エピローグ
エピローグ
息を切らして彼はその部屋に辿りついた。
寝台の前で立ちどまり、一瞬の躊躇いをのりこえてカーテンを引く。
はらりと足元に一枚の紙が舞いおちる。
「……」
そこには一心不乱に鉛筆を走らせる彼女がいた。
まるで彼の濫書症が伝染したように、彼女のまわりには紙が散乱している。でも、そこに言葉は一つも書かれていない。
寝間着の絡む両膝をへたらせて手元にうつむいていた彼女が、十分後にやっと顔をあげた。
「オ――」
エーリカは彼の名前を呼べなかった。顔をあげたとたんに頭からすっぽりと包まれてしまって。
嘘みたいにくるしい。
慣れない苦しさにエーリカは目を回した。一年のあいだ空腹も疲労も忘れてふわふわとさまよっていたエーリカだから、生身の体の重さと感覚にまったく不慣れになっていた。今となっては、ただの人形を本物のオスカーだと思えた自分に驚く。生身の体が触れあうことはこんなにも、――圧倒的だ。
「……」
オスカーはしばらくじっとエーリカを抱きしめて放さなかった。ずっとこうしていられても困るので、空いている手でエーリカはシーツの上の紙をよけ、彼が座れる場所をつくる。
暗黙の抗議を悟ったのかオスカーがやっと体を離した。
「ずっと寝ていたから脚がぜんぜん立たないの。動ければすぐ逃げたんだけど」
「ごめん」
「栄養の管を抜いたばかりで、押さえていた絆創膏で皮膚がかぶれているの。だから顔をあまり見ないでほしいんだけど……」
「それは無理だ」
宣言どおりに突き刺す視線をいちども外すことなくとりあえずオスカーは腰掛けた。
汚れたコートを床に脱ぎすててあって、〈ウィーンの森〉からそのままここに来たのだとわかる。漆黒の装いに珍しく飾りがあると思ったら、朱いキモノの切れ端が二の腕にゆるく巻きついていた。止血をした名残だ。……ということは、タマも無事だ。
「〈幸運な七月〉たちはみな官憲に連れていかれたよ。あとは全て……贄の客たちも瓦礫の底に埋まってしまって簡単には掘りだせない」
エーリカは目を伏せて聞いた。
〈反転者〉も崩壊の下に埋まり、その体はばらばらに千切れてふたたび命を失ってしまったのだろう。あれが本当にルドルフ皇太子であったかどうか、今となってはわからない、とエーリカは思う。
核心の人物の名をオスカーが口にすることはなかった。
「あなたに知っていてほしいの。あれでもベアトリーセは優しい姉だった。私が嫌がることはぜんぶ代わりにやってくれたし、両親のぶんまで私を愛してくれた」
オスカーは頷いた。
「知ってる。しつこい求婚の抗議で邸に乗りこんできたとき、妹に憑きたがる悪霊は貴様かという眼で僕を見てたよ。人づてにしか求婚できない臆病者の時点で、才知に富んだ妹の相手にはならないって」
「それでも諦めなかったの?」
「言ったろ。きみのそばできみをずっと見ていたいという気持ちは、僕にとって切実な希望であり欲求なんだ」
そこにちょうど看護人が入ってきたので二人は気まずく沈黙した。
ところでエーリカの赤毛を短く刈った犯人は、この看護人であった。蓋をあけてみればそんなものかという話で、眠りつづけるエーリカの身体介護の合理化と衛生のために赤毛は犠牲になったのである。
「お絵描きの気がすんだらちゃんとスープを飲んでくださいよ。血圧は安定してます。お花の水、変えておきますね」
てきぱきと仕事をすます看護人の動きを追って、枕元ちかくで鮮やかにたくさん咲いたすみれに目を留めた。
「これもあなた?」
オスカーは「いや」と首をふった。
「お友達ですよ。一週間とあけずにお花を持ってらっしゃいますよ。この一年ずっとです。こんな冬なのにすごいわねえ」
紫のすみれの花のあふれる大きな花器をかかえて看護人が答える。
「友達……」
エーリカの元・友人に、一年を通して花の咲きみだれる温室を持っている子爵令嬢がいる。
エーリカは味のないスープをひとくち飲んで、鉛筆をにぎった。目覚めてすぐ看護人にむりやり頼みこんで集めてきてもらったまにあわせの紙に、かがんで、定規をあて、描きかけの線をのばしてゆく。
私のしたいこと。私のやりたい仕事。私にしかできないこと。
私が造りたい家。
いつか理想に辿りつくための、ありったけのアイデアを紙に写してゆく。すぐエーリカは夢中になった。眠っているあいだもアイデアを量産していたんじゃないか、というくらい無尽蔵に沸いてきて手が追いつかない。戻ってきた看護人に怒られてやっと入院患者らしくクッションに後退する。……オスカーまで巻添えで怒られていたから不憫だ。
視線を交わしてばつの悪さを分けあった。
そのうちにまた、オスカーのまなざしが本来の力を発揮しはじめる。
彼しか持っていない力。
それは幻視の能力だけではない。
さっきまで何の話をしていたのだったか……ふと思いだして、エーリカは思わず目をそらした。
「だけどきみを困らせたくないんだ」
しばらくしてオスカーが言った。
エーリカは少し、考えてみた。
「それは私も同じ。私もあなたを困らせたくない。だって私たちは――
ヴァイニンガーの論文を真にうけていたら別だけど、とエーリカは肩をすくめる。
「きみの困ると僕の困るが矛盾したら?」
「そのつど話しあって調整すればいいと思う」
氷青のまなざしがにわかに真剣さを帯びた。
「でもまだ友達。ずっと友達かも。というか今のもぜんぶ友達としての話」
誤解を与えているのではないかと怖くなったので、慌てて言った。「そうでなければ、これで本当の終わり」
ふっと力を抜くようにオスカーが瞼を伏せる。
それからあらためて美しい貌をあげた。
「いや、はじまりだよ」
僕は人見知りだから、ゆっくり時間をかけるのは僕のほうが得意なんだよ。
心臓の位置に手をあて、淡くはにかむ笑みをみせて。
そして彼は言った。
「初めまして、エーリカ・フォン・クレーフェ。僕の名前は――」
[ ――しかし、わたしの願望と意志とはすでにめぐっていて、
それを動かしたものは、さながら同じようにまわる車輪のように、
太陽ともろもろの星をうごかす愛であった。 ]
〈了〉
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