名探偵の倒し方
城島 大
プロローグ 彼女は稀代の名探偵
この世には名探偵と呼ばれる輩がいる。
そいつがいるところでは必ず奇怪な殺人事件が起き、斬新なトリックが繰り出され、悲劇的な犯人が全てを告白して最後には自殺する。
しかしどれほど優秀な頭脳を持っていようと、事件に遭遇しなければトリックを暴くことはできないし、犯人を指摘することもできない。極論を言えば、たとえ能力のない人間であったとしても、事件に遭遇し、偶然であろうと解決することができれば、その人間は名探偵足り得る。
要するに、名探偵である条件として何よりも重要なのは事件に遭遇することであり、優れた頭脳は付加価値でしかないのだ。
「──という仮説をたててみたんだがどう思う?」
彼女はロッキングチェアの上で、偉そうに足を組みながらそう言った。
「……どうと言われてもね」
つらつらと述べられたそれを前に、僕はもはやため息すらでなかった。
インバネスコートと鹿打ち帽に身を包み、クレイパイプを片手に横柄な態度を示す小柄な彼女は、僕の呆れた顔を見ても何ら湧き出て来る感情はないらしく、気にする風もなく椅子に背中を預けている。
「だいたいさぁ。探偵ってなんか偉そうだと思わね? 自分だけが真実を知ってるからって我が物顔で容疑者全員集めてさ。あろうことか大勢の人間がいる前で犯人を名指しするんだぜ? プライバシーの侵害だろ」
殺人という行為にプライバシーというものがあるのかどうか僕には甚だ疑問なのだが、彼女は何とも思わないらしい。
「堅物だとかトリックにしか興味がないとか、いろんな探偵いるけどさ。結局その本質は目立ちたい願望なんだよな。あるいは自分の頭脳をひけらかしたい願望?」
「それは君の勝手な妄想で──」
彼女は唐突にパイプをくわえると、僕に向かってぷっとそれを吹いた。中に入っていた火の粉が宙を舞い、ぽとりと僕の腕に着地する。
「あつぅっ!!」
僕は思わず飛びのいた。
「君じゃねー。オレのことは崇拝と尊敬の念を込めてジョーさんと呼べ」
意味重複してるし……。
しかしそんなことを指摘した日には、烈火のごとく怒り出すに違いない。曰く、文章なんて意味が伝わればそれでいい、だ。
まったく売れてないとはいえ、一応は作家と呼ばれる職業についている人間の言葉だとはとてもではないが思えない。
「とにかく、オレは探偵が嫌いなの」
この人は、自分が唯一出版した本が探偵ものだということを忘れているんじゃないだろうか。
そもそも、本当に嫌いならシャーロック・ホームズのコスプレなんか絶対しない。
「これは探偵に限った話じゃない。どいつもこいつも、自己承認欲求の塊みてーな態度ばっか取りやがる。それが人間として正しいあり方ですとでも言いたげにな。オレはそれが気に入らねー」
「また社会に文句を言いたい病? 僕に言うのはいいけど、SNSとかで主張するのはいい加減、止めたらどうかな。敵を作るだけだと思うんだ」
「いーや、言う。誰かが正しいことを主張しておかないと、世の中はどんどん間違った方に進んでいくんだ。オレが世の中を正してやるんだ」
そんなことをぶつぶつつぶやきながら、ジョーさんはキーボードを叩き始める。その姿は狂気に満ちているとしか言いようがない。
「そんな馬鹿なことをしてる暇があるなら、いい加減プロットの一つでも完成させてくれないかな。ジョーさんが大筋のプロットを決めてくれないと、執筆担当の僕は暇で仕方ないんだ」
「それが詰まってるからこうやって意見を交わしてんだろーが! 馬鹿なの!?」
最近、彼女はこうやって人を馬鹿呼ばわりするようになった。
前は滅多にそういうことは言わなかったのに。口の悪い有名人ばかり追いかけてニコニコ動画やYOUTUBEを観ているせいだと僕は密かに思っている。
「売れてないくせにネタまで詰まるなんて……。お先真っ暗だとしか言いようがないな」
「は? そう思う根拠を言ってくれませんかね。売れてようが売れてまいがネタに詰まることもスランプに陥ることもあると思うんですが?」
どうやら、変な地雷を踏んでしまったらしい。
「だいたいお前がSNSを管理しないから、オレが貴重な時間を割いて更新してるんだろうが。こういうのはお前の役目だろ」
「面倒くさいことをなんでもかんでも僕に押し付けるのはやめてくれって前にも言っただろ。それに僕はああいうのは苦手なんだ。作家は作品で語ればそれでいいんだよ」
今はその作品すら満足に出せていないが。
「古いんだよお前の考え方は。今はとにかくアピールしたもん勝ちなの。有名な編集者さんも言ってただろ。とにかく作品を書いてブログやツイッターを更新して、世の中との接点を増やすべきだって。そうすりゃいずれ口コミで人気が出て、賞なんか取らなくても向こうから本を出させてくださいって寄って来るようになるんだ。時代はブランディングなんだよ」
さっきまで自己承認欲求がどうとか言ってなかったか?
「とにかくツイッターでつぶやきまくって、ブログを更新しまくるんだ。そしたらオレ達の夢である城島ランド建造にまた一歩近づくことができるんだ」
そう言って、背中を丸めて再びキーボードを叩き始める。
つくづく思うが、彼女は少し大言壮語が過ぎる。僕までそんな荒唐無稽な夢に巻き込まないでほしい。
「あ」
唐突に、ジョーさんが素っ頓狂な声をあげ、まじまじと僕を見つめた。
「炎上した」
「なにやってんの!?」
◇◇◇
照りかかる太陽を見上げ、僕は何度目かも分からないため息をついた。
僕が必死になって先方に謝り火消しを行っている中、当の本人はブラウザゲームに夢中で何を言っても上の空だった。しまいには逆切れしてきて「ネタの一つでも探して来い!」と、この炎天下の中放り出されたのだ。
どうして僕が足を棒にしてネタ探しなんてしなくちゃいけないんだ。だいたい、ネタが自分の頭の中にない奴は作家じゃないと豪語していたのはどこのどいつだ。
そんな文句が僕の頭の中を渦巻くも、しかしそれはすぐに収まった。
こんなことは今に始まったことじゃない。もはやそういったことに対する怒りも大して湧かないほどに、僕は彼女という存在を達観し始めていた。
しかし、ジョーさんから下された指令については、少々頭を抱えなければならない。小説に使えるネタを探して来いと言われても、そう簡単に見つかるはずもない。
しかし見つからなければ、お得意の逆ギレで脛辺りを執拗に蹴ってくることだろう。
「さて、どうしたものか」
そんなことをつぶやいた時だった。
ドシャ
僕の目の前に、何かが降って来た。
つんと、錆びた鉄のような臭いが鼻につく。
僕はゆっくりと“それ”を見下ろした。
三十代前後の男性だろうか。スーツ姿で、通勤ラッシュなどで普通に見かけるこれといった特徴のないサラリーマン。
そんな男が、頭から大量の血を流して倒れていた。
目を剥き、あんぐりと口を開けてぴくりとも動かない姿を見れば、死んでいると判断するのに時間はいらなかった。
僕は上を見た。
ちょうど四階建ての小ぢんまりしたオフィスビルがあり、屋上にある手すりの一部が、開き戸のようにぶらぶらと揺れている。
僕はかねてから、事実は小説よりも奇なりという言葉が嫌いだった。
奇をてらったものが、奇をてらわないものよりも驚嘆を以て迎えられるというのは印象論であって、事実に即したものではないと思うからだ。
しかし今、その信念のようなものが若干揺らぐほどには、僕は驚いていた。
生きていて、目の前から人が降って来る機会に恵まれる人間が果たしてこの世に何人いるだろうか。幸運、もしくは不幸にも、僕はその奇跡的な偶然に選ばれたのだ。
「この子が犯人よぉ!!」
……補足しよう。
目の前から人間が降って来る機会に恵まれ、かつ殺人事件の犯人呼ばわりされる人間が、果たしてこの世に何人いるだろうか。
まさしく、事実は小説よりも奇なり、だ。
◇◇◇
「僕は犯人じゃない」
駆けつけて来た野次馬達に対し、僕は弁明した。
「でも彼の近くにはあなたしかいないじゃない! あなた以外に誰が殺したって言うのよ!!」
僕は思わずため息をついた。
何度説明しても分かってくれない。
ヒステリックに叫ぶ小太りの中年女性は、今明らかに感情的になっていて、僕の言葉は鼻から聞いていないようだった。
「あなたの理屈には可能性が一つ抜けている。これは事故です」
「事故!? たまたま殺してしまったとでも言うの!? だから最近の若者は──」
何故そこで最近の若者論に飛びつくのか、甚だ理解できない。
「だいたい、あなたは最初の行動からおかしかったわ! 私、ちゃんと見てたんだから。あなたが自分のスマートフォンで救急車じゃなく、警察を最初に呼んだところをね。あなたは既に彼が死んでいるのをよぅく知っていたのよ。あなたがその手で彼を殺した時にね!!」
してやったり、という顔でその女性は笑みを浮かべている。
作家にとって、主人公を知恵者に演出する方法というのは些か気を遣うものだ。
全てを表現する存在が作家である以上、自分よりも知恵のあるキャラクターは書けない。しかし状況によってはそれを書かなければならない。その時に作家が用いる一番簡単な方法が、最初から全てお見通しだったというものだ。
どれだけ簡単な事件でも、きちんと証拠が出揃っていない内から結論を導く人間がいれば、読者は知恵者だと思ってしまう。
要するに物語上の知性というのは演出の問題だという話なのだが、あいにくと僕はこのテンプレート化された嘘っぱちの知性の演出が死ぬほど嫌いだった。
そして今回、その感情が助長されたことは言うまでもない。
その中年女性は僕が反論しないのを良いことに、突拍子のない理屈をガミガミと口うるさくしゃべっていたが、もはや聞く気すら起きなかった。
これはもう警察が来るのを待った方がいい。そんな風に僕が諦観し始めた時だった。
「それは違うデス!!」
唐突に何者かの叫び声が聞こえ、僕はそちらへ振り向いた。
野次馬の中に、ひと際存在感を放つ美女が一人。
長い髪をゴムでくくり、胸には真っ赤な蝶ネクタイ。アニメのコスプレのようなインバネスコートには僕もよく馴染みがあった。
彼女はゆっくりとこちらに歩を進め、言った。
「彼は犯人ではありません! その死体の血の跡を見ればわかることデス!!」
「血の跡……?」
野次馬達が、まじまじとそれを見つめる。
倒れ伏した死体は、頭部を中心に血をまき散らしている。
「こんな跡になるのは、被害者を地面に叩きつけなければできません! これは明らかにこのビルの屋上から落下してできたものデス!」
途端にざわめきが起こった。
先ほどまでよく分からない怒りで顔を真っ赤にしていたおばさんまでもが、「本当だわ……!」と口元に手を当てている。
僕の正直な感想はというと、なんだこの茶番は……? だった。
元々彼女の主張は僕を犯人とするにはあまりにも根拠が薄かったし、これが事故死であることは屋上の手すりの状況を見れば誰にでも分かることだ。
だというのに、皆が彼女は天才だと言わんばかりに驚愕の目でこのコスプレ少女を見つめている。
「き、君は一体……」
誰かが発した紋切り口調のセリフに、僕はなぜか先ほどジョーさんから聞かされた言葉を思い出していた。
自己承認欲求の塊。人々の目を無闇に引きつけ、自分の頭脳をひけらかさずにはいられない存在。
彼女は意味深ににやりと笑い、高らかに自己紹介してみせた。
「ミーの名前は金田川コナー! 泣く子も黙る名探偵デス!!」
……はっきり言おう。
僕はこの女性に対して、生理的嫌悪を覚えていた。
論理的根拠のないあまりにも漠然とした、しかしあまりにも明確な不快感に、僕自身戸惑いを覚えるほどだ。
このコナーという女性は、にんまりと笑いながら僕の元へやって来て、ぽんと肩を叩いた。
「いやー、災難でしたね。ミーがいなければ、危うく犯人にされるところデス」
いや、別に困っていたわけでもないけど。警察が来ればすぐに分かることだし。
しかしここでそんな正論を言うのも人としてどうかと思ったので、素直にお礼を言っておいた。
「君はその……本当に探偵なの? 事件に介入して、警察に助言する、あの?」
「そうデス! 孤島に行けば嵐が起き、雪山の別荘に行けば大雪が吹き荒れる、あの名探偵デス!!」
それはかなり特殊なやつじゃないのか?
しかし探偵本人が言うのだから、そうに違いない。
「へぇ。美人探偵ってわけか」
コナーの顔が、にわかに赤くなった。
「バ、バーロー! そんなんじゃねえやい!」
……何故江戸弁?
聞けば聞くほど、喋れば喋るほど、説明しがたい違和感がじわじわと僕の心に広がっていく。
それなりに人間観察には長けていると自負している僕だが、彼女については一向に本質が見えてこない。
この違和感は、そう……。
まるで、有名キャラクターをつぎはぎにしてできた、不出来なキャラクターを見せられている時のような……。
「はい、ちょっとどいて。警察です」
その言葉に僕はハッとした。
ようやく警察が到着したのだ。
警察というだけあって殺人事件という非日常にも慣れたもので、今まで無秩序だったその場を彼らは瞬時に整理していく。
僕は一応第一発見者ということで、色々と話を聞かれることになった。見ると、僕に文句を言っていたおばさんも警官から事情聴取を受けているようだ。僕の方を見て指をさしたりしているところを見るに、また訳の分からないことを吹聴しているのだろう。
コナーはというと、二言三言警察と話をすると、途端に方々から敬礼を受けていた。
どうやら、名探偵というのは自称というわけではないらしい。まだちゃんとした鑑識が済んでいないにも関わらず、べたべたと死体に触っている。
あんな不用意な触れ方で大丈夫なのか? と、素人ながら少し心配になってしまう。
どうやら僕と同じ気持ちの人間も少なくないらしく、鑑識官と思しき人たちは総じてそわそわしていた。
僕が彼女を尻目に発見時のことを説明していると、事件があったビルから二人組の私服警官が出てきた。どうやら先に中に入って屋上を調べていたらしい。
彼らは第一発見者が僕だと分かると、まっすぐこちらへ歩いて来た。
一人はいかにもなコワモテの中年男性で、もう一人はどちらかというと頼りなさそうな若い男だ。
僕から話を聞いていた警官は二人に敬礼すると、何も言わずに去って行った。
「どうもはじめまして。私は島田と言います。こっちの若いのは笹草。よろしく」
最低限の礼を失さない程度の笑み。本当はこういう社交辞令みたいなものが大嫌いなのだろう。
僕も同じタイプだから、気持ちはよく分かる。
「君が第一発見者だね。二度手間になって申し訳ないけど、もう一度話を聞かせてもらえないかな」
警察の事情聴取では同じ話を何度もしなければならないということを、何かで読んだことがある。
何度も話すことで忘れていた事実やどうでもいいと思っていた重要な事柄を漏らす可能性があるとかなんとか。
それを知っていたため、僕は快くそれを了承した。
「はい。と言っても、あまりお話できることはありません。僕がこの道を通っているときに、突然彼が落ちてきて」
「落ちてきた……。あの屋上から?」
島田刑事が上を指さした。
「直接見ていないから何とも言えません。おそらくそうだとは思いますが」
「なるほど」
「ちょうど彼が落ちて来て僕の視界を遮ったんです。それまではまったく何の気配も感じませんでした。落ちて来てからはしばらく思考が停止してしまっていたので、上を確認するのも遅れました。ですから、もしかしたら誰かがいたかもしれません」
「自分自身は怪しい人物を見ていないと?」
「そうですね。あ、強いて言うなら……」
僕は島田刑事の後ろをのぞき込むようにしてみせた。
島田刑事がつられて背後を見ると、にこにこ笑うコナーの姿があった。
「捜査が難航しているようなら、ミーが手助けしますよ」
「……君は?」
「ミーの名前は金田川コナー。名探偵デス!!」
島田刑事はぽかんとしている。
それを見て、笹草刑事は驚いた顔をみせた。
「知らないんですか? この子、難事件を次々と解決してる名探偵ですよ。通りがかりに四つ墓村で起きた凄惨な連続殺人事件を解決したり、怪しげな薬を開発していた白の組織を壊滅させたり」
「あー……なんか聞いたことあるような」
奇遇だな。僕もどこかで聞いたことがある。
島田刑事はこめかみをペンで掻きながらため息をついた。
「……笹草。聞いとけ」
「は、はい!!」
面倒事はお前の仕事だと言わんばかりの命令だった。
華麗に無視されたことでコナーは不服顔だったが、笹草刑事がなんとかそれを取り持っている。
どの業界も下の人間は大変なんだなと、僕はしみじみと思った。
「彼女は君の知り合い?」
「いえ。周囲の人間に何故だか僕が犯人呼ばわりされ始めて、それを彼女が助けてくれたんです。さっきは怪しい人間と言われたので彼女を挙げましたが、犯人である可能性は低いと思いますよ。彼が落ちて来てからビルに入った人間も出てきた人間もいませんし、彼女は群がって来た野次馬の中から現れましたから」
「君、以前にも事情聴取を受けたことが?」
「? いえ」
「そう。いやね、事情聴取で意外と厄介なのは、主観的な情報から客観的事実を見つけ出すことなんだよ。君はその辺り、心得てくれているようだから」
「ああ。僕、一応小説家なんで、そういうのは得意なんです」
「ほう。若いのにそりゃすごい」
目は一切こちらを見ていない。
作家になって分かったのは、案外人は目の前にいる人間が小説を書いていても、大した関心はないということだ。
「一冊出てそれっきりの売れないミステリー作家ですけどね」
島田刑事は少しだけ目を細めた。
ああなるほどねと、僕は島田刑事の心情を察した。
「警察の捜査を邪魔する気はありませんよ。フィクションと現実の区別はついているつもりです」
それを聞くと、島田刑事は安心したようにうなずいた。
分かりやすいことだ。まあ、警察にとってそれが一番重要なことだというのは理解できる。
探偵が主役のミステリー小説では探偵を秀でたものにするため比較対象である警察は無能扱いされがちだが、元々警察……特に日本警察というのは優秀なのだ。
「まあ、まだ断言はできないが、今回の事件はおそらく事故だよ。ここは既に取り壊しが決定した廃ビルでね。さっき調べたが、持ち主であるこの被害者以外には誰もビル内にはいなかった。そんなわけだから、あまり小説のネタになるようなものはないと思うよ」
それは残念です、というのも不謹慎なので、僕は苦笑で返した。
まあでも、実際そうだろうなと、僕も彼の意見に賛成した。
男性の遺体に争った形跡は見られない。仮に他殺だとしても、叫び声なりなんなりが聞こえてこないのはおかしいし、島田刑事の言うように建物にこの人物しかいなかったのなら、これはもう確定的だ。
今にも落ちて来そうな宙ぶらりんの手すりを見るに、ぼんやりと手すりに体重をかけたところで、老朽化した手すりが壊れ、そのまま落下してしまったのだろう。
警察が調べているのだし、おそらくその壊れた部分にも作為的なものはない。
これを殺人と呼ぶ人間がいるとしたら、よほどひねくれた人間か、よほど殺人を望むレアな人間だけだろう。
そこで僕は、ん? と思った。
そういえば、この場ではそんなレアな人間がいたような……
「これは殺人デス!!」
突然、そんな声が轟いた。
何故だろう。自分のことでもないのに、僕は恥ずかしさから額に手をやっていた。
「おい嬢ちゃん。さっき殺人だって言ったな? 探偵だか何だか知らないが、素人が妙な口を出すのはやめて欲しいね。そもそも、この事件のどこに殺人の要素がある? 根拠が何もないだろ。ミーハー根性以外は何もな」
「根拠? 根拠ならありますよ」
コナーはそう言って、自分自身を指さした。
「何故なら、ミーが名探偵だからデス!!」
「は?」
その場にいた全員の声が、見事にハモった。
「ミーの行くところ、起きる事件は全て殺人事件と相場が決まっているのデス!!」
「馬鹿なのか、お前?」
これほどまでに、僕の心情を代弁してくれる言葉は存在しないだろう。
島田刑事の言う通り、彼女はまさしく馬鹿だとしか思えない。そんな理屈が成り立つなら、もはやその事件の犯人は名探偵金田川コナーその人だろう。
「まあしばし時間をください。ミーがぱぱっと事件を解決してみせましょう。神羅万象、この世の起源を生み出した創造主の名にかけて!!」
名前を賭けているのに名前を言わないこの矛盾。
詐欺にも程がある。
さて、と僕は改めてこの事件について考えてみることにした。
無論、彼女の言うように殺人の可能性があるかどうかを、だ。
問題となる点は壊れた手すりだろうか。確かに誰かが押して手すりごと落下させようとした可能性はないとは言えない。
しかし先ほども確認したように、被害者に争った形跡はない。刑事が言うところには手すりや屋上周辺にもそういった痕跡はなく、そもそもこのビル内には被害者以外の人間はいなかった。
もしかしたら自殺の可能性もあるが、遺書はないようだし、手すりを登ろうとしたり身なりを正したような形跡も島田刑事の言葉を聞く限りではないようだから、少し考えづらい。
となれば、やはり事故だったということになる。
しかし、別に殺人事件として考えることができないわけではない。しがないミステリー作家としての見地から言えば、殺人事件にしようと思えば、いくらでもこじつけることはできるだろう。
物的証拠がないのなら、物的証拠が残らない殺人事件を“思いつけばいい”だけだ。
しかしそれが果たして真実なのかというと、答えはノーだ。先ほども言ったように、現実とフィクションは違う。
面白さを重視してこじつけることのできるフィクションと違い、現実に必要なのは真実性だ。証言、証拠、様々なものを有機的に結び付け、より真実らしいものが真実となる。
そのあまりにもこまごまとして、あまりにも面倒臭いものの集大成が、現実世界では何よりも大切なことなのだ。
もしも僕がこの事件を小説にするならどうやって殺人事件にするかな、などと完全に思考が逸れてしまっていた僕を、コナーの叫び声が現実へと引き戻した。
「ピキーン!!」
……これはあれだろうか。
漫画やアニメでよく出て来る、何かを思いついた時に頭部を走る謎の光線。
しかしまさか、それを口頭で表現する人間がいようとは夢にも思わなかった。
「なぞは全て解けた!」
びしりと、コナーは誰と言わず指を差す。
刑事達が痛い子を見るような目つきをしている中、これは面白いと僕は思った。
お世辞にも頭の回転が速いわけではない僕だが、一通り事件の概要を見たうえで、おそらく事故だろうと判断を下した。これが殺人であるからには、このどこかに殺人である根拠が隠れていることになる。
もしもそれをすんなりと見つけることができたなら、まさしく彼女は名探偵といえるだろう。
この謎を聞いて地団太を踏むことになるのか、膝を打ってさすがだと褒めることになるのか。ミステリー小説を読んでいる時のような期待感に包まれ、僕は人知れず興奮していた。
「今回の事件の特徴は、決定的証拠というものが存在しないことにあるでしょう。しかしそれは、逆を言えば、その証拠を誰かが隠したということに他なりません!!」
……は?
おおー、と野次馬からの歓声が上がる中、僕は目を瞬かせた。
「……いや。いやいや、ちょっと待て」
コナーはきょとんとして僕を見つめた。
「それは殺人が起きたことが大前提の話だ。この事件が事故である可能性を消去しないうちからそれはなしだろ」
「なんでデス?」
「なんでって……」
そんなことしたら読者から袋叩きにされるからだ、とは言えず、僕は熟考してから口を開いた。
「君が殺人事件として犯人を追及したいのであれば、それが殺人である確たる証拠を突き付けないと誰も納得しないからだよ」
「証拠デスか。分かりました! じゃあそうします!!」
そうします?
一体何を言っているんだと僕が疑問を返そうとした時、思わず息をのんだ。
コナーの片方の目が明らかに異様だった。
瞳孔が開き切り、ぎょろぎょろと獲物を探す怪物のように瞳を動かしている。その口は裂けんばかりに口角が上げられ、薄気味悪い笑みを構築している。
ずず、ずずずず
何かが這いずるような奇妙な音が聞こえる。僕はその音のする方へ眼を向け、ぎょっとした。
未だ地面に倒れ伏す死体。その死体と地面の間で、何かが蠢いていた。まるでミミズの集合体のようなそれは、何かを啄むように身体をうねらせている。
……いや、違う。
これは啄んでいるんじゃない。融合しているのだ。
ミミズとミミズが合わさり合わさり、徐々に物体になっていく。
ここからではそれが何なのかは分からない。
しかし、それがどういうものなのかは自然と分かった。
僕の心臓が早鐘を打っている。
先ほどまでの期待と不安からくるものではない。明らかな恐怖が、僕の心を支配していた。
ヤバイ。何か分からないがこれはヤバい!!
「証拠は今作りました!! なので、犯人当てと行きましょう!!」
そう言って、彼女は人差し指で天を指した。
「じゃあいくよ!! は・ん・に・ん・は~??」
そうだ。犯人はこの中にいる。
つまり、その容疑者の中に僕も含まれているということだ。
もしも。もしもだ。
さっき言った彼女の言葉が比喩でも何でもなく、嘘偽りなく本当に“証拠を作る”ことができるのだとしたら。
さっき見たものが幻覚などではなく、現実なのだとしたら。
証拠品を生み出すような力を持つ名探偵が犯人を指摘すれば、その人物は何があろうと犯人になってしまうのではないか。たとえその人物が冤罪だったとしても……。
せわしなく動く眼球と、目が合った。
僕の方へと彼女の指が傾いていく。
僕は思わず息をのんだ。
「お前だ!!」
指差されたのは僕……ではなく、その隣にいた島田刑事だった。
「……は? 俺?」
思わず自身を指さし、島田刑事は首を傾げた。
「このビルには人がいない。デスが、それは捜査に来た刑事たちを除いた場合だけ。島田刑事は元からこのビルの中に潜んでいたのデス。事件の概要はこうデス。島田刑事は被害者と何らかの接点があった。突発的なことなのか計画的なことなのか、それは分かりませんが、とにかく島田刑事は彼を殺すことに決めた。屋上まで誘き出し、銃で脅しながら老朽化した手すりへと誘導していく。おそらく、あらかじめちょっとした負荷で外れるようにしておいたのでしょう。彼が恐怖のあまり手すりに体重をかけると、そのまま手すりが外れて落下。あとは簡単。警察がやって来るまでビル内に隠れておき、捜査が始まれば何食わぬ顔でこっそりと混ざれば、完全犯罪の完成デス」
「おい待てよ。そりゃこじつけってもんだろ。だいたい、オレは笹草と一緒にこの現場へ向かったんだぜ? そうだろ、笹草」
「は、はい! 先輩は無実です!」
「なるほど。うまく後輩を懐柔したようデスね」
「だから違うって」
島田刑事はあきれ顔だ。
僕だって、このやり取りだけを見ればそう思っただろう。
しかし僕は見ている。あの死体に、何かが生み出されるのを。
「……島田刑事。笹草刑事以外にそれを知っている人間は?」
「おいおい。君まで何を言い出すんだ? もう少し理性的な人間かと思っていたが……」
「僕も今の今までずっとそう思っていました。あんな奇術めいたものを見せられるまでは」
「はあ?」
僕はちらと死体から覗き見える物体に目をやった。
島田刑事は目ざとくそれを見つけ、まじまじと僕を見つめる。
冷や汗が止まらない。そんな僕を見て、ようやく真面目な話をしていると理解してくれたようだ。
「アリバイを証明してください。じゃないと、何が起きるか分からない」
笹草刑事は困惑しながら僕と島田刑事を交互に見ている。状況の推移についていけていないようだった。
「……ちょうど巡回中に召集がかかった。笹草以外にアリバイを証明できる人間はいねえ」
「無線は? 無線で応答したりは?」
「笹草が出た。オレの声は一デシベルたりとも入ってねえだろうよ」
「誰か! 島田刑事がビルに入った瞬間を見た人はいませんか!?」
警官達は訝し気な目で僕を見つめている。
どうやら誰も見ていないようだ。
これも彼女の能力か? だとしたら、本当にとんでもないぞ。
「おい、ちゃんと事情を説明しろ。何が起こってる。いや、何が起きようとしてる?」
「僕にも分かりません。でも、だからこそ恐ろしくてたまらない」
島田刑事の額から、冷や汗が流れる。
これが刑事の勘というものなのだろう。
彼も直感的ながら、これからどうなるかを漠然と理解しているらしい。
名探偵に犯人だと指摘されれば、どうなるか。
「ど、どういうことですか、島田刑事? 一体、何を言ってるんです?」
「……笹倉。オレに何か起きたら、お前がこの女をしょっぴけ」
「は?」
「ミーの推理には証拠もあります!! 笹倉刑事! 改めて死体をちゃんと調べてみてください!!」
笹草刑事は困惑しながらも、コナーの言う通りに死体を調べ始めた。
すぐに、彼はコナーの生み出した何かを見つけ、それを取り出した。
笹草刑事は驚愕する。
それは、島田刑事の警察手帳だった。
「馬鹿な! オレの手帳はここに……!!」
懐を弄る島田刑事の顔が、みるみる青くなる。
にんまりと、コナーは笑った。
「ここに? どこにあるんデス? ミーにも教えてくださいよ」
こいつ……!!
島田刑事が銃を取り出し、コナーにそれを向けた。
「島田刑事!? 何をするんです!?」
「止めるな!! ムショにぶちこまれようと死刑になろうと構わねえ! こいつはここで殺さないとやばい!!」
島田刑事の決断は早かった。
何の躊躇いもなく、彼は引き金を引いた。
耳を劈くような発砲音。
男性の叫び声。
僕は目を丸くした。
コナーは悠然とその場に立ち、膝をついているのは島田刑事だ。
拳銃を持っていた手が血に塗れている。
銃が暴発したのだ。
「て、てめぇ……何者だ」
脂汗を流しながら、苦悶の表情で島田刑事は言った。
まるで虫けらを見るように、彼女は彼を見下ろしている。
「ミーですか? ただの名探偵ですよ」
その時だ。
突然、ポケットに入れていたスマートフォンが短いバイブレーションを起動させた。
それを取り出して電源を入れると、登録していたニュースアプリからの速報が届いていた。
『○○市内で男性(41歳)が殺害。事故に偽装した現役警察官が犯人』
この手のニュースで、犯人という言葉を明記することはまずない。それが誤認である可能性が少なからずある上に、“逮捕”という言葉を使えば状況がひっくり返ろうと嘘にはならないからだ。
「そんな……刑事さんが犯人だったなんて」
野次馬の中の誰かが、ぼそりと言った。
「……待ってください。まだそうと決まったわけじゃ──」
「信じられない! 優しそうな顔して、私達を騙してたんだわ!!」
先ほどまでオーディエンスに徹していた群衆が、堰を切ったように騒ぎ始める。
警察手帳が被害者男性から発見された。しかしそれが事件の決め手になるかというと、そうではない。せいぜい状況証拠だ。
だというのに、ここにいる全員が、既に島田刑事を犯人と決めつけていた。
「殺人はいけないことデス! どれだけ悲劇的な過去があろうと、正当な理由があろうと、殺人は殺人デス!」
「「その通り!!」」
「ではみなさん! そんな犯人にどんな処罰をお望みですか!?」
「「死ね!! 死ね!! 死ね!!」」
なんだこれは……。
群衆が、血に飢えた獣のように腕を上げ、唾を飛ばしながら叫んでいる。
コナーは、舞台に立ったアイドルのように天高く腕を上げた。
「因果応報、人を呪わば穴二つ。目には目を、歯には歯を。落下死には……落下死を!!!」
その時だ。
突然、島田刑事がすっくと立ちあがったかと思うと、突然事故のあったビルへと走り出した。
「し、島田刑事!? 何故逃げるんです!!」
「ち、違う!! 足が勝手に!!」
足が勝手に……だって!?
僕は思わずコナーを見た。
さっきと同じだ。
瞳孔の開いた恐ろしい笑みで、島田刑事を見つめている。
島田刑事は恐ろしい速さで階段を駆け上がって行く。
その反動に耐えられず、上半身が後ろへと倒れ込む。それでも足は動きを止めない。
ボキリと恐ろしい音がして、身体が完全なくの字になる。がんがんと頭が階段にぶつかり、既に頭部は血だらけだった。
「笹草ぁ!! そいつから絶対に目を離すな!! そいつは……化け物だ!!」
すぐに僕達の視界から見えなくなる。
しかし十秒も経たないうちに、どこかの扉が勢いよく開く音が聞こえた。
島田刑事の悲鳴が遥か上空から聞こえて来る。
僕達が上を見上げると、ビルの屋上からダイブした必死の形相をした島田刑事と一瞬だけ目が合った。
グシャ
先ほどまで聞こえていた悲鳴が、その音を最後に聞こえなくなった。
「Wow! 錯乱して逃走中に事故死。それも被害者とまったく同じ死に方とは。まさしく因果応報デスね」
僕は恐ろしさに震えながら、既に死体となった島田刑事を見つめた。
彼のズボンの内側部分が赤く染まっている。
筋肉を酷使し過ぎて千切れたのだ。
明らかに、自分の意志でできることではない。
「事件解決!! これでまた、世界が平和になりました♪」
がくりと、笹草刑事が膝を折った。
「島田刑事……。嘘だ。嘘だあああああ!!!」
その光景はあまりにも異様だった。
大団円を迎えたミステリー小説の主人公のように、すがすがしい笑みを浮かべるコナーの足元には、泣き崩れる笹倉刑事の姿がある。
これがハッピーエンド? これが彼女にとっての大団円だっていうのか?
ここにいるのがジョーさんでなく僕でよかった。彼女なら、きっと僕以上に強烈な嫌悪感を抱いているはずだから。
ぐるんと、突然コナーがこちらを向いた。
思わず肩が震える。
「ユーの名前は?」
「……ダイ」
一瞬たりとも目を離さない威圧感に負け、僕は自分の名前を口にした。
「ダイさん。ミーのワトスン役になりませんか?」
「…………は?」
「さっきから色々と助言をくれたのは、ミーを助けようとしてくれていたからデスよね? ミーにはなんでもお見通しデスよ!!」
何を言ってるんだ、この子は?
自分の都合の良いように物事を解釈し過ぎだ。
……いや、それこそが彼女の本質なのかもしれない。
全てを自分の都合で解釈し、あまつさえ真実をも捻じ曲げる。
どの探偵よりも強大で、どの探偵よりも恐ろしい、稀代の名探偵だ。
「慌てふためいているようで終始理性的な部分も気に入りました! ダイさんならきっと素晴らしい聞き役になってくれるでしょう!!」
ぎょろりと、瞳孔の開いた蠢く瞳が僕を見つめた。
「付き合ってくれますよね? ダイさん?」
ああ、まったく。
これで僕も、奇想天外な彼女の物語の一員になってしまったようだ。
事実は小説よりも奇なり。
やっぱり僕は、この言葉は嫌いだ。
プロローグ完
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