メディカルチェック

高校生の少女は、真っ暗な世界にいた。

医薬品の匂いが漂う静かな部屋の椅子に座り、ただひたすら下を向いている。

少女は、無理矢理連れて来られたこの場所が、病院だと確信していた。

ふいに少女の頭に大きな手が乗せられた。

「・・・・・っ!?」

驚く少女に、上から降ってきた声は笑った。

「そんな暗い顔してどうしたんだ?」

男の声だった。

少女はその手を下ろし、立ち上がった。

少女の視界に、目の前の男は映っていなかった。

「暗い顔なんてするな。笑え」

「っ・・・楽しくもないのに・・・笑えません・・・!」

少し怒ったように少女は言った。

すると、男は小さく笑う。

「なるほど。確かにそうだな・・・・・じゃあこう考えよう。楽しいから笑うんじゃない。笑ってるから、楽しいんだ」

「・・・意味がわかりません」

少女は男に向かってきっぱりと告げた。

「笑う門には福来るっつーことだ」

そう言った男が、どんな顔をしているのか、少女は知らない。

少女の瞳には何も映らないのだ。

ただ唯一映るのは、暗い闇だけ。

「・・・・・貴方は、一体誰ですか?」

少女は警戒の籠った声でゆっくりと呟いた。

「俺は、早乙女 幾斗さおとめ いくと。今日からお前の担当医になった」

その言葉に、少女は深い溜息をついた。

「私は本来ここにいるべきではないのです。私の視力は・・・絶対に戻らないんですから。治療なんて不可能です」

―――少女は盲目だった。

暗い世界しか映さない少女の瞳。

そして少女はもう、自分の瞳が何かを映すことはないと、治ることはないのだと、わかっていた。

「目が見えないくらいで何だ。見えなくても充分生きていける」

幾斗は軽い口調でそう言った。

その言葉に、少女は叫んだ。

「っ・・・・何も知らないくせに・・・・勝手なこと言わないで下さい! 私が今まで、どんなに・・・・・っ」

そこまで言い掛けて、少女の言葉が途切れた。

幾斗がそっと少女の口に手を当てたのだ。

「そう怒るなって」

「っ・・・・・」

口を閉ざした少女の口元から手を放すと、幾斗はそのまま少女の手を掴んだ。

「ちょっと俺に付き合え。治療開始だ」

「なっ・・・い、嫌です! 放して下さい!」

「まぁまぁ、そう言わずに、仲良くしよーぜ」

嫌がる少女の手を決して放さずに、幾斗は歩き出した。

「治療って何ですか!? 私の視力はもう・・・・戻らないと言っているじゃないですか!」

どんなに有名な大病院の名医だろうと、彼女の視力はもう治らないと、皆匙を投げたのだ。

「俺が治すのはお前の視力じゃない」

「っ・・・・!?」

その言葉に驚いた少女は、抵抗も虚しく強引に連れ出され、そのまま引っ張られて行った。

風を肌に感じた所で、少女はやっと幾斗から手を解放された。

周囲の雑音と吹き付ける風に、少女は連れ出された場所が外だとわかった。

「・・・・外に連れてきて、一体何を・・・・」

「ちょっと失礼」

「ひゃ・・・・・っ!?」

突然、少女の身体がふわりと浮いた。

腰にあるのは幾斗の両手。

驚いた少女は、抱き上げられたまま固まっている。

しかし、すぐに何かの上に座らされ、両手が放された。

「な、何なんですか!? これ・・・・・っ」

少女は自分が座っている物に恐る恐る触れる。

「俺のバイク。ヘルメットつけるぞ」

幾斗のその言葉と共に、少女の頭にバイク用のヘルメットが被せられた。

「さ、行くぞ」

少女の座っている目の前の位置に座った幾斗は、そっと少女の両手を自分の腰に巻き付かせた。

「ちょ、ちょっと待って! こ、怖いです! 降ろして下さいっ!」

状況についていけず、半泣きで怖がる少女に、幾斗は安心させるように笑った。

「絶対落とさねぇから大丈夫だ」

「嫌ですっ!!」

即座に返ってきた返答に、幾斗は吹き出した。

「信用しろって。行くぞ」

バイクが動くと、もう何を言っても無駄なんだと少女は諦め、慌てて幾斗の腰に回している腕に力を込めた。

しかし、走り出したバイクは超安全運転で、少女は拍子抜けしながらほっと息を吐いた。

「あ・・・・・貴方、本当に医者なんですか?」

少女は、やや警戒の籠った声で小さく聞いた。

「何だその質問は。こんなに医薬品の匂いさせてる俺に聞いてんのか?」

笑いながら答えた幾斗からは、確かに薬の匂いがする。

「普通、初対面の人がこんなことしません!」

「そーか?」

「そうです。貴方もしかして、誘拐犯とかじゃ・・・・!」

思わず言ってしまった言葉に、少女はハッとして慌てて口を閉じる。

「それは・・・・かなり心外だな」

低めの声が聞こえた瞬間、バイクのスピードが上がった。

「ちょ、ちょっと・・・・!!」

その後しばらく痛いくらいの風を身体に受け、ようやく2人を乗せたバイクは止まった。

「っ・・・・」

ふらふらになりながら項垂れた少女に、幾斗は余裕な声で楽しかったか?とまた笑った。

再び抱き上げられてバイクから降ろされた少女は、問答無用で幾斗にゆっくりと手を引かれて歩き出した。

「どこへ行くんですか!」

「すぐそこだ」

少女の足元に気を配りながら手を引く幾斗は、やがてピタリと足を止めた。

「着いたぞ」

「・・・・・・どこにですか」

「どこだと思う?」

その言葉に、少女は耳に届く波の音に気付いた。

「・・・・海、ですか?」

「正解。目の前の丘の下は海だ」

次に、少女の鼻を甘い香りがくすぐった。

「俺には今、目の前に広がる海と、足元に咲く花と真上に輝く太陽が見えている」

幾斗のその言葉に、少女の心が痛んだ。

「・・・私には、何も・・・・見えません」

ズキズキと痛む心を抑えながら、少女は小さく言った。

「それでいい」

大きくて温かい手が、少女の頭に乗せられた。

「お前は太陽を見たら、その眩しさよりも先に暖かさに気付くだろ? 花を見たら、美しさよりも先に香りを感じるだろ? 海を見たら、その大きさや広さよりも先に音が聞こえるだろ?」

「・・・・・?」

「お前はお前の景色を感じればいい。目に映る物が全てじゃない」

そう言った幾斗の声は、ひどく優しかった。

「っ・・・・・さっき、貴方は言いましたよね?・・・・・私の視力ではなく、一体何を治療するつもりですか?」

「それは秘密だ」

「私・・・・視力以外は至って健康で、病院に行く必要も、貴方の患者になる必要もないんです」

そう言って少女は、まだ自分の頭上に乗っている大きな手を下ろした。

「いや、俺から診たらお前は軽い病気に掛かってるな」

「・・・・・・何を根拠に言っているんですか?」

怪しげにそう呟いた少女に、幾斗はちらりと視線を向けたが、少女の目には映らない。

「心配なんてしなくていい。俺が治してやるから」

自信気にそう言い放った幾斗は、続けて言った。

「幸せを手にするのは俺達の権利。そして、希望を捨てないのは俺達の義務だ。盲目だからって不幸に思うな」

「っ・・・・・・」

そんなことを言われたのは、初めてだった。


それは、今まで絶望と暗い世界しかなかった少女の心に、小さな光が差し込んだ瞬間だった。

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