第2話 蠢く闇の勢力
話は二ヶ月前に遡る。
大阪の北方、箕面市の閑静な高級住宅街を抜け、大阪の中心部が一望できる丘の頂上付近まで上って行くと、一際豪壮な邸宅が姿を現す。
敷地は約千八百坪。その四方を邸内が隠れるように囲った高いコンクリート塀。それもただの塀ではなく、中には鉄板を嵌め込み、上部には忍び返しの鉄線を張り巡らし、緊急時には電流が流れる細工まで施されている。十数台の監視カメラが邸内の至るところに配置された物々しさは、簡易の要塞のようでもあった。
先刻より、邸宅の南側、大きく開かれた正門を黒塗りの高級車が引っ切り無しに潜っていた。数にして百数十台。その度に、正門の内外に整列している数十人の黒尽くめの男たちが、何か大声を上げて腰のあたりまで頭を下げた後、車を先導するなどして忙しなく動き回ったため、正門の外で不測の事態に対応すべく警戒に当っている、三百人以上の重装備の機動隊との間に、一食触発の緊張が生まれた。
空には報道ヘリが飛び交い、地上では十数台のカメラと百名を越える報道陣が注視しているこの邸宅こそ、日本最大の暴力組織・大王組組長の住居だった。
ただの私邸ではない。大王組の組長は、代々この邸宅に住まいして陣頭指揮を執るのが慣わしで、したがってこの邸宅こそ、総数四万人にも及ぶ全国の構成員に大号令を発する拠点なのであった。
まさに本丸とも言うべきこの場所で、大王組の臨時拡大幹部会議が行われようとしていた。
毎月一日には、若頭、若頭補佐、舎弟頭、舎弟頭補佐、本部長、各支部長ら二十数名による最高幹部会議が行われるが、それとは別に、年に一度大王組の直系傘下の組、つまり組長から直接弟分あるいは子分の杯を貰った組長が一同に介して、向こう一年の大枠の行動方針を決定する会議が拡大幹部会議である。
毎年、正月三日の新年事始に併せて行われるのが慣例であり、火急を要する場合にはその都度随時召集されてはいたが、この日は正月の拡大幹部会議から二ヶ月も経たないうちでの緊急開催であったため、内部に異変でも起こったのか、と大阪府警とマスコミは重大な関心を寄せていたのだった。
六十畳敷きの大広間では、六代目組長・山城忠徳(やましろただのり)を床の間を背にした上座に戴いて、直参組長が左右両側に十二名ずつ五列に座しており、広間の下座とそれに続く三十畳の間には、各組の若頭が山城と向き合うように列していた。
この拡大幹部会議においては、直参組長の他に、各組の若頭も忌憚の無い意見を述べることができる寛容な会議でもあった。
「では、会議を始めます。本日は御多忙中、ご苦労様です。こうして皆様にお集まり頂いたのは……」
議事進行を務める、大王組若頭で神戸・澤健(さわけん)組組長の澤村健治(さわむらけんじ)がそこまで言ったとき、
「待て、澤村。俺が話そう」
と、山城が遮った。
「親分が直々に、ですか……」
澤村は、酷く驚いたように山城を見つめた。
それと言うのも、こうした会議は、山城の意を汲んだ若頭の澤村と舎弟頭の寺岡、本部長の山崎の三人が予め相談の上、大枠の結論を出しておき、その上で彼らが議論の方向性を導き、衆議一決した後に山城の了解を取り付ける段取りになっていたからである。
それだけに、山城が議論の途中はもちろんのこと、冒頭で所見を述べることは極めて異例だったのである。
「今日、皆に集まってもらったのは他でもない。新しいしのぎの件を諮るためや。わしは澤村から話を聞いたんやが、悪い話ではないと思うとる。そのつもりで、皆もよう考えてくれや」
一同に動揺の波紋が広がった。
『しのぎ』とは、言うまでもなく組の収入源となる経済活動のことである。
いまや暴力団といえども金が大きくものを言う時代になった。警察や市民、マスコミの目が厳しくなった昨今、抗争時に発言力を持つ武闘派より、いわゆる経済ヤクザと呼ばれるような、裏社会だけでなく、表社会でも事業を展開して経財力を身に付け、上納金以外にも本家の懐を潤す組の方が発言力を増してきていた。
また、暴力団対策法によって当局の締め付けが厳しくなった現在、しのぎは組の死活問題である。しかも大王組は、代々最も稼ぎの良い、覚醒剤を始めとする麻薬類の取り扱いを厳しく戒めていた。禁を破った場合は、破門あるいは絶縁と、ヤクザ組織においては最も厳しい処分を課していたのである。
それだけに、山城の『新しいしのぎ』という言葉に、神経を尖らせるのも無理のないことだった。
「この件は、勝部から持ち込まれたものなんで、彼より説明させます」
澤村に促されて、左手最前列の中ほどに座っていた、大王組若頭補佐で大阪・大龍組組長の勝部幹夫(かつべみきお)がおもむろに口を開いた。
勝部の話を聞いていた一同の顔色が、見る見るうちに変わっていった。
臨時拡大幹部会議の後、澤村と勝部は本部会議室で密談に及んでいた。
澤村健治は、六代目山城大王組の若頭として、七代目に最も近い男である。重病、長期の服役、あるいは重大な失態さえなければ、ほぼ間違いなく七代目を襲名する。
武闘派の澤村が若頭の座を射止められたのは、勝部幹夫の経済力のお陰と言っても良かった。当局の締め付けも厳しくなり、大きな抗争も無くなった今日、単に武闘派というだけでは、頂点に上り詰めることが難しい時代になった。日本最大の暴力組織である大王組もその例外ではない。
澤村は四代目の頃より、全国制覇を標榜する大王組の特攻隊長として、対立する組織との抗争の矢面に立っていた。その功績を買われ、五代目に代替わりしたとき、若頭補佐に抜擢されたのだが、六代目若頭の座を巡っては強力なライバルがいた。豊富な資金を背景に大王組に貢献してきた者だった。
金儲けには全く無頓着だった澤村の、若頭就任に黄色信号が点ったとき、その危機を救ったのが勝部だった。同郷の後輩だったこともあり、典型的な経済ヤクザである勝部は、経済面で献身的に澤村を支えた。
一昔前のバブル時代には、地上げや土地の転売で五百億円以上の利益を得、数年前から始まったITバブルでは、新興市場の上場基準や株主監査が甘いと見るや、IT関連企業を設立、上場させて創業者利得を得るなど、利益を思うがまま手にしてきた。
そうして得た潤沢な資金は、株式や商品取引相場、貸しビルや金融業などで運用され、さらなる利益を生み出していた。勝部は、その儲けを惜しみなく澤村に献上したのである。
むろん、勝部にも野望と打算があったことは言うまでもない。澤村の出世は、彼の出世にも繋がるのだ。結果、澤村は若頭となり、彼の取立てで勝部は若頭補佐に就任した。今回の計画を成功させれば、大王組に対する勝部自身の貢献も大で、澤村が七代目に就いたとき、若頭候補の最右翼に伸し上がることができる。それは取りも直さず、八代目の座に手が届く位置に上ったということである。
「若頭。実は、一つ問題が起こりました」
勝部は渋い面で言った。
「なんや」
澤村の目が鋭く反応した。
「裏切り者が出ました」
「裏切りやと」
澤村の語気が強まった。
「奈良君と共に出資していた男が、裏切りを図っていることが分かりました」
「確かか?」
「貫主様からの情報ですので、確かかと……」
貫主とは本山などの住職を指している。他に法主、管長、座主などの呼称があるが、いずれにしても高僧である。
勝部はドアの方に視線をやり、小声で言った。
「ほなら、間違いないのう。せやけど、乗っ取るというても、ライセンスがなければ動きようがないやろ」
澤村も声を低めたため、しゃがれた声がいっそう渋みを増した。
「そこで、まず今津を取り込もうとして、断られたようです」
「そりゃあ、そうやろ。今津は、わしらの怖さを知っているやろうからな」
「はい。そこで、別の方法を画策しているようです」
「どんな方法や?」
「まだ、そこまでは分かっていませんが、彼が我々を裏切ったのは間違いないようです」
「今津には、もう一度因果を含めるとして、その男はいざとなれば……」
澤村はそこまで言うと、後は目で勝部に合図した。勝部も後に続く言葉は分かっていた。
「そうしますと、当てにしていた十億の手当てをしなければならなくなります」
「十億か。小さくはないのう」
澤村は腕組みした手で、顎を擦った。
「それくらいなら、私の方でどうにでもなりますが、クリーンなイメージを保つためにも、あからさまに私が表に出るのは拙いと思います」
「そりゃ、そうやな」
「貫主様も新しいスポンサーを紹介すると申して下さっていますが、ただこの先、事業の設備投資にいくら掛かるか分かりませんので、我々のリスクを軽減するためにも、堅気の出資者は一人でも多いことに越したことはありません」
「言うことはわかるが、獅子身中の虫は始末せんとな。親父の耳に入れたからには、本末転倒にでもなりゃあ、わしらの首も危なくなる。この際、金は問題やない。どんな小さな障害も取り除かにゃあならん」
澤村は顎の手を首に回した。その頬は緩んでいたが、目は冷たい光を放っていた。
「分かりました。仰せの通りにします」
そう言った勝部の面に緊張の色が奔っていた。
翌日の昼前、光智の携帯に恭子からのメールが入った。
『ご相談したいことがありますので、今夜七時にお店に顔を出して頂けないでしょうか。お返事待っています』
光智は首を捻った。昨日知り合ったばかりなのに相談事って何だ? と訝ったのである。
光智は恭子にメールを返した。
『結城君は知っていますか?』
すぐに返信があった。
『知らせていません。できれば、彼には内緒で、お一人で来ていただければと思います』
光智は迷った。真司の気持ちを忖度すれば、内緒にしておく訳にもいかないと思った。 だが、すぐに別の思いが過ぎった。
――もしかすると、真司のことなのかもしれない。真司は、恭子に交際を迫っていた。彼はそう思っていなくても、恋愛経験の少ない、いや全く無いかもしれない恭子にすれば、執拗と感じているのではないか。矢崎に恋心を抱いていれば、迷惑とさえ思っているかもしれない。しかし、母娘は正面切って断わることができないので、俺が現れたのをこれ幸いと、引導を渡す役目を負わせようとしているのではないか。
そう考えれば、真司には内緒にして欲しいというのも納得できた。
『それでは七時にお店に行きます』
と、光智はメールを送った。
光智は約束の時間の十分前に、サンジェルマンを訪れた。メインの照明はすでに落とされ、キッチンの小さな電球の頼りない明かりの下に、二つの影が揺らめいていた。
その情景に、光智の気は自然と引き締まった。他の場所と違って、大学通りの喫茶店は扉を閉める時間が早い。学生相手の商売だけに、最終の講義が終わって一時間後には、客足がピタリと止まるからだ。
サンジェルマンが、普段は午後七時に閉めることを光智も聞いていた。ならば、最終の客が残っていてもおかしくはないし、たとえ客がいなくても、自分の来店のために、通常営業をしていても良さそうなものである。
ところが、早々と店を閉めてしまったことからして、やはり真司にとっては辛い宣告を言い渡されるのだろうと察しを付けたのだった。
今晩は――。
光智はドアを開けて、声を掛けた。
「あ、いらっしゃい」
カウンターに座っていた二人は、同時に振り返った。
「こちらへ座って。何をお飲みになる?」
玲子がそう言って、恭子の隣の椅子を勧め、自分はカウンターの中に入った。
「簡単なもので結構です」
「じゃあ、ホット・コーヒーで良いわね」
玲子は、手早くコーヒーを入れて光智に差し出しすと、彼がカップを手に取る間もなく話を切り出した。
「実はね。別当さんが法学部の優秀な学生さんと見込んで、ご相談したいことがあるの」
――何だ? 真司のことじゃないのか。
光智は肩透かしを食らった気分だった。
「別当さんは加賀見食堂をご存知でしょう?」
「加賀見食堂って、正門前の角の食堂ですか」
「そう、その食堂」
「もちろんです。貧乏学生の私には、美味しい上に学生食堂とさして変わらない値段だったので、ずいぶん助かりました」
「実はね。あの五十坪ほどの土地が二区画に分けられて売りに出ていたらしいのだけど、うっかりしていて、それを知ったときは手遅れだったの。すでに、二区画とも売買の仮契約済みだったのよ」
「はあ……」
――それが、いったい俺とどういう関係があるのだ?
光智は、玲子の真意が読めなかった。
「そこで、ご相談なのですけど、その仮契約をひっくり返す方法ってないかしら?」
――そういうことか……。また、厄介なことを言い出したものだ。
用件は違ったが、これはこれで光智は閉口した。
「お店、こんな辺鄙なところにあるでしょう。それでも、恭子や真奈ちゃんのお陰で繁盛しているけど、これで表通りに進出できれば、もっと手を広げられると思うの」
サンジェルマンは、二人掛けテーブルが三つと四人掛けテーブルが五つ、それにカウンターに六席あった。
「私もそう思います。ここの倍の広さでも、やって行けると思います」
「そうでしょう。表通りにお店を持つことは、こっちに引っ越して来たときからの私の夢だったの。今では恭子と二人の夢にもなっているわ……。おそらく、この先こんなチャンスは二度と訪れないと思うの。だから、何としても手に入れたいのよ」
玲子の口調には切実さがあったが、その一方で悪戯っぽい表情も垣間見える。どうにも、つかみどころのない女性である。
昨日、名乗ったときの反応を思い出すと、何やら試されているような気もした。
――もしかして、彼女は俺の正体を知っているのか。
光智は猜疑心を抱きつつも、しばらく思案した。
深と静まり返った中で、横から投げ掛けられる恭子の真摯な眼差しを痛く感じていた。
やがて、ふっと一息吐くと、光智は穏やかな口調で訊いた。
「売り手は加賀見さん本人ですか?」
「いえ。帝都庶民信用組合という金融会社です。加賀見さんは、そこの返済が滞り、担保に入っていた土地を売却することになったの」
「購入者は分かりますか」
「ええ。一人は、表通りに『ルノワール』を構える島原さんで、もう一人は駅の向こうで『ナホトカ航路』を営業している岡村っていう人らしいの」
「それなら、まだチャンスはあるかもしれませんね。でもこの件は、私より結城君の方が頼りになるでしょう」
光智は、この申し出を真司に任せようとした。手柄を挙げさせ、彼の株を上げようと思ったのである。
「結城さんには悪いけど、別当さんの方が数段優秀だと伺っているけど……」
いえ、と光智は首を横に振った。
「結城だって帝大法学部の学生です。そこいらの奴よりは遥かに優秀ですよ。それに、このケースの場合、資産家の息子である結城の方が頼りになります」
「どういうことですの?」
「仮契約の内容が分かりませんので、断定はできませんが、仮契約を破棄するというデメリットを埋めて余りあるメリットがあれば、相手も一考するかもしれないということです」
「……」
母娘には、光智の謎賭けが分からなかった。
「金を積むのです」
周知の事実だが、銀行を始めとする金融機関は、その濃淡は別として、例外なく客を選別する。法人と個人では、法人を優遇するのはもちろんのこと、個人の場合、一億円以下の預金は『クズ客』と嘯く行員もいるとの実しやかな噂もある。
そうは言うものの、行員のノルマという観点からも、他の条件が同じであれば、少しでも多くの預金をしている客を優遇するというのが人の情というものである。
光智は、仮契約をした二人も、それなりの金額を帝都庶民信用組合に預金していると読んでいた。したがって、彼ら以上の預金をすれば、あるいは逆転の目もあるのではないかと考えたのである。
もっとも、彼らがどれくらい預金をしたのか知らないし、仮契約をひっくり返すためには、その何倍の預金をしたら良いのかも分からない。それでも光智が可能性を示唆したのは、仮契約者が少なくとも法人ではなく、個人だったからである。
「そういうことか……。さすがだわ」
玲子は目から鱗を落としたように言った。
「ただ、担当者によっては、いくら金を積んでも融通の利かない堅物もいるかもしれませんが……」
「その場合は、仕方ないわね。私の落ち度だから諦めるわ」
「問題は預金の額です。ママさんがどれくらい資産をお持ちなのか知りませんので、結城を頼ってみては、と思ったのです」
「でも、結城さんにはお頼みし難いわ」
玲子は、気まずそうに言った。
「ママさんもお気付きかと思いますが、真司は恭子さんに好意を抱いています。ですから、ママさんが頼めば、必ずや真司は彼の親父さんに頼んでくれると思います」
「そうかしら」
玲子は首を傾げた。
「と言いますと?」
「結城さんは、顔を合わすと恭子を口説いているけど、私にはからかっているようにしか思えないのよ」
「照れているからではないですか」
「彼は、恭子より真奈ちゃんの方が好きなんじゃないかなあ」
「それはないですよ。僕にはさんざん恭子さんのことを話していますから」
光智はそう言ったが、玲子も自分と同じ感覚であったことに引っ掛かりを覚えた。
「でも、そうならよけいに頼み難いわ。二人の夢とはいえ、恭子の気持ちを犠牲にする訳にはいかないもの」
玲子は困惑した様子で言った。
「犠牲……、ですか。では、矢崎という人に頼んでみてはどうでしょう。実家は医者ではないでしょうか。それに、彼なら恭子さんを犠牲にしたことにはならないでしょう?」
「あはは……」
玲子は声を上げて笑った。横を向くと、恭子も口に手を当てて、笑いを堪えている。
「別当さん、何か勘違いをされているようね。恭子は矢崎さんのこと、何とも思っていませんわよ」
あっ。
光智は間の抜けた声を発した。非常に勘の鋭い男だが、女心は勝手が違ったようだ。
「あはは……、おかしい、おかしい」
光智の口が半開きなのを見て、恭子も堪らず腹を抱えて笑った。
光智は、顔に熱を帯びていくのが分かった。だがそれは、とんだ勘違いを恥じてのものではなかった。
二人の笑い声が渦巻く中で、光智は照れくさそうに言った。
「では、二日待って下さい。私の方でできるだけ調べてみます。でも、あまり期待をしないで下さい。ご覧の通りの貧乏学生ですから」
光智は、恭子の気持が真司にも矢崎にも向いていないことを知り、胸の奥にくすぐったいものを感じていた。恭子が自分に気があるとは思えないが、精一杯生きている母娘の夢を手助けしてやっても、それはそれで楽しいかもしれないと思ったのだった。
サンジェルマンを出たとき、午後八時を回っていた。光智は路地を戻り、表通りに出た。
静かな夜だった。
大半の店はシャッターを下ろし、わずかに灯りが漏れているのは、中華と牛丼のチェーン店とゲームセンター、そして二十四時間営業の漫画喫茶だけだった。人通りもまばらで、昼間の賑わいとは好対照だった。
昼間は人々が溢れるほどに賑わうも、夜は静寂の中に沈む街もあれば、昼間は殺伐とした荒涼感を漂わせながら、夜はネオンの花が咲き誇る不夜城に変身する街もある。
人の世の営みとは、摩訶不思議なものだと、光智はしみじみと思った。
戻り寒波かと思わせる冷たい夜風が吹き渡っていた。光智は上着の襟を立て、自転車のペダルを力強く踏んだ。
二日後、恭子から閉店後に来店を請うメールが再び入った。光智は、真司に負い目を感じながらも、一人サンジェルマンに向かった。
この日も店の灯りは落ちていた。ドアのガラス越しに中を覗いた光智の目に、カウンターの奥で忙しなく動き回る二人の姿が映った。
「いらっしゃい。やだ、もう十九時? 別当さん、そちらに座って少し待っていて下さる」
ドアを開けて声を掛けた光智に、玲子は弾んだ声で言った。
「これから、ささやかなお祝いをしたいの。帝都庶民信用組合と契約できることになったのよ。こんなに上手くゆくなんて、まるで夢を見ているみたい。これも皆別当さんのお陰よ。いったい、どういう魔法を使ったの?」
玲子は興奮気味に捲くし立てた。
「おめでとうございます。でも、私は何もしていませんよ。支店長にお会いして、上杉さんが預金をされるので、一考願いたいと申し出ただけです」
うふふ……と玲子が意味ありげに笑う。
「別当さん、何をおっしゃっているの。無知無学だけど、私だってあの程度の額で、仮契約を引っくり返せる訳がないことぐらい察しが付くわ」
「いえ。岡村さんの方は、仮契約を済ませていなかったようですよ」
「本当?」
「はい」
「でも、たとえ仮契約はしていなくても、口頭での約束はあったたでしょうし……。その証拠に、岡村さんは支店に預金をなさっていたのだから、やはり不利な状況には変わりがなかったと思うわ」
「はあ。そう言われても、私には身に覚えの無いことですから」
「良いわ。別当さんがそうおっしゃるのなら、そういう事にしておきましょう。どちらにしても、別当さんが私たちの恩人であることには違いないのですから」
玲子は、含み笑いをしながら言った。
光智は、玲子の妙に意味有り気な物言いが気になった。
昨日、光智は金融業界最大手の菱友銀行に電話を掛け、会長の瀬島にこの件を依頼していた。帝都庶民信用組合は、菱友銀行傘下の末端企業なのである。瀬島は帝大法学部を卒業後、旧大蔵省に入省し、同期のトップを切って主計局の課長になった。いわば事務次官レースの先頭を走っていた訳だが、突如菱友銀行の取締役として天下った。以降、常務、副会長と規定路線を駆け上がり、三年前に会長の職に就いた。
そして現在、次の銀行協会の会長に内定している金融界の首領である。
その瀬島は光智の後見人であった。彼は周英傑の父、つまり光智の祖父の代から周家とは親交があり、英傑の日本における事業展開に深く関わっていた。
六年前、英傑はマカオの飛翔ホテルの落成式に招待した瀬島に、光智の後見を依頼した。その後、光智が帝都大学に進学したとき、英傑は菱友銀行に開設していたドラゴングループの企業口座の内、十二口座、総額三千億円を光智の自由裁量にした。光智は村井らの協力を得て、僅か二年の間にそれを五千億円に増やすという離れ業をやってのけていた。
周英傑の総資産は、少なくとも三兆円を下らないと言われ、実質世界一の大富豪とも目されていた。
理由は簡単である。これまで毎年、米国フォーブス誌で発表される、米国人実業家を中心としたランキングは、必ずしも実質的な資産を反映していないからである。
たとえば、資産の多くが自社株式や不動産の所有によってランキングされる資産家は、株価や地価の変動によって、その価値が大きく上下に変動する宿命にあり、しかも自社株である以上、多くの場合は自由に売却することを制限される実情にある。
地価で言えば、バブル全盛期には不動産を多く所有していた日本人が上位を独占した時代もあったが、姿形も無い現状を見れば言わずもがなであろう。
他にもブルネイや中東諸国のように、石油利権で数兆円規模の富を手にしている王族もいるが、彼らとてその資産を全くの自由に扱うことはできない。国の統治形態からして、国民感情を刺激することは憚られるからだ。
これに対して、周の場合は資産の三分の二以上が現金、または他社株式や債券といった現金性資産であり、そういった外的要因の影響が軽微なのである。周は所有する国内外の三十五に及ぶホテルの内、実に二十八のホテルでカジノを営業していた。一つのカジノの、一日の売り上げは平均約二億円、年間総額では二兆円に上った。五パーセントの利益としても、実に毎年一千億円もの大金が周の懐に入る計算である。
この潤沢な資金を元に、企業買収や株式投資などで巨万の富を築いていた。
これが、周をして実質世界一の富豪と言わしめる所以であった。
「恭ちゃん、例の物を別当さんに……」
「はい、ママ」
恭子は、カウンターの奥のドアを開けて入って行くと、すぐに紙袋を提げて戻って来た。ドアの向こうに、住居にしている二階へと続く階段が見えた。
「別当さん。気に入ってもらえるかどうか分からないけど……」
恭子は、不安げに紙袋を差し出した。
「何ですか?」
「恭子がね。さっきまで掛かって選んできたシャツなの。午前中に契約の話が纏まったでしょう。それで、午後から青山で買って来させたの。私はお店を抜けられないので、恭子が一人で買いに出掛けたんですのよ。恭子が一人で買い物に出掛けるなんて、生まれて初めてのことですの」
「それは、どうも。わざわざ、そのような事をして頂かなくても……」
正直に言えば、玲子のもったいぶった言い様が鼻に付いた光智だったが、億尾にも出さない。
「これはRENOMAですね」
「あら。一目だけで良くお分かりなったわね。別当さんって、目利きもできるのですね」
――どうやらママは、自分の正体に何か感づいているのかしれない。
そう思いながら、
「いえ。商標が見えたんです」
と如才なく誤魔化した。
「そうなの……、それはそうと、もう一つ別当さんにはお礼する物がありますのよ」
玲子がそう言って、恭子に目配せをした。恭子は一つ咳払いをすると、
「おほん。えー、別当さんには卒業するまで、当店での飲食を無料とする特典を授与します」
と胸を張って言った。
光智は当惑した。飲食無料の特典にではなく、胸を張ったときに、彼女の下着のラインがくっきりと現れたからである。
豊かな胸だった。脇の下にまで膨らみが及んでいた。腕や腰の細さから、とても想像できないほどの豊満さだった。
「良いワインが有るのよ。こういったときのためにと、取って置いていたの。別当さんは、お酒は大丈夫かしら」
「付き合い程度ですが……」
まあ、と玲子はおどけるように言う。
「その付き合い程度っていうのが曲者なのよね。そういう人に限って、無茶苦茶強いのよね」
光智は、冷や汗を掻いた。玲子の推察どおり、彼は滅法酒に強く、いくら飲んでも人前では酔ったところを見せなかった。それが父英傑の教えだったのだ。
「じゃあ、乾杯しましょう。別当さん、本当に有難うございました」
「乾杯!」
その夜、サンジェルマンには笑い声がいつまでも絶えなかった。だが、弾けるように喜び合う母娘を見つめる光智の心境は複雑だった。
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