二人の朝比奈さんと長門二人といういささか錯綜した状況下で、あいつとは完全に縁を切ったのだ。

 朝倉凉子は誰からも好かれていた。いまだに彼女の転校がたまに話題になるくらいだ。彼女は心優しい委員長として、いわば一年五組の女王だった。でも、朝倉の美しい優等生としての顔の下に隠されたもう一つの顔は俺の中に深く刻み込まれている。


 俺の横に並んで歩く長門だって、過去には全く違う顔を見せたんだ。朝倉があんな手段さえとらなければ一年五組を引っ張っていく委員長のままでいられたのではないだろうか。


 もしかして……。

 朝倉が「転校」してしまったのは、退屈のあまりミステリーを望んだハルヒの意思によるものだとしたら?

 同じクラスに「女王」は二人いることはできない、のか。


 考えが踏んではいけないような未踏領域にさしかかった、まさにそのとき、

 ぽすん。

 俺の背に喜緑さんの頭が触れた、一瞬というには少し長い時間、俺は背中の体温を感じていた。なんだこれは?

「あ、ごめんなさい。考え事をしてました。よくあるんです」

 真っ赤に頬を染めて、喜緑さんが小さく言った。どうやら俺は足を止めて考え込んでいたらしい。

「謝るのは俺のほうです。すみません」


 再び歩みを進める俺と喜緑さんを、長門は足を止めて待っていた。


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