3
オスカー・オルフォイスは左側へ引きよせた小卓に手首から先をのせ、ペンを動かしつづけていた。一分ごとにメモ帳の剥がしとられる音がして、そのつどにインクのまだ乾いていない紙片がひらひら床へ舞いおちる。
だがオスカーのまなざしはずっとエーリカのうえに注がれている。話のあいだ、一度たりとも逸らされぬまま。
その背後ではインクの乾いたものからタマが一枚ずつメモを回収していた。
「姉を捜しだしてもらうためなら、何でも赤裸々に話す覚悟で来ました。言ったとおり私たちの話は公然のものになっているので、いまさら隠しようもないんですけど」
一語一句、洩らさずにエーリカの言葉は書き留められているのだろうか。ただの筆記ならばタマに任せてもよさそうなものだ。彼自身の閃きをまじえた捜索メモ、なのかもしれない。
「探偵の独自の勘で、家出人の辿りつきそうなところとか、わかりますか」
「僕は探偵ではない」
「え?」
「探偵じゃなくて、〈捜索社〉だ。失踪人を捜してつれもどすことを専門にしてる。きみのためにあるようなオスカー・オルフォイス捜索社だ。僕はきっとベアトリーセ・フォン・クレーフェときみとを再会させてみせる」
やけに熱心な表情でオスカーは断言した。
「ええ、おねがいします」
びりり、と新たなメモを剥ぎとって無造作に散らし、オスカーは一旦、ペンを置いた。冷めた紅茶を空にしてから、菓子の山にうずもれた棒つきのボンボンを二本の長い指で挟みあげる。
重くねじれたエーリカの事情語りに軋みをあげていた空気が、彼の優雅な仕草ひとつで、やわらかくとろける。
「失礼なことを訊くけど、その髪の毛は?」
星形のボンボンをくるくると、オスカーは自らのうなじのあたりに向かって回した。
「ああ、これ……」
エーリカは彼の真似をしてくるくると人差し指を回した。
指に引っかかる髪がない。
「そうなんです。これ……」
指摘されて思いだしたが、この件こそが、わりと重要な手がかりなのかもしれなかった。
「誰かが私の家に押し入って、寝ている間に私の髪を切り落としていったんです。それからです。姉の失踪に、実はおそろしい事件が絡んでるんじゃないかと私が確信しはじめたのは」
髪はざんばらに切られていたが、あまりにもみっともなくて仕方がないから自分で修正したのだった。
いまエーリカの髪は、頬にかかるくらいでぱっつんと切り揃っている。
この髪型を新聞にすっぱ抜かれたら、それだけでスキャンダルになる。
「ジョルジュ・サンドよりも短いの。前代未聞」
「男装すればいいのに」
と、タマがもったいなさげに軽口を叩いた。
「それどころじゃないだろう、彼女にとってはとんでもない災難なのだから。――ごめん。タマの趣味なんだ」
異性装でも勘違いヤポニスムでも、タマはいろいろな格好をする趣味があるらしい。
「ほかに危害は」
「いいえ。鍵はすべて閉まっていたし、侵入の痕跡も何もなし。髪だけ切っていくなんて、何かの脅し?」
オスカーはしかし、ボンボンの星のとがったところを口の端におしつけたまま、どこかうわのそらのまなざしで、エーリカを見つめていた。
「それにしても綺麗な赤毛だ。うっとりするよ」
と、しばらくして言った。
「ベアトリーセも私の赤毛をいつも褒めてくれた。でも、いまは短すぎるし」
「そのうち流行ると思うよ」
エーリカは目を閉じて、ひとつ、大きな息をつく。
それから意を決して、毅然とオスカーを見つめかえした。
「あらかじめいいですか。私、そういうの、好きじゃないので。お世辞とか社交辞令的なものでも駄目なんです。もう、男女間の駆け引きみたいなもの全部、ほとほと嫌で。さっきも話したけれど結婚するつもりがないというのは、そのせいもあって」
オスカーは飴をくわえてきょとんとしている。
「つまり一言で言うと男の人が苦手です」
黄色い星がころがりおちた。
「だからここに来ようとしたのも、いまここにいるのも、わりと我慢してます」
言いおえてエーリカは、小さく肩をすくめてみせる。
(――ベアトリーセのためだから、我慢。ベアトリーセさえ見つかればいい)
かふっ、かふっ。とオスカーが咳きこんでいる。
「あーあーもー、まったくさあ」とタマがうしろで呆れている。「対人経験値がゼロなのに調子にのるから」
咳ばらいで発作をおさめて、オスカーは背筋をのばした。
悠然と脚をくみなおす。
「大丈夫だ、丁度いい、僕も人見知りだし」
――堂々とそう言って微笑んだ。
「ええ。でも、それって……」
エーリカは、こちらの要望が通じ、しかもそれで先方の負担を軽くするかたちにもなったことに安堵したが、一抹のとまどいも残った。
人見知りとはふつう、相手の目をまともに見られないものではないのか?
オスカーの氷青のまなざしは、エーリカの瞳に結構がんがん突き刺さってくるのだが?
「依頼を受けるにあたっては、僕のほうからも条件がある。解決にいたるまでは依頼人のきみに捜索現場への同行を何度か願うことになるけど、どこにいても僕の体には絶対に触らないでほしい」
「ええ、もちろん」
言われなくても必要以上に男性には近づきたくない。
「絶対に、だよ。僕の体には触るな」
潔癖性なのだろうか。
と不審をおぼえるが、おやすい条件だ。何の障壁にもならなかった。
「わかった。死んでも私はあなたに触らない」
それはやっと見えはじめた
オスカー・オルフォイス捜索社への依頼を成立させたエーリカの決意の前で、冷めきった紅茶が手をつけられないまま静まりかえっていた。
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