+七日目-万芽-
赤と薄い緑でできた海の真ん中で、巨大な猛禽が停止していた。それが背筋を伸ばせば、成人男性と同じくらいのその体躯は、うつぶせに近い状態で地面につっぷしていた。猛禽の全身はつやつやとしている茶色い羽毛に覆われているが、翼の先にある羽毛だけは白かった。
今、この花畑には怪鳥しかいない。ゆっくりと上下するその背中は力強い。
猛禽は鋭い嘴のある面を上げて、天を仰いだ。赤く汚れた得物を舐めとることもせず、ぼんやりと見上げていた。
ああ、と呟いた怪異は続けて、何かを呟く。嘴の他にも、胸元の柔らかな羽毛もべったりと汚れていた。
視線を落とした猛禽が脚を持ち上げて、少しだけ移動した。獣がいた場所には何もない。ただ、人の形に花畑が潰されていた。
「彼菜、彼菜ぁ」
すると獣は鳴いた。そこには存在しないものを呼びながら、潰された花を翼で覆い隠した。さながら泣き叫び、崩れ落ちているかのようであった。
独りだけで猛禽は、汚れたまま人間のように嘆き続けた。
万芽が山の頂上近くで、目を閉じていた。その体躯は木々にとまることもかなわないため、小さな姿に化けて、ただ時間を過ごしている。
彼菜、と小さく呟く彼女は、はっと目を覚ました。数秒間虚空を見つめると、ふぅ、と息をつく。
「夢にも出てくるなんて、恨まれてるねぇ。あはは」
独りごとは山に吸い込まれていく。そこは誰も来ないほどの山奥だ。
「恨んでるなら、できるなら呪い殺しちゃいなよ。彼菜。化けて、殺しておくれよ」
獣も何も、彼女には寄り付かない。たとえ見えていないとしても。
「はは、ありえない、か。魂は食っちまったんだから、ねぇ」
成仏できなかった魂は霊として現れる。だが食われた魂がそうなることはない。
怪異の動力源は魂を口にすることで満たされる。霊や餓鬼なんかよりも、生きているものから直接食ってしまう方が腹はより満ちる。魂の質は持つ者によって変化する。
「おいしかったよ、彼菜。これまでの、誰よりもさぁ」
そして万芽は彼菜を見つけた、次の獲物を見つける必要がある、と考え、あたりの人間を見定めていたときに、偶然見つけたのだ。
「なんで、あんたなんかを好きになっちまったんだろうね。くそったれめ」
万芽は葉の茂る天を軽く仰いで、にらみつける。それから枝を蹴って、大きく翼を広げた。持前の飛翔力を駆使して天へと舞い上がり、滑空する。
木を、山脈を越えて、たどり着いた先は人里を一望できる崖の上である。そこは彼菜のいた駄菓子屋の近くの人里である。
人里では生活が営まれていた。何の変哲もない日常風景は、ただ進んでいた。
その人混みをじっと見つめる猛禽は、ほどなくしてある人間に目を付けた。陽が落ちるのを待って、万芽は目を付けた人間のもとへと翼を広げた。
一つの家屋の裏庭に下り立つと、狭いわね、とぼやく。すると、誰かそこにいるの、と屋内から小さく声が聞こえる。薄い雨戸の向こう側から発せられたもののようだ。
「やぁ、お姉さん。あたしの声に聞き覚えはないかい」
家屋との距離を詰めて、中にいる誰かに言葉を返す。うーん、と軽く悩んだ声の主はしばらくして、分からない、と答えた。そこには誰もいないかい、と万芽が尋ねると、ええ、と答えてくれる。
「なら、開けなよ。あたしのことを忘れたとは、言わせないさ」
雨戸が静かに開けられると、お互いの姿が顕わになる。片や、巨体の猛禽、片や、彼菜にどことなく似ている女性だった。
彼女は驚いた顔で万芽を見つめていた。あなたは、と目を見開く女性、彼菜の姉は膝立ちで雨戸を開いたのだ。
「やぁ、お姉さん、いや、彼菜に倣って姉上、と呼んだ方がいいかい」
万芽が言葉を口にする。それは普段通りの強気な声ではなく、弱い、優し気な言葉である。その一方で、彼菜の姉はにらむような、泣き出しそうな顔をしている。
「名前で呼んでください、万芽。久しぶりです、ね」
知らないよ、と万芽は答え、お姉さん、と呼び続ける。
「あたしを恨んでるかい、彼菜のことをさ」
姉の表情をうかがいながら尋ねる、たたずまいを正した姉は廊下から立ち退き、彼女を部屋の中に招き入れる。いいのかい、と尋ねられても、一人だから、と答えるだけだ。
「いいよ、あんたの土俵に立ってやる。その前に、さっきの質問に答えなよ」
片足を持ち上げると、廊下に鉤爪が食い込む。
「あたしを殺したいかって、さ」
部屋へと侵入した猛禽は、座った姉の正面に立ち、尋ねる。この狭い空間の大半に、彼女は影を落とす。一方の姉は臆することもなく飲み物をすすり、一服する。
「殺したい、ね。それで、その首をはねればいいの。解決するなら、彼菜が帰ってくるなら、もちろんそうしたいけど」
落ち着いた様子の彼女は、立ちっぱなしの怪異に座るように勧める。だが猛禽は尾根を見下ろしたがる。
「そんなわけないでしょう」
軽くうつむき、首を横に振る。
「それに、あなたがここに来たのは、謝罪のためなの。あなたらしくない」
話してごらんなさいと姉は、ようやく座り込んだ猛禽を見つめる。目線の低くなった万芽は、ちょうど座る姉の目線と一致する。
「親父さん、あたしの話を聞いてくれると、あんたは思うかい。それを教えてほしいんだよ。兄妹の中で一番、落ち着いてるのはあんた、だからね」
へえ、と姉は口元をゆるませる。だがその目は変わらず、冷たく万芽に注がれている。
「父上ね、また子供が産まれるって、神経尖らせてる。あなたみたいな怪異に騙されないようにって。近づかない方がいいんじゃない」
飲み物が再びすすられる。そうかい、と万芽は肩を落とす。
「何を企んでるのか知らないけれど、気を付けて、万芽。こっちだって驚いてるんだから、ね」
へえ、と万芽。
「彼菜がいなくなって、父上から告白されたの、万芽様のこと。で、書物あさったら、人食いの怪異の話があってね」
ずずず。
「大人を騙し、差し出された子供をさらった怪異は今でも、あちこちで同じことをしてるって。その当人が帰ってくるんだから、驚くのは当たり前」
そうかい、と笑って見せる万芽は、ありがとう、と言い残して姉の家を後にする。残された姉は、ふすまの向こうから問いかける声に答えた。静かにふすまを開いたのは彼女の夫であった。さっきからどうした、と尋ねられるも、独りごとです、と笑いかけるのだった。
万芽が続いて現れたのは、彼菜の兄のいる場所だった。彼菜と共に行った、さびれた社のある場所である。
兄は山から下りてきたところだった。夜闇に木霊す羽音に驚いたのか、ぴたりと歩みを止めて、万芽を捉えた。久しぶりね、と彼女は道の真ん中に、彼の行く手をふさぐように下り立つ。
「怪鳥が何の用だ。今更、謝罪にでも来たのか」
姉と違い、ぎろりと鋭い視線に射貫かれながら、怪異は落ち着いてよ、と語り掛ける。
「ねえ、お兄さん、あたしの考えてること、分かるかい」
知るか、と吐き捨てる兄の気迫に、万芽は一歩下がる。得物である刀に手を伸ばす彼は、今にも彼女の首を切り落としてしまいそうな形相をしている。
「やめてよ、お兄さん。あたしだって後悔してんだよ。あたしの見込み違いばっかりに、すまないね」
だからどうした、と兄の手で刀が引き抜かれる。きれいな金属音が闇に響く。
「もうあんたとは関わらないさ。じゃあね」
軽く笑いながら、万芽は一瞬だけかがんで、地面をける。するとその巨体はふわりと持ち上がり、兄の頭に鉤爪をかすめて飛び立った。あまりの風圧に目をぎゅっと閉じた彼は、背後に聞こえる羽ばたきを見送ることもせずに、刀を戻した。
「今更なんだ、怪異め」
悪態づきながら、彼は夜の道を進んでいく。
駄菓子屋は客足が少なくなると、自主的に閉店する。それは季節によって変化こそするが、共通の基準に、太陽が落ちることがある。山に囲まれたこの土地では、特に顕著である。
だんだんと冷えてくるこの時期に、今日も駄菓子屋の主人は、夜の見回りに外へと出かける。
もう間もなく産まれるだろう、新たな子供に思いをはせながら、父親は行ってくる、と妻に声をかけてから出かける。
身重の妻は気を付けて、と返してから布団に横たわる。使用人が明かりを消して出ていくと、この部屋は沈黙と闇が支配する。
すう、すうと規則正しい息を聞こえてきて間もなくのことである。
ゆっくりと、小さな音を立てて、ふすまが開いた。
外へと出ることのできるそこには、怪異がいた。猛禽の姿をしたそれは、一歩、また一歩と小さな音を立てながら、妊婦へと近づいた。
あたりに気を配りながら、彼女は母に近づき、じっと覗き込む。冷たい風に羽毛をなびかせながら、ただ待った。軽く八の字に曲げられた脚が、呼吸に合わせて静かに上下する。
やがて冷えを感じたのか、大儀そうに人間の目が開かれた。思わず大きく空気を吸い込んだ母の口は、一瞬で軽くふさがれる。翼の甲の部分で。静かに、と怪異は囁く。
「この姿で会うのは初めてだったね。ご無沙汰しております、お母さま」
意地悪そうに呼ばれた彼女は、目を見開いてその怪異を凝視する。
「おびえないでよ。食ったりしない。安心して」
口をふさいだまま、ただ静かに落ち着くまで待つ。それまで数分。ただ冷たく猛禽の瞳は視線を落とし、がたがたと人の瞳は揺れていた。
「ちょっと相談があるんだよ、お母さん。聞いてほしい」
いたって穏やかな言葉遣いは、母親の震えを次第に落ち着かせていく。それでもなお、彼女の口は開放されない。それと同時に、誰かが廊下からやってくる気配もない。
「すまなかったね、彼菜を奪っちまって。何もかも、壊してしまって、さ」
はたから見れば、彼女は獲物の喉笛を狙っているようにしか見えない。
「あたしもね、食わなきゃいけなかった。死ぬのは、嫌だからさ」
母は助けられるべき存在で、猛禽は追い払うべき存在に見える。
「考えたんだよ。あんな思いをしなくて済む方法はないかって」
彼女はようやく解放された。ただ静かに、無感動の瞳を見返しながら。
「なかったよ、そんなもの。誰も、そんな方法知らないってさ」
あはは、と笑う彼女に、母親はようやく口を開いた。
「あなたに、この子は、渡さない」
小さな、決意に満ちた声は、万芽にしか届かない。横たわったままの母は、起き上がろうともせず、布団の下で自らの腹部に触れた。
「そうかい。当たり前だよねぇ、あんなことがあれば、さ。張本人が言うのもなんだけど」
くく、と笑う万芽は、本題に入るよ、と嘴を近づける。これまでのしおらしい声が豹変する。
「彼菜が恋しくないかい。まだ顔を見ない、子供よりもさ」
今にもにたりと笑いそうな彼女は、おかしそうに語る。母の布団に隠れる体を翼で撫でながら。
「あたしは恋しいさ。また、当たり前に暮らしたいんだよ。彼菜と、一緒にさ」
布団ごしの羽毛の感触に、母が息を飲む。
「静かにしなよ。使用人も親父さんも、死んだってかまわないんだからね、あたしは。必要なのはあんただけさ」
くく、と笑う万芽は嘴を開き、舌を躍らせる。月明かりを背後に受け、一層不気味に見える彼女に、母は怯えようとも、怪異はただ続ける。
「彼菜の魂の欠片をね、かき集めたんだ。ほとんど残っちゃいないけどねぇ」
怪異がゆっくりと、酔っているかのように言葉を吐き出していく。懐かしむような、押し付けるようなそれらは、母の耳にのみたどり着く。
「これってさ、彼菜になるのかねぇ。死んだ人間の魂は、消えるか霊になるんだけど、その残滓って、どうなるんだろうねぇ、母上」
万芽と母が見つめあう。
「試してみたいんだよ、母上。彼菜が欲しくはないのかい。どうなるかは知らないけれどさぁ」
万芽がその巨大な翼を軽く開いて、母の頬を撫でる。それから開いた嘴が、彼女の口をふさぐ。舌がべろりと動くと、数秒もせずに母を開放する。
「彼菜と違って、まずいね、あんた。また会えたら、いくらでも悪口聞いたげるよ、母上」
あはは、と再び笑ったかと思うと、万芽は一瞬にして、母の視界から消え失せた。家中に響き渡るかと思われた笑い声に、母親はがばりと身を起こす。汗まみれの衣服や肌をひとしきり触り、はやる呼吸を整える。そして部屋をじっと見渡そうとも、そこには開いたはずのふすまも、傷ついた畳もなかった。
あるのは、彼女が寝入ったときと同じ景色だけが、当たり前のように、そこに存在している。
ただ、彼女は体に残る感触や言葉を、怪異のいた名残を、夢というにはあまりにもはっきりと覚えていた。
頭の中に刷り込まれてしまったかのように。
もう一度寝入ろうとするものの、母親は何度も目を開く。ただでさえ長い夜を、さらに眠れぬまま過ごす。やがて布団から抜け出した彼女は台所を通り、勝手口から外に出る。妙に汗ばんでいるその体は冷たい風に触れ、熱を奪われていく。
冷たい空気を吸い込み、井戸から水を引き上げて口にする。無意識のうちに左手が腹にそえられていることも気づかずに、落ち着きを取り戻した母親は寝室へと踵を返す。
その途中、帰宅したのであろう夫に遭遇する。どうした、と声をかけてくれる彼は、寝室まで付き添う。
布団に横たわりなおした母は、蝋燭の火にほのかに照らされている夫に口を開いた。なんだ、と優しく柔らかな言葉は母の顔にも伝染する。
「夢を、見たんです。恐ろしい、夢を」
しかしその口から現れる言葉は、
「なら、言ってはだめだ。現実になってしまう。早く忘れるんだ」
と遮った。続けようとした言葉を飲み込んで、はい、と承知した。夫が布団越しに、彼女に触れる。
「名前な、考えていたんだ。ずっと考えていたんだが」
笑みを深くする彼は、これから生まれるだろう子供に与えられるだろう名前を、二つ呟いた。
「それはいいですね。絶対、守りましょう」
夫婦は長い間笑顔を交わして、別れる。また明日、と言った夫は自室へと戻っていく。一人残された妻は、我が子の名を口にしてから、眠りに落ちていく。
父親も、真っすぐ自室へと戻り眠った。
駄菓子屋に新たな家族が増え、彼女はすくすくと育っていった。ある日、夫婦は縁側でくつろいでいた。遊びに来た姉と末っ子が楽しそうに遊んでいる。
数年前の出来事など忘れてしまっている母親は、夫と娘たちと言葉を交わしながら楽しい日々を過ごしている。数千と過ごした夜のうち、ひとつやふたつの悪夢など覚えているはずもない。
兄も冷えた酒を持ってきて、父と酌を交わし始める。ほどほどにしてください、と釘をさしておく母は立ち上がる。
駄菓子屋は兄が継ぎ、夫は隠居した。霊を送ることも辞めた彼は末っ子を愛でながら日常を過ごす。妻は夫と共に娘を見守りながらただ変わらぬ日常を過ごしていた。
一方の長男は駄菓子屋の売り上げのやりくりに苦労しながら、やってくる子供たちに好かれ始めている。それまで日課にしていた霊送りも、順調に成功をおさめ続けている。
長女は変わらぬ生活を続けている。ただ普通の妻となり、ときたま霊を送りに行く。そして今は帰省という名目で妹の面倒を見に来ているのだ。
家庭のもとに再び、ただの平和が訪れていた。静かな毎日は日を、月を、年を次々にまたいでいく
やがて末子が霊送りの実戦へと駆り出されることとなる。この家系では当たり前に行われていることを、何の疑いもなく彼女はやり始める。過去に次女を失ってから、荒っぽさを見せるようになった父親からの指導の下で。
やがて父親が急逝し、兄が指揮するようになる。大きな変化こそなかったものの、一つの節目を迎えたのである。
もう間もなく一人前と認められるだろうというときのことである。末っ子は霊を送りに、一人で遠征していた。付き人もなく、多めの路銀と、食料と、丁字型の棒を持って。
真昼間に廃村へと立ち入り、比較的形を残している家で一夜を過ごすことに決める。その村は士族によって滅ぼされたらしいが、まだ霊がいるらしい。
夜になって末子は外へと出る。そこには、当然のように人気はない。それと同時に、兄から伝えられていたような霊の存在もそこにはない。ただ、霊ではないものがそこにはいた。
「やぁ、彼菜。あたしのことが分かるかい」
不気味な廃村は、月明かりのない夜を背景に一層不気味さを増している。そこに立ち尽くしているのは、獣だった。
そこには大人ほどの大きさの鳥がいた。彼女に鋭い視線を向けて、人間のように、嘴を少しだけなめる。その嘴には赤い何かが咥えられており、なぜか落ちない。無表情ながらも、いきいきとした声があたりに響いていた。
「この際、分からなくたっていいさ。失敗した、みたいだしねぇ」
夜闇に慣れてしまっている彼女は怪異の姿をよくよく観察する。それは猛禽らしく、大きさを除けば山に生息しているものとなんら差はない。ただ、翼の先にいくに従い、羽毛は白く変化している。
「まあ、いいさ。この際、誰でもいいよ。彼菜」
そのまま怪異は自演をしているかのように、嘴を閉じたままべらべらと末子に語り掛ける。末子はただただ猛禽を見つめて、終わるのを待っている。ろくに話の内容は耳に入らなかった。
途中から怪異は末子に近づいて、舐めるかのように見つめる。だが何をするわけでもなく、次の言葉を口にする。
「殺しておくれよ、あたしをさぁ。あんたに殺されるなら、本望ってやつだよ」
あはは、と笑うと、ようやく末子は口を開いた。どうして、と。怪異は彼女を真正面に見つめて、静かに語る。
「あんた、何言ってるんだこいつ、とでも考えてるんだろうねぇ。説明する義理はないさ」
くく、と笑う。
「あんたが彼菜じゃない。ただ、それだけなんだよ。殺しとくれ」
瞳が瞼に隠された。
彼女が語るのをやめると、静寂の夜が訪れる。風もなければ、音もない。動いているのは末子の瞳だけだ。
末子が丁字の棒をぎゅっと掴んで、振りかぶる。真一文字に口を結んで、にらみつけるようにする末子は、指を震わせながらそれを怪異に向かって打ち付ける。
鈍い音が怪異の右翼を傷つけた。その一撃で怪異は顔色ひとつ変えなかったものの、末子は嫌な感触にぶるぶると震えた。
「さようなら、彼菜」
万芽はいたって普通に、言葉を口にした。そこには先ほどまでの元気はなく、ただ待っていた。次の一撃を。しかし次は、ペチン、と音を鳴らす平手うちだった。万芽は頭をゆさぶられ、きょとんと目を見開く。
末子は怒りをあらわにしていた。棒が音を立てて地面に落下したかと思うと、歯を表に見せて、涙を浮かべている。
「あんた馬鹿。いきなりなんなのよ、一方的に言いたいことだけ言って、挙句の果て私に殺されたい。わっけわかんない」
末子は泣いていた。同時に息を巻いていた。万芽はまん丸な目をさらに丸くして末子を見つめ、彼菜、と呟く。
違う、と末っ子は自らを名乗る。威勢のいい彼女に、 万芽が左翼を開いて、抱く。
「いいさ、守ってやる。何も覚えていなくたって、彼菜、あんたはあたしのものだ」
やめてよ、と抵抗する彼菜を万芽は抱き続けた。霊などいないこの廃村で、彼女たちは夜を過ごし、駄菓子屋へと帰宅する。
赤い海の中真ん中で、万芽は彼菜の首に舌を這わせた。無防備に目を閉じて、まるで眠っているような彼菜は、されるがまま、万芽の腹の下でじっとしている。
「ねぇ彼菜、怖くないのかい。どちらにしたって、助からないけれど」
目の前にいる愛しい人間に、怪異はそっと語り掛ける。女性は柔らかい布団に抱かれているかのように、おだやかな顔のまま、口を開く。
「逃げられないんでしょ、結局」
一呼吸の間。ああそうさ、と小さく震える万芽。
「なら、いっそのこと」
目を閉じたまま、彼女が意思を告げる。
「あんたが生きててよ。それで、また会おうよ」
彼菜はうすら目を開けた。そして、相棒の揺れる目元を右手で撫でてやる。
「ああ、そうしようじゃないか。また逢おうよ、彼菜」
うん、と彼菜は目を閉じて笑う。すまないね、と万芽は嘴を大きく開く。
「今度、あたしを、思い切りはたいておくれよ。仕返しも含めて、全力で、さ」
答えを聞く前に、彼菜の喉笛は裂かれた。万芽は花畑の真ん中で、嘆きながら、その身を汚していった。
赤い海は静かに、二人を包んでいた。闇の中にある花畑は一面に広がっている。ただ一人残された怪異が嘆くのは、間もなくのことである。
いつまで経っても、暗いこの世界には彼女だけが生きていた。
イトマノナノカ 了
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