暇ノ七日-イトマノナノカ-
ラクリエード
+零日目-名付け親-
目ぇ、開けていいよ、と高くとがったような声が響く。闇ばかりの広がる空間には現在、一人の人間と、異形しか存在していない。彼女たちは光源がないにも関わらず、まるで自身が光っているように、お互いの存在を認めることができる。
人間は目を開いた。異形の姿におびえることもなく、ぐるりと闇を見渡した。
「ねぇ、ここはどこ」
目をまん丸にして、当たり前の疑問を異形に投げかける。異形は赤い目を彼女へと向け、せせら笑っているようだ。
「はははっ。そうだねぇ、あたしん家ってとこだよ。もう少し先に行けば、あたしの縄張りさ」
行くよ、と異形は鉤爪のそなわる骨ばった脚を使って歩き始めた。はぐれるんじゃないよ、と裸足の彼女に気遣う様子もなくとてとてと歩き始める。
「他には誰もいないの」
異形の羽毛で覆われている背中に再び、言葉を投げかける人間の女性。もちろん、薄い衣服に身を包む彼女は異形の後ろを、手を軽くぶらつかせながら歩いていく。
「いるともさ。あたし以外にも、ね。だから、離れるんじゃないよ、彼菜(ヒナ)、食べられたくないならねぇ」
そうする、と短く答えて、おとなしくついていく。
しばらくして、そういえば、と異形が嘴を開いた。何、と女性は続きを尋ねる。
「あんたがあたしと出会って、どんくらい経ったんだろうねぇ、彼菜」
ここはとても暗い。だが異形は道が見えてるかのように歩を進めている。
「別に答えなくたっていいよ、どれくらいだったとしても、関係ないんだからね」
くく、と笑う異形。何がおかしいの、とむっとする女性。
「いやねぇ、考えたんだよ。あんたら人間って、いつからが生きているってことなのかな、とね」
そんなこと、と女性は軽く流した。つれないねぇ、と異形は続ける。
「あたしはねぇ、あんたが腹の中でうたたねしている頃から知ってるのさ。名前の由来、親父さんから聞いたことはないかい」
女性は手入れのされていない髪を大きく揺らしながら、化粧もしていない口を開く。
「私を身ごもったことが分かってから、夢に万芽(バンガ)が現れて、そう命名しろって、父上から聞いたけど」
ああそうさ、とおかしそうに鳥の異形はおかしそうに笑う。
「夢にちょいとお邪魔したのさ。そしたらさ、あんたにはその名前が付けられた。気に入ってるかい、それ」
異形は彼女の方を向かない。ただ前へと進む。
「可愛い名前だなって、考えてるけど」
ははは、と笑う巨大な鳥は、しかし無表情だ。
---
あたしはようやく見つけた。これから生まれてくるだろう子供に胸を躍らせ、男は筆を手に持っている。そして同じ家屋にはその妻がいた。子供と、世話係らしい者もいる。
幸せそうだ。何人目の子供なのだろう。
名を授けようとする男は次から次へと紙を浪費していく。名というものが何の役に立つのだろう。
あたしは改めて、男の妻の宿す子供へと意識を向けた。淡い生命力にあふれた、これから生まれ出るだろう命。
きらきらと輝くだろう、美しくなるだろう、その魂を宿して。
見間違いではないことを確かめると、あたしは欲が働いた。
まもなくして、夜が現れた。すると人々はささやかな明かりを灯し、自らの時間を楽しんだり、あるいは眠りについたりする。例外的に外でほっつき歩いている人間もいるが。
肝心の男は、どれも気に入らないのか、紙と筆をそのままにして床についてしまったようだった。ちょうどいい。庭に下り立ち、できる限り近づく。
意識に語り掛けよう。そして縛りつけてしまおう。
男へと意識を集中する。この男は守りが弱いらしく、あっさりと語り掛けることができた。目の前に見えてきた、倒れている男の姿は、寝入ったときと変わらない。
男に起きろと語り掛ければ、起きる気配はない。何度か起きろと語れば、ようやく男は目を覚まして、こちらを見た。
「あ、あなたは」
男は目を見開いている。散々悩んでいるのか、疲れの色が見えている。そこまでに大切なものか、名というものは。
「よう人間、悩んでいるらしいな。よければ知恵を貸してやる」
あたしの姿を恐る恐る見ている。逃げ出さないだけ肝が据わっているようだった。
案の定、男は我が子について語った。三人目の子供が、最後の子供にしようと決めている。その子供には特別な名前をつけてやりたいと言う。だが思いつくものはすべて陳腐なものに感じてしまうのだと言う。
くだらない。そのようなものに悩むなど。
「そうか。気まぐれに下界に下りてみたのだが」
あたしは男の意識に語り掛けてやった。こんな名前はどうだ、
「彼菜」
こうして名を与えてやるのは何度目だろうか。すると男は、どのような由来があるのですか、と尋ねてきた。
「彼菜、というのはな、あたしの世界にある美しい花の名さ。女の子にはお似合いだと思うぞ」
文字についても教えてやると、男はありがとうございます、と深く頭を下げる。愚かだ。そんな花は存在しないというのに。たとえ知っていたとしても、誰が教えてやるものか。
「よろしければ、あなた様のお名前をお伺いしてよろしいでしょうか」
男は名を求めた。あたしは答えた。
「あたしは、万芽、だ。謂われもないやつだから、感謝も必要、ない」
万芽様、ありがとうございます、と男は繰り返した。これ以上は面倒だと考え、すぐさま意識から遠ざかった。あたしは暗闇にまぎれ、遠目にこの人間たちを見つめることにする。
演技は慣れない。面倒だ。だが目の前の果実は未熟だ。
さて、陽が昇ると男は勢いよく飛び起きて、さっそく紙に彼菜、としたためた。どたばたという表現のふさわしい音を立てながら、妻のもとへと紙を持っていく。
かわいらしい名前ですね、と笑う妻に、神様からいただいたんだ、と喜んでいる夫。お付きの者どもも、祝いの言葉を送っているが、特別な感情が沸き上がることはない。
男は妻の見える位置に紙を下げて、行ってくる、と賑やかに出て行った。
それから何十日も経って、その家族に新たな子供が産まれた。この夫婦の間には娘が生まれ、彼菜という名前を得た。
あたしのつけた、名。あたしの、もの。
声を上げて笑いたくなったね、あの時は。そのときから、あんたはあたしのお気に入りさ。
---
今の気分はどうだい、と鳥の異形は彼菜に問いかける。別に、と答える彼女を、せせら笑う。
「なんだ、つまらないねぇ。ここまで来て、怖くもなんともないのかい。ある時には、泣きついてきたやつなんて山ほどいたのにさぁ」
ははは、と今のことのように笑う万芽は続ける。
「まあ、笑っていなよ。あんたにはその笑顔がお似合いさ。いつでも、どこでもね。曇った顔は、似合わないよ」
はは、と笑う彼菜に、万芽もつられた。他愛ない話を投げ合いながらかなりの時間を歩き続けた。やがて、ようやく万芽がたちどまった。振り返って、彼菜を見つめてやる。
「ようこそ、彼菜。あたしの住処に、ね」
真っ暗だった空間に、突然平屋が現れた。近づくにつれ、輪郭がはっきりとしてくるわけではなく、そこにあったかのようにぬっと現れたのだ。
そこで初めて彼菜の瞳は揺れた。え、と声を短く上げる。
「彼菜、部屋は同じ場所にあるから、見てきなよ。のんびりしてきな」
万芽が平屋の玄関を開き、ペタペタと歩き続ける。恐る恐る足を踏み入れた彼女は、迷わずある部屋へと侵入する。ふすまを閉じて、畳の上に座る。だがきょろきょろとあたりを見渡す。
やがて彼菜は落ち着きを取り戻し、部屋に布団を敷いて、その中へともぐりこんだ。寝付くまでには少々時間を要するのだった。
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