第21片 透明な世界

ときどき、世界は透明なのではないかと思う

ぼくらは、実は透き通った

まんまるのビーだまの上にのっかっているだけで

自然も人工物も、人も動物も透明で

透明だからこそ直に手を触れるまではわからない

そこに存在するものの本質なんて、決して測れはしない


そして、大抵は指一本突き出すこともなく

偽りの色を、当然だと思うから

痛みを感じずにものを壊したり

人を傷つけたりできるんじゃないだろうか


……そうだったらいいのに


本当は、この世界に色なんてないんじゃないだろうか

真っ白ではない

白は白という色なのだから

そう、あえていうなら透明

濁りのない、かぎりなく透明


しかし、それではあまりにも寂しすぎるから

ヒトは古代から、色彩で満たした錯覚を本能に会得して

孤独をまぎわらそうとしたのではないだろうか


この星が太陽の光を受けなくなり

大気を構成する物質の大半が失われたら

そこは暗澹とした黒のみの世界なのだろうに

そんな闇の中でも、生命は姿かたちを変えて

生きつづけるのだろうに


本当は、みんな光を透過しているんじゃないだろうか

反射するわけでもなく、内包できるわけでもなく

ただ事象はスウウと通り抜けるままに

それに身を任せては、生きられなかったのか


この世界には、あまりにも色が生み出された

それらがもたらしたものは混沌

数多の玉石混交を掘り起こし、合体させ、分離させ、壊してしまった


でも仕方がないんだ

ぼくのせいではない

誰のせいでもない

今更、後戻りもできない

先に進むこともならない

そんな風に諦めることもある


昼間どんよりと曇っていたせいか、今夜は星が見えない

それなのに、その果ての見えない空間に

不意に何か光るものを見た気がして

ぼくは本のページを繰る手をとめた


どうしたわけか、ぼくは急にこの部屋から出たくなった

そっと音をたてず部屋を出て、玄関から外へぬける

外は真っ暗で、地面の上に立っているという気がしない

まるで、無重力空間の中に放り出されて

ふわふわとあてどなく、浮かんでいるような感覚だ


もしかしたら、夢なのかもしれない

身体は地上を歩こうとも、心はそこらに散らばってしまって

朝まで回収できないのかもしれない

案外、透明な世界とはこんなものなのかもしれない


素足の裏に触れる砂地が、サラサラと心地よい

靴を履かずに外を歩くなんて

普段のぼくからは考えられない行動なのだが

その新鮮さが心地よい


いくら汚れてしまってもかまわない

うっかり傷を負っても気にしない

暗い砂浜を、黙々と歩きつづける

さてどこまでいこうか

夜明けが来るまでの小さな旅


ぼくは、先ほどまで読んでいた詩を

心のうちに暗誦してみる

単語の一つ一つをかみしめるように、

言葉の裏側までいちいち確かめるように


大好きな詩

ペーター・ハントケの「わらべうた」

今夜知ったんだ

世界中で、こんなとりとめのないことを考えているのは

自分だけではなかった

ただそれがうれしいだけ


『子供が子供だったころいつも不思議だった

どうして僕は僕で君ではないの?

どうして僕はここにいてどうしてそっちにはいないの?

時の始まりはいつ?

宇宙の果てはどこ?

この世で生きるのはただの夢?

見たもの聞くもの嗅ぐものはこの世の前の世の幻?

悪があるってほんとう?

悪い人がいるってほんとう?

僕が僕になる前僕はなんだったの?

そしていつか僕が僕でなくなったら

いったい僕は何になるの?』


小さい頃から思っていた

ぼくは大きくなったら、何になるのだろう

ぼくは大きくなって、いったい何になったのだろう

ぼくがぼくになる前は一体なんだったのだろう


大きく深呼吸をしたあと、ぼくは小さなぼくに答える


変わらないさ、なんでもないさ

ぼくは今も昔もヒトでしかない

ただ薄っぺらい皮膚をまとっているだけの人間なのさ

肌の色だけでなく、成分でも色々差はつけられるけども


錯覚だらけの世界でもいいよ

愚かな色に、溢れていてもいいよ


この色づいた世界に生かされつづけるなら

やっぱり死んだようには生きていたくない

今思うのは、それだけだよ


泣きたいときは、泣いてもいいんだよ

笑いたいときに、笑えばいいんだよ


人を傷つけて傷ついて、そんな風でしか

この世の存在できない存在でもいいよ

ぼくは人間なんだ

こういう風に思考できるのは人間だけだから


だからその人の自我が失われるまでは

ぼくは人を演じつづけていたいんだ


歩きつづけるうちに、だんだんと走り出したくなってきた

もうすぐ昇ってくる太陽をせかすように

光にあふれる朝を両手で乞うように

パンパンと空気をふるわせて

暗夜と太陽が、乾杯をするように


あと数時間たてば、透明な世界が、透明ではなくなってしまう

身体が空に溶けていく、こころが真紅の朝焼けに染められてしまう


やがて、この海の下から、上の空から、

蒼とくれないの命の奔流がぶつかりあい、まじりあっていく。

ぼくはまだ、長い長い旅の途中だと気づく


泣きたいときは、泣いてもいいんだよ

見えない涙が枯れ果てても

悲しければ、うれしければ、泣けばいいんだよ


もう歩いてはいられない

砂を蹴る間隔が、だんだんと短くなる

家につくころには、ぼくは半透明ではなくなるだろう

小さな旅の終わりは、いっそ走って帰ろう




※『 』内はペーター・ハントケの「わらべうた」から抜粋

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