実は私…

 放課後、いわゆる帰宅部である智沙都は一人で帰宅するべく、校門へと歩いていた。

「ちさとちゃーん」

 すると、そんな彼女の名を呼びながら一人の女子生徒が追いかけてきた。智沙都もその声に気付き、足を止めて振り返る。

「今日は早いんだね、なるちゃん」


 智沙都が自然な笑顔で迎えたその女子生徒、安藤奈瑠美なるみは目鼻立ちのくっきりとした日本人離れした美貌の少女だ。名前からして日本人なのは確かだが、実はクォーターぐらいで外国の血が入っているのではないかと智沙都はにらんでいる。

 そんな美少女の奈瑠美と、智沙都は何故か仲がいい。それは美少女で性格もいい彼女が実は少し抜けていたり、横に並ぶと智沙都より頭一つ分低かったりして、どうも歳の近い妹か何かのように思えてしまうせいかもしれない。そして奈瑠美の方も智沙都に懐いてくれているようだった。いつからか智沙都は親しみを込めて彼女を「なるちゃん」と呼ぶようになっていた。


「うん。今日はちさとちゃんと一緒に帰りたかったから、早く抜けてきちゃった」

「うえぇ……なるちゃん、今日も抜けてきちゃったの。そろそろ怒られちゃったりしない? 大丈夫?」

 そんな彼女は智沙都とは違い、生徒会に所属している。しかも智沙都といるときのどこか抜けた感じも生徒会では発動しないらしく、頼りになる一役員として頑張っているらしい。

「だいじょうぶだよー。先輩も部活で時々来なかったりするしね。それにわたしはちさとちゃんと一緒に帰る同好会の会長だからね!」

 とはいえ、奈瑠美は智沙都の前ではいつも通りのおっとりとしたかわいげのある女の子として振る舞っている。それが演技なのか素なのか、時々智沙都は思うけれどそれを問いただすのも野暮だろうと聞かないことに決めていた。

「同好会ってことになると他の人も入ってきちゃうけど、いいんですかね、会長さん?」

「うーん、それは困るなぁ……」

 そうして、二人はいつも通りに喋りながら校門を出た。



「そういえば」

 校門を出て数分ほど歩いたところで、奈瑠美は何でもない話題の一つのようにそれを切り出した。

「ちさとちゃん、昼休みに男の子と二人っきりで屋上行ったって聞いたんだけど?」

 聞かれた智沙都はその不意打ちに危うく転びかけるところだった。二年になって別のクラスになった奈瑠美にまでその話が伝わっているとは、少々予想外だった。

「い、いや、あれは違うのよ。別に何もなかったというか、変な話されただけで」

「変な話って?」

 うぐっと智沙都は言葉に詰まった。端的に言って屋上に呼び出されてニーソックスを手渡されただけなのだ。変な話としか言いようがない。

 そこでふと、智沙都は上着のポケットの中にそのニーソックスが入っていたのを思い出した。

「なんか、こんなもの渡されたのよ。この国を救えるのは君だけだーとか言われてさ」

 そう言いながら智沙都は深緑に金の刺繍が入ったニーソックスを取り出した。少し傾いた日差しを受けてキラキラと光る刺繍は綺麗だったが、やはりこれがこの国を救うとか言われてもさっぱり意味は分からない。当然、奈瑠美も「変なのー」とでも言って笑ってくれると、智沙都は思っていた。

 だがそれを見た奈瑠美は、電池が切れたロボットのように固まっていた。

「……なるちゃん?」

 智沙都は普段とは違う奈瑠美の様子に思わず声を掛けた。しかし、奈瑠美はそれに返事をせず、ぼそりと呟いた。

「…………竜……久坂、航平……ッ!」

 その呟きを、智沙都は聞き逃せなかった。

「そうそう久坂君。あんな変な人だと思わなかったよ」

 智沙都は様子のおかしい奈瑠美を気にしつつも、いつもの調子を装って話を続けようとした。そうしていれば、彼女もいつもの調子に戻ってくれると信じて。

 だが、すでに歯車は回り始めていた。それも、巻き戻すことのできない所まで。


「……智沙都ちゃん、今日は私とは会わなかった。そういうことにして」

 その声は明らかに奈瑠美のものだった。けれど、その話し方は智沙都の知る「なるちゃん」ではなかった。

「なる……ちゃん?」

 智沙都は恐る恐る声を掛けた。だが、それに「なるちゃん」が答えることはなかった。

 奈瑠美は突然カバンからノートを取り出し、白紙のページに素早く何かを書き込み始めた。

「これから智沙都ちゃんは久坂航平の家を経由してから、高井出神社に向かって。そうすれば、多分……最悪の事態は避けられるから」

 ノートに顔を向けたままそう話す奈瑠美の声は、それが冗談ではないことをありありと伝えてきた。それはちょうど昼休みの久坂と同じ、笑い飛ばせないほどの真剣さだった。

「待ってよ、なるちゃん。意味分かんないよ、ねえ!」

 智沙都は、それを受け入れることはできなかった。

 そんな智沙都の手を取って、奈瑠美は子をあやす母のように微笑んだ。

「ねえ、聞いて智沙都ちゃん。実は私、スパイなの」


 少し下から覗き込んでくる奈瑠美の目は、片時も離れることなく智沙都の目を見つめていた。その優しく微笑む目も、初めて聞くような穏やかな語り口も、それがただの演技ではなく奈瑠美の本心から来るものだということを、これ以上なく雄弁に語っていた。

「私は中東のとある国からこの国に送り込まれたスパイなんだ。その目的は脅威になりうる人物の監視。その対象は久坂航平と、智沙都ちゃん、あなたなの」

 奈瑠美は一旦目を伏せ、きゅっと唇を引き結んだ。そして、改めて智沙都の目を見つめた時、その笑顔に込められた感情は変わっていた。

「詳細は明かせないけれど、智沙都ちゃんにはある危険な素質があって、久坂航平にはそれを引き出せる可能性があった。私の役目はその可能性が実現しないように見張ることと、仮に実現してしまった場合はその力が振るわれるのを、智沙都ちゃんを殺してでも阻止すること。つまり、本当は今すぐ智沙都ちゃんを殺さないといけないの」

 穏やかに語る奈瑠美を、智沙都はただ眺めていることしかできなかった。未だに現実を受け入れられずにいる智沙都には、奈瑠美の語る言葉はどこか遠い世界のことにしか思えなかった。

「……だけど、智沙都ちゃんのこと、好きになっちゃったんだ。だから、私は智沙都ちゃんを殺さないことにした。そして、できることなら私の言葉を信じてほしい」

 びりびりと音を立てて、奈瑠美はノートを破り取った。その紙きれには簡略化された地図が書き込まれていた。定規も使わず描いた地図は機械のように精密であり、そこに書き込まれた文字は智沙都の良く知る奈瑠美の文字だった。



 智沙都は、この今の現状をほとんど理解できていなかった。けれど、智沙都は奈瑠美を信じることにした。

 その手に紙きれを握りしめて、智沙都は奈瑠美に背を向けて歩き出した。

 奈瑠美もそれを確認すると、智沙都とは反対方向へ走り出そうとした。その瞬間、奈瑠美の背中に声が投げかけられた。

「なるちゃん! 私もなるちゃんのこと、好きだから! だから…………またね、なるちゃん!」

 振り返った奈瑠美の目に、横から日差しを受けた智沙都の顔が映った。その顔は、いつもと変わらない智沙都の優しい笑顔だった。

 こみ上げて来るものを噛み殺しながら、奈瑠美はそれに答えた。

「またね、ちさとちゃん!」

 最後のその声だけは、確かに「なるちゃん」の声だったと、智沙都は感じた。

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