ディア・パラサイツ
one minute life
第1話 ヤコブ来たる
ボクの名前はヤコブ――ここでは「チップニ」と呼ばれている。
ボクがここにやって来たのは、三年前のクリスマスの晩、カイという九歳の男の子に見初められて一緒に住むようになったんだ。カイには、見た目の若い父親のアキと実際に若い母親のサラがいて、ここはそれまで家族三人で暮らしていた家だ。ボクは、この家ではカイの弟ということになっている。本当はカイよりずっと年上なんだけれどね。
普段、ボクは一階の寝室にいることが多い。この家は朝の始まりが早くて、四時五十五分になると、ベッドの足許にある小さな冷蔵庫の上の目覚まし時計が鳴り始める。もっとも、先月までは今より一時間ほど早く鳴っていた。そして、アキの横で寝ているサラがそれを聞くが早いか、柔軟か腹筋でも始めたかのように上体を起こすと、すぐにその音は鳴り止む。この時、ボクはいつもアキの腕枕で布団の中にもぐっている。
それから彼女はベッドから飛び出て、隣のベッドでモンスターのようないびきをかいているカイの布団を引っ剥がしてこう言うんだ。
「カイ、もう五時だよ、起きなよ!」
寝坊助なカイは、一度や二度、声をかけられたくらいでは起きやしない。そして、サラはきまってこう続ける。
「朝ご飯は、かつサンドの他に、ベーコンエッグを焼けばいいの?」
すると、カイは車海老のように腰を曲げながらようやく起き上がる。カイは、寝ることと食べることが大好きなのだ。ボクは、食べることに興味がないからよく分からないけれど、きっと、サラが朝食のメニューのお伺いを立てると、その食卓のイメージ画像が彼の脳内に稲妻のように飛び込むのだろう。その結果、すんなり「いいよ」と応えることもあれば、「他には何かないの?」と拒否反応を示すこともある。アキは、そんなやり取りが終わるのを布団の中でボクとじっと待っている。他の二人より床に就くのが遅い彼は、これからの三十分ないし一時間が至福のひとときなんだ。交渉を終えた二人が寝室を出て行くと、寝相の悪いサラにベッドの右隅に追いやられていたアキは、その身体を少し左へ移動させ、ボクの枕を右腕から左腕にかえて抱きしめるように眠る。たまにちょっと息苦しいこともあるけれど、アキの幸せそうな寝顔を見ていると、ボクもとても幸せな気分になれる。
ボクがそんなアキの寝顔を見るようになってから三ヶ月になる。それまではカイのベッドにいた。といっても、それは秋から冬の間だけの話で、特に夏場はジプシーのようだった。ボクのフサフサした茶色の毛は、寒い時には彼らに大人気だけれど、暑い時はうっとうしいだけのようだ。おまけに、カイもサラも、ボクの他に冬の寒さをしのぐすべを持ち合わせている。ベッドには、耳の黒いビーグルが子供から大人までたくさんいるんだ。だから、特にカイに飽きられてしまったボクの今の相手は、専らアキ――これが現在の絵面だ。
「どうせ、夏になればアキもチップニを放り出すよ、暑苦しくて一緒に寝られるわけないから」
サラはアキによくそう言う。でも、
「夏になっても一緒に寝るよ」
アキのこの言葉にボクは期待している。……
ボクは、この家に来て楽しいことばかりだ。でも、欲をいえば、ひとつだけ悲しいことがある。アキと仲良くしているおかげでサラやカイにちょっとした意地悪をされることがたまにあるんだ。サラとアキとの間で争いごとがあると、ボクは彼女に顔を踏みつけられたり、首を百八十度、背中の方までひねられたりする。目が卵形でくりくりっと大きいから「目潰し」ももらいやすい。そのせいで、スポンジケーキのようにふっくらしていたボクの顔はサンドイッチのパン生地のようにぺたんとなり、首の座りもすこぶる悪い。目の方は幸い丈夫にできているから、今のところ平気だ。
ところで、この二人の争いは、見ていると、他愛ない言葉の行き違いから始まることがほとんどだ。
この前のアキが休みの晩、食器の片づけも一段落した彼がコタツに腰を下ろすと、いつものように長い足先が二本、コタツ布団からのぞいてきた。これはサラのアキに対する足裏マッサージのリクエストだ。アキは、先ず左手でサラの右足の甲をつかむ。それから手のひらで親指を包むようして作った右の拳を彼女の右足の土踏まずに押し当て、ぐるぐると手首を回し始める。――サラはこれが大好きなのだ。右足が終わって同じように左足をマッサージしていると、アキは、ついウトウトして手を止めてしまった。すると、サラは左足を軽く動かしてアキに続きを催促した。
こんなことは、よくあることなんだけれども、この時は、アキがいつもより疲れていて眠りが深かったせいか、「ちゃんとやれよ」と手を蹴られたような錯覚に陥ってしまった。
「蹴らなくたっていいだろ?」
アキが不機嫌そうにこう言うと、今度はサラの導火線に火がついてしまった。
「蹴ったんじゃなくて触っただけだよ、大げさなんだから」
「ウトウトしていたんだから、びっくりさせるなよ。口があるんだから、口で言えばいいじゃないか」
「足の方が手っ取り早いよ。いつものことじゃない?」
「――俺は前からそうされるのがいやだったんだ。いつも我慢してたんだ」
「ああ、そう。ならリコンしようよ、そうすれば一人だから、我慢もしないで済むからさ!」
「またそれか――」
アキは、はっとして眠気から覚めた。
これはいつものまずい展開だ。彼は、その後のサラの連射弾にじっと耐えて受け流していたものの、サラの執拗な攻撃に遂には血戦の火ぶたを切ってしまった。……
やめておけばいいものを、いつも最後に謝って許しを乞うのはアキなんだからね。オトコというのは学習能力のない生き物なんだな、とつくづく思う。ボクにとっては、彼らのやり取りは微笑ましい限りなんだけれど、そのうち矛先がボクに向いてくるからできればやめてほしい。
サラは、相手を効果的に不愉快にすることにかけては天才的だ。相手が大切にしているものに危害を加える、彼女にはイタリア・マフィアの素質がある。そして、彼女ほどには過激でないものの、カイもその血を引いている。カイには、父親のアキと対等に渡り合えるだけの器量はまだ、ない。真っ向からアキに挑めない代わりに、何気なさそうにボクの顔の上に腰を下ろしたり、頭が臭いなどとののしったりして、アキの表情をうかがうのを楽しみにするんだ。しかしこんな時、アキはカイを全く相手にしない。それどころか、気づかぬ素振りをする。彼の歪んだ意欲を挫くにはこれが最適なのをアキは知っているからだ。急がば回れ。ボクはこう思ってアキを支持して笑顔で耐えることにしている。
とはいっても、こんなことがしょっちゅうあるわけじゃない。普段は、サラもカイも、ボクを「チップたん」と呼んで可愛がってくれているし、街中にいた頃のように「ぬいぐるみ」とか「シマリス」なんて言われることもない。
いずれにしても、ボクがアキに好くしてもらっている代償としては、ちっぽけなものなのさ。…… (つづく)
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