智の系譜(イニシャルB・Mの殺意)

久遠

第1話 宿命を背負う男

 陽春の朝の陽射しが薄白く差し込んでいる。

 地上二百五十メートルの高さを誇り、東京湾を見下ろすように建つ湾岸タワービル。昨年、都内港区に建設されたばかりの、真新しい高層マンションの最上階から、南東の方角に広がる房総灘の果てを眺めている男がいた。

 目元には精気が宿り、全身に気力を漲らせている男の名は別当光智(べっとうみつとも)。我が国最高学府・帝都大学法学部の三回生である。彼の視線の先、生まれたての太陽が放つ白光を浴びた銀面には、薄っすらと朝靄が横たわっていた。

 光智が住むこのペントハウスは、二百坪ほどの広さがあった。広めのベッドルームが三部屋あって、そのうち二部屋はトイレとシャワールームが備わった来客用である。他に和室が二間、応接室、書斎、八十畳のリビング、ダイニングキッチンにジャグジー付の風呂とトイレが三つあった。

 そしてもう一部屋--。

 彼が何人たりとも中に通したことのない秘密の部屋がある。

 東に面した二十畳もの広さがあるその一室は、最新の情報機器で溢れていた。大画面パソコン十五台をルーターで結び、内一台をサーバーにしていた。他にFAXと多機能プリンターが揃っている、個人としては相当に大掛かりな設備は、小さな街の証券会社の店頭と比較しても遜色がないほどであった。

 その十四台のパソコンのモニター画面は徐々に動きを止め始めていた。壁掛けの時計の針は、午前六時を少し回ったところを指している。ちょうど、ニューヨーク株式市場が閉じたところだった。

 二〇〇一年四月十四日。

 この日のダウ平均は、企業の設備投資指数が落ち込んだのを嫌気して、三百ドル以上の大幅な下げを記録した。

 よし! 光智は気合を入れると、携帯電話を手に取り、村井という男に『牧野モーター』という銘柄の買い増しを指示した。

 牧野モーターは、産業ロボット用超小型モーターの世界シェアーが三十パーセント強を誇る世界的優良企業だった。その割には、資本金・六百五十億円、発行株数・三千六百二十万株、時価総額・一千億円強の中型株で、そのうえ浮動株が約三十七パーセントもあり、買収するには手ごろな企業だった。新技術の開発に成功し、急成長した企業に多いケースである。

 日本の株式市場は、恐ろしいほどにニューヨーク市場と連動する。まるで合わせ鏡のように同じ動きに終始するため、ニューヨーク市場さえ注視すれば、日本市場は見なくても事足りると言う投資家もいるくらいである。

 光智もその一人だった。しかも、この日の大幅下落の要因が、企業の設備投資指数の弱含みを受けてのものだったため、牧野モーターのような設備投資関連株が下落することは、子供にも分かる道理なのである。

 携帯を切ると、彼は手早く身支度を済ませ部屋を出た。愛車のフェラーリー・テスタロッサを転がし、大学から一駅離れた駐車場に止めると、そこで自転車に乗り換え、学生専用アパートに入って行った。

 築四十年。木造二階立ての二〇三号室。トイレは付いているが風呂は無く、家賃が月額三万八千円の安アパート。ここが彼のもう一つのねぐらである。彼は、大学へ顔を出すときはこの部屋を使っているため、誰一人として彼の正体に気付いている者はいない。


 光智は昼近くまで仮眠を取り、午後になって大学に顔を出した。

 大講堂に入り、最前列の中央付近に座った途端、声を掛ける男がいた。男は光智の姿を見つけるや否や、早足で近づいて来ると、肩に手を置いて覗き込んだ。

「よう、智(とも)。今日こそは付き合ってくれよ。もう一人の方も可愛い娘(こ)だから、お前も絶対気に入るって」

 男は弾んだ声で言った。

「俺は止めておくよ。今のところ、女なんかと遊んでいる暇はないし、お前の言うことが本当なら、そんな可愛い娘が俺みたいな貧乏学生を相手にする訳ないだろう。俺をダシに使わず、自分の力で何とかしろよ」 

「そう言うなよ。俺一人だと、向こうも身構えてしまうし、話のネタもすぐに尽きて気まずくなってしまうんだ。なあ、頼むよ。一度だけで良いんだ」

 男は、とうとう両手を合わせ、拝む仕草までした。そうまでされると、光智は承諾しない訳にはいかなくなった。

「しょうがないなあ。お前には世話になっているし……じゃあ、四限目の講義の後付き合うよ」

 光智はしぶしぶ約束した。

 男の名は結城真司(ゆうきしんじ)。大手家電量販店『結城電器』の三代目御曹司である。二ヶ月前に同じゼミを申し込んだことで、急速に親しくなったばかりだったが、光智は小遣いに不自由のない真司から金銭的な助力を受けていた。彼の誘いで、毎日のように食事を共にし、代金などを奢って貰っていたのである。

 気前の良い真司に、光智は少なからず負い目を感じていたが、特段の意図があるようにも見えず、彼の善意を拒まずにいた。

 頼みとは、他愛のないものだった。正門前のメイン通りから、二つ北の筋にある『サンジェルマン』という喫茶店に、同行して欲しいというのである。『恭子』というオーナーの娘が手伝いをしているのだが、彼女が大変な美人だというのだ。

 十日前、真司は偶然その店を知り、たちまち彼女に一目惚れしてしまったのだという。それから一週間、一日に二、三度顔を出すなどして、彼女の気を引こうと試みたが、けんもほろろの扱いで、一昨日より光智に助力を求めていたのだった。一対一の交際が無理なら、アルバイトの女子学生を巻き込んで、グループ交際から始めようと魂胆なのである。

 真司は同性から見ても良い男だった。背は高く、容姿も十人並み以上である。金持ちの家に育ったにも拘らず傲慢なところが無く、気の良い性格だった。にも拘らず、彼にはこれまで恋人と呼べる女性が一人もできなかったというのである。

 よく美人に恋人がいないと聞いて驚くことがあるが、それと同様であまりに条件が整い過ぎて、却って敬遠されていたのでもあるまいが、不思議なくらい女性に縁が無かったというのは事実らしかった。

 ただ、彼に一つだけ難があるとすれば、優柔不断と言うべきか、一本芯の通った信念というものがなかった。恋という最もプライベートな事ですら、光智に救いを求めることからしても、女性の目から見れば頼りなく映っていたのかもしれない。


 講義は十六時半に終わった。

 光智は講義の合間に、牧野モーターの株が二百二十万株購入できた旨の電子メールを受け取っていた。買い入れ単価は、平均で二千七百八十円。代金は六十億円強となった。二百二十万株は発行株式の約六パーセントに当り、一日での仕込みにしては大成功だった。

「智、行くぞ」

 横に座っていた真司が、机の上を手早く片付けると、満を持したように声を掛けた。だが、光智は腰を上げようとせず、ゆっくりと真司の方を向いた。

「真(しん)。前もって断っておくが、その恭子という娘が俺を気に入っても恨みっこなしだぞ」

「ははは……」

 思わぬ言葉に、真司は高笑いをしたが、真顔の光智を見て、すぐに笑みを消し去った。

「お前、女に興味があったのか」

 あきらかに、からかいの音色が滲んでいた。

「そりゃあ、あるよ。まさかお前、俺がホモ・セクシャルだとでも思っていたのか」

 光智は左手の甲を右頬に当てた。

「いや、それはないが……」

 真司は片手をひらひらとさせた。

「お前はこれまで女性に興味など持ったことがなかったから、驚いているんだ」

 二人は何度か合コンに参加していたが、光智も誰かと付き合うということがなかった。

「出会った娘が、たまたま俺のタイプじゃなかっただけのことだ」

 そう言うと、光智はいっそう真顔になった。

「ただな。これまでは、女性の好みがかち合わなかったから良かったが、女のことでお前と気まずくなるのは嫌だから、前もって断ったのさ。もし自信が無いのなら、俺は行くのを止めるよ」

「そういうことか。分かった。俺から頼むのだから、一切文句は言わないと約束する」

 真司はあっさりと答えた。恭子という女性に執着していたわりには不自然なくらいだった。


 二人は法学部の学舎を後にすると、眼下のグランドを横目に見ながら、緩いカーブの坂道を下って正門に出た。

 前方にはオレンジ色の空があった。正面をまっすぐに貫いている表通りの上方に、太陽が身震いしながら、徐々にその姿を隠す準備に入っていた。天空に雲はほとんどなく、オレンジ色と薄く黒味を帯びた青色がせめぎ合っている北の空の一角に、綿菓子のような雲が一つだけ、ぷわりと浮かんでいるだけだった。

 表通りの両側には喫茶店、本屋、ゲームセンター、ファースト・フード店等々が軒を並べ、往来する学生たちで賑わいを見せていた。通りの中ほどを右折してしばらく歩みを進めて行くと、二つ目の筋の左手に小さな路地が開けた。

 サンジェルマンは、その路地のどんつきにあった。

 大学の表通りから二つだけ北の筋なのだが、路地の両側は古い民家ばかりが立ち並び、装いを全く異にしていた。その佇まいから、口コミでもない限り存在すら気づくことはないと思われた。たとえ気づいたとしても、表通りへの小さな抜け道すらなく、行き来はかなりの遠回りを強いられるため、自然と足は遠退くだろうと推測された。

 光智は、入学してから二年もの間、素通りをしていたのも頷けると思った。およそ、客商売が流行るような場所ではないところにサンジェルマンは在ったのである。

――このような悪条件の場所に在りながら、五年以上も営業を続けていられるということは、それだけこの店には惹き付ける何かが有るということになる。仮に、いや間違いなくそうであろうが、それが真司を虜にした恭子という女性の魅力によるものだとしたら……。

 光智の心にも、恭子という女性に漠然とした興味が沸いていた。とはいえ、彼に真司のような純粋な恋心はない。良くも悪くも、光智はそのような純真な男ではなかった。他人の評価はともかく、少なくとも彼自身はそう思っていた。

「いらっしゃいませ」

 真司がドアを開けると、二つの明るい声が飛んできた。

「あら結城君。今日はお友達とご一緒なのね」

 正面奥の、カウンターの中にいた中年の女性が声を掛けた。四十路の年季の入った色気を纏っているこの女性は、この店のオーナーママ、つまり恭子という女性の母親だろう。

 その横で可愛らしい娘がコーヒーカップを洗っていたが、彼女は恭子ではないと、光智は直感した。どこか暗い影を引きずっている印象は、真司の話から膨らませていたイメージと一致しなかったからだ。

――もう一人の可愛い子……そうか彼女が俺の当て馬だな。

 真司の言葉を思い出しながら、 光智はさして広くはない店内をさりげなく見渡してみたが、それらしき女性は見当たらなかった。

「どうぞ、こちらにお座り下さい」  

 ママの勧めで、真司がカウンターの一番左端の椅子を空けて座った。続いて、彼が空けた椅子に光智が腰を下ろそうとした。

 あっ……。

 洗い物していた女の娘が光智の顔を見て一瞬驚いたような声を発し、そこは……と、何か言い掛けて止めた。

「えっ。ここは駄目なの?」

 思いがけない反応に、光智は気まずそうに訊ねた。

 気まずいというより、怒った表情に受け取ったのだろうか。彼女が言葉に詰まっていると、

「結構ですよ。どうぞお座り下さい」

 と、ママが助け舟を出した。

 そのときだった。光智の背中に、複数の射るような冷たい視線が刺さった。

――どうやら、この椅子には特別な意味があるらしい。

 そう察した光智だったが、席を替えるつもりはなかった。このときは、二度とこの店に来ることはないと思っていたし、特別な意味を知りたいという遊び心が浮かんでいたからである。

「何になさいます?」

 ママが何事もなかったように訊いた。

「キリマンジャロ」

 と、真司が注文したのに対して、光智は自分の流儀を通した。

「ママさんのお薦めを……」

  おっ、と目に力を込めた彼女の頬が緩んだ。

「では、特製のミックス・ジュースはいかがですか?」

「それをお願いします」

 光智も納得の表情で答えた。

 初めての店では、お薦めを注文するのが光智の流儀だった。それは何も、喫茶店やレストラン、バーといった飲食店に限ったことではなく、衣料品や備品、小物といった物までそのようにした。お薦めの品の価値で、その店の価値を判断するのである。

 取引証券会社の担当者を決めるときも、一定期間相手の指示通りに売買を行い、その者の力量と性質を判断したうえで、眼鏡に適った者だけと本格的な取引を開始した。

 ママはバナナやオレンジなど、ミックス・ジュースの材料を手早くまな板の上に揃えると軽く会釈した。

「初めまして。遅くなりましたが、この店のオーナーの上杉玲子(うえすぎれいこ)です。これからもご贔屓に願います。彼女はアルバイトの真奈美ちゃん。真奈ちゃんと呼んであげてね」

 真奈美は、伏せ目勝ちにぺこりと頭を下げた。客商売なのにおかしな話だが、どうやら人見知りをする性格らしかった。彼女の顔を間近で見た光智は、どこかで会っているような気がしたが、口にはしなかった。

 たしかに可愛い娘だったが、際立って特徴のある顔立ちでもなかったので、別人と勘違いしているのかもしれないし、この店で働いているのなら、大学通りですれ違っていてもおかしくはない。

 だが何より、『一度どこかで会っているね』などど、使い古された口説き文句を口にしたと誤解されたくなかったのである。

「初めまして、別当光智です」

 光智は軽く会釈を返した。

「えっ。貴方が別当さんなの……」

 玲子は、光智をじっと見つめた。大きく見開かれたその両眼は、尋常ならざる好奇の光を帯びている。

「何か?」

「い、いえ。ずいぶん前に、どなたからか貴方の名前を伺ったことがあったので……」

 玲子があわてて取り繕ったとき、カチャとノブを回す音がして、カウンターの向こう側にある正面のドアが開いた。

 その瞬間、光智は店内のルックスが上がり、同時に自身の体温も上昇したように感じた。

 眼前に見目麗しい少女が立っていた。

 真司の話では、同い年ということだから、成人の女性を捉まえて『少女』と表現するのはずいぶんと失礼な話なのだが、彼の脳裏には可憐な少女というイメージが焼き付いていた。

「いらっしゃいませ。別当さんですね」

 彼女は、つかつかと光智の目の前までやって来て訊ねた。

「えっ? は、はい」

 光智は面を食らったように答えた。なぜ? と疑問に思う間もなく、彼の心の内を読み取っているかのように、

「結城さんから話を伺っていたので、ドアを開けて正面に貴方を見たとき、すぐに別当さんだと確信しました。だって、想像していた通りの雰囲気でしたので……あっ、しまった。私、娘の恭子です」

 と、彼女は謎解きをしてからペロッと舌を出した。

 眩い笑みが零れていた。恋とは無縁と思っていた光智も、その魅力に惹き込まれそうになる。目鼻立ちが整った端正な顔立ちだが、笑うと八重歯が顔を覗かせ、小さな笑窪もできた。

 それが、一瞬にして大人の女性から、あどけなさの残る少女へと変身させた。透き通った高音の声のわりに、少し舌足らずで甘えた口調が少女の雰囲気を増長した。そうかといって、男に媚びるようなひ弱さ見受けられない。濃いめの眉が凛とした芯の強さを誇示しているからだ。

 彼女の屈託の無い素直な物言いは、大切に育てられた箱知り娘であることを知らしめ、純真無垢な佇まいは男性経験がないことを容易に想像させた。

 女性の美しさを表現する言葉は幾つもある。美人、可憐、魅力的……。だが、彼女はどの表現も微妙に違った。むしろ、全てを内包しているように思えた。そのアンバランスさが、一層彼女を魅力的にしていた。

 なるほど、彼女さえ居れば、このような辺鄙な場所でも繁盛しているのが頷けた。

――俺は想像通りか……こちらは想像以上だ。

 光智は苦笑いを押し殺した。

「別当さんね、ミックスジュースをご注文なの。恭ちゃんが作る?」

「うん。私が作る」

 彼女が言い終わるや否や、光智は再び背中に鋭い視線を感じた。

「ミックス・ジュースは恭ちゃんが作るなんて聞いてないなあ。そうなら、俺もミックス・ジュースを注文したのに……」

 真司が彼らを代表して口惜しそうに言った。だが言葉に反して、真司の視線の多くは、真奈美という娘の方に向いているように、光智には思えてならなかった。

「いつもじゃないのよ。普段は私が作っていて、恭子は滅多に作らないの。だけど、別当さんには恭子の作ったミックス・ジュースの方がお口に合うような気がしたの」

 玲子が声高に言った。光智には、それは真司だけでなく男性客全員に対しての言い訳のように聞こえた。

「あー。そう言われると、よけい傷つくなあ」

 真司は、大袈裟に溜息を吐いた。

 彼がふてくされた仕草で、挽き立てのコーヒーを啜っているうちに、特製のミックス・ジュースができ上がった。

 一口飲んだ光智は、確かにお薦めだと納得した。適度の大きさの果肉が残っていて、濃厚な味のわりには、口に残らないさっぱり感があった。

「ねえ、別当さん。ちょっと、立ち入ったことを伺って良いかしら」

 玲子が悪戯っぽい目で言った。

「何でしょう」

「別当さんのお誕生日って、いつかしら?」

「そんなことですか。昭和……」

 と言い始めたとき、恭子が口を挟んだ。

「待って。私が質問するから、それに答えて下さらない?」

「良いよ」

「年は私と一緒だから、昭和五十五年よね。じゃあ、月は前半? それとも後半?」

「ぎりぎり前半」

「じゃあ、六月ね?」

「そう」

「わあ、私と同じだわ」

 恭子は、童女のような目をして言った。

「それじゃあ。日は……そうね、星座は双子座、それとも蟹座?」

「蟹座」

「やったあ。また同じだわ。何だか、わくわくしてきた」

 はしゃぎ声になっていた。男性客は二人の会話に釘付けになり、玲子は黙ったまま柔和な眼差しを向けている。

「いったい、どういうこと?」

 真司が堪らず二人の中に割って入った。

「もしかしたら、私とお誕生日が同じかもしれないと思って……」

「そうすると、恭子ちゃんも昭和五十五年の六月で、蟹座なの?」

「そういうこと」

 恭子は目も合わさず、おざなりに言った。

「じゃあ、六月の蟹座は二十二日から三十日までだけど、前半? それとも後半?」

「前半」

「また同じだ。なんだか、絶対同じ日のような気がしてきた」

 恭子は、興奮を抑え切れないように言うと、

「それでは、最後の質問です。その日は、特別な日じゃない?」

 と、光智の口元を凝視した。だが、彼の頭には何も響かなかった。 

「特別な日?」

 転瞬、恭子の顔が曇った。

「そう。四年に三回、特別な日……」

 そう聞いて、ようやく光智はピンときた。彼はにやりと笑みを零す。

「たしかにそうだ。四年に三回、特別な日だね」

「やっぱり。私も二十二日、夏至の日なの」

  恭子は店内に響き渡るような声で言った。

「こんな偶然もあるんだな。生年月日が全く同じ人に出会ったのは初めてだ。もっとも、いちいち相手の生年月日なんか訊かないけど」

「私の方はこういう仕事なので、母がよく訊いているの。でも、二人目が見つかるなんて驚きだわ。ねえ、ママ」

 恭子は、両手を胸のあたりで合わせ、身体を小さく上下しながら、玲子を見た。

「もう一人はね、矢崎秀輝(やざきひでき)さんといって、帝大の医学部生なのよ」

 玲子は、意味ありげな口調で補足した後、しみじみとした顔つきをした。

「それにしても、因縁を感じるわねえ」

――生年月日が全く一緒とは、たしかに因縁と言えば奇しき因縁には違いない。

 光智も同感だった。


 サンジェルマンを出た二人は、光智のアパートへと向かった。

 いつの間にか、空の大半を灰色の雲が覆っていたせいで、早くも夕暮れが迫っていた。薄闇の中、何処からともなく届いた桜の花の甘ったるい匂いに、光智の胸は自然と躍った。時折、生暖かい空気を切り裂いて、冷ややかな風が吹き抜けていった。春とはいえ、未だ残る夜気が肌に心地良かった。

「お前、本当に恭子さんが好きなのか?」

 光智は、部屋に入るなり質した。

「な、何を言っているんだ。当たり前だろう。だから、お前に無理を言ったんじゃないか」

 真司は、虚を突かれたような素振りを見せた。その様子に、光智は違和感を覚えたが、

「そうか。それなら、彼女は諦めた方が良いな」

 と説得口調で言った。

「なんだ。やっぱり、お前も彼女のことを気に入ったんだな」

 真司が斜に構える。

「違う、誤解するな。彼女の相手は矢崎とかいう医学部生だよ」

「矢崎?  なぜ、そうだと分かる」

「二人の表情を見ていれば分かるよ。彼女の方は五分五分だが、ママの方は乗り気だな」

 光智は自信ありげに言った。

 恭子は母親の言いなりになる、と光智は感じていた。その母親が矢崎にご執心なら、遠からず彼女もその気になる。

 光智は、自分が座った椅子は矢崎の座る特等席なのだと推察した。つまり、他の男性客からみれば、憧れの恭子の心を奪った憎い奴の座る椅子ということになる。彼が感じた敵意のある視線は、矢崎の代役に対するものだったと確信していた。

「だから、心の傷が小さいうちにきっぱりと諦めるんだな」 

「いや、諦めない。それは、あくまでもお前の想像だろ。俺は、彼女の口からはっきりと聞くまでは引き下がるつもりはない」

 ほう、意外だなという顔をして光智が言う。

「お前にしては、珍しく本気だな」

「あんなに愛くるしい女の娘は初めてだ。この程度で諦めたら後悔する」

 真司は決意の表情で言ったが、光智の心には響かなかった。どこか無理をしているような気がしたのである。

 それでも、

「お前がそこまでの思いでいるなら、俺はこれ以上何も言わないが、彼女を振り向かせるには、まず母親の心を射止めないと無理だと思うな」

 とアドバイスをした。

「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ、だな」

 真司は、自らに言い聞かせるように言った。

 

 真司が帰った後、光智は少し間を置いてから、マンションに戻った。ジョルジョ・アルマーニの上下、マウロ・グリフォーニーのシャツに着替え、レイバンのサングラスを掛けた。およそ、昼間の貧乏学生と同じ人物だと言っても、誰も信じはしないだろうと思うほどの変身振りで、フェラーリに乗り込み、赤坂にある高級料亭『風月』へと走らせた。

正門から入ると、玄関前で止め、車のキーを支配人に渡した。

「いらっしゃいませ」

 和服姿の女将・北条有紀(ほうじょうゆき)が出迎えていた。

「皆、来てる?」

「はい。二十分ほど前に、皆様お揃いでございます」

 有紀は、潤んだ目で光智を見つめた。

「そうですか。ちょっと、野暮用で遅くなっちまって……」

 光智は、照れたように目を逸らすと、誰に向けてのものでもない言い訳を呟いた。

 女将の有紀は、銀座の最高級クラブのナンバー1ホステスだったが、五年前、三十歳になったのを機に、この風月を開業した。いかに最高級クラブのナンバー1ホステスとはいえ、赤坂に料亭が出せるとはとうてい思えず、誰もがパトロンを詮索した。

 光智も、当初は父の愛人ではないかと疑っていた。四年前、初めて父に連れて来られとき、二人の間にただならぬものを感じ取っていたからである。後日、身をもってそれが誤解であることが証明されたのだが……。

「別当様がお着きになりました」

 有紀が一声掛けて襖を開けた。座敷には四人の男の姿があった。彼らは光智の姿を見ると、一応に崩していた足を正座に直した。

「いや。そのまま、気楽に」

 光智はそう声を掛けながら、床の間を背にしている男の横に腰を下ろした。

 光智の正面に座る三人の男たち。

 右の男は堀尾貴仁(ほりおたかひと)、三十六歳。半年前、東証マザーズに上場を果たしたばかりのIT企業『株式会社ウィナーズ』の代表取締役社長で、ネットの寵児として、いま最も世間の耳目を集めている男である。

 肥満体系で口数も少なく、表情も暗い。だがさすがに、起業して僅か三年で上場を果たしただけのことはあって、コンピューターに関して、独特のマニアックで天才的な感性を持ち合わせている。

 中央の男は宇佐美彬(うさみあきら)、四十八歳。関東を中心として、全国に『宇佐晴らし』や『楽楽』といった居酒屋を三百二十七店舗チェーン展開する 『宇佐美ホールディングス株式会社』の代表取締役会長で、他に新宿、渋谷、六本木、赤坂の人気ホストクラブ・『USAMI』を傘下に置いている。夜間高校卒と学歴は無いが、皿洗いから始めた叩き上げである。

左の男は赤木佑一(あかぎゆういち)、二十七歳。父佑造が社長を務める、年商二千億円を誇るパチンコ機メーカー・『株式会社赤佑(せきゆう)』の専務取締役である。

 そして最後、光智の横に座っている男。小柄だが眼鏡の奥に宿る鋭い眼光。見るからに頭の切れるタイプの男の名は村井慶彰(むらいよしあき)、四十三歳。今朝、光智が牧野モーター株の買い増しを指示した男である。彼は、帝都大学在学中、難関の司法試験と公認会計士の試験に合格した秀才で、現在投資顧問会社『フューチャー』の代表である。

 村井は、七年前まで外資系投資銀行の資産運用部で株式や為替のディーリングに携わっており、その折彼が独断で差配できた額は一兆円にも上っていた。近年、我が国で起きた多くの企業買収の黒幕と目されていたが、はっきりとは影を踏ませていなかった。

 それもそのはずで、村井が堀尾、宇佐美、赤木の三人に指示をして、狙いを付けた株を集めさせ、最終的には三人の内の誰かに、あるいは全く別の第三者にそれを集約して、相手との交渉に当たらせた。むろん、村井や光智本人が集めた株も同様であり、二人はあくまでも黒子に徹していたのである。

さて、彼らはいずれもこの七年以内に急成長を遂げた会社の代表かその子息なのだが、これには裏のからくりがあった。彼らは、香港の大実業家・周英傑(シュウ・インチェ)の資金援助によって躍進を遂げた者たちなのである。

 周英傑とは、香港を中心にマカオ、アモイ、海南島、上海、北京といった中国国内を中心に、全世界に三十五の大型ホテルと五十七棟の賃貸ビルを所有し、他に金融、通信、運輸、流通といった様々な分野の事業を手掛ける、巨大コングロマリット企業群・『ドラゴングループ』の総帥である。

 実は、その英傑の一人息子が光智であった。彼は、中国名を周偉奇(ウェイ・チー)といったが、五年前、故有って島根の名家・別当家に養子に入ったのである。

 村井ら四人は、起業した草創期、あるいは展開期に英傑から経済的支援を受け、その後の急速な拡大路線の資金調達をも支えられていた。そして現在、光智の意向の下、企業買収を仕掛けている面々だったのである。

 つまり、光智と村井が相談のうえ、買収を手掛ける企業を決定すると、光智が資金を提供し、村井が実践の指揮を執る。堀尾、宇佐美、赤木の三人はその実働部隊という構図なのだ。

「女将、三十分経ったら料理をお願いします。それまでは、誰も近づけないで下さい」

 光智は、厳しい声で言った。

「承知致しました」

 有紀が立ち去るのを確認すると、光智は村井のグラスにビールを注ぎながら、

「さあ、乾杯しましょう」

 と言い、皆がグラスを手に取ると、

「今日はご苦労様でした。お蔭様で予想以上に上手くいきました」

 と手を突き上げた。

「さて、今後はどのようにいたしましょうか?」

 グラスを一気に飲み干した村井が訊ねた。

「今、細かい持分はどうなっていますか?」

「堀尾さんが百四十万株、宇佐美さんが百三十万株、赤木さんが百七十万株、そして私が百八十五万株です」

「私が百六十万株ですから、合計で七百八十五万株、約二十一.七パーセントですか。相手に気付かれた気配はありませんか」

「自社株が妙な動きをしていると気付いたとしても、皆証券会社を分散していますし、仮に誰かに買収されているのではと懸念を抱いても、我々の談合までは想像すらできないでしょう」

「それは上々です」

「とはいえ、五人とも大量保有報告書の提出が時間の問題となっています。別当さんと私は正体を隠すため、買い控えるとしても、三人はそうはいきません。浮動株が十五パーセント残っていますから、報告書の提出の前に一気に買い上がりましょうか?」

 いや、と光智は首を左右に振った。

「今回は別の方法で行きましょう。毎回同じ方法では、味がありません」

「別の方法とは」

「TOBを仕掛けましょう」

「TOB……?」

 これまで黙って光智と村井のやり取りを聞いていた三人が揃って声を上げた。

「具体的はどのように進めましょうか」

 代表して村井が訊ねた。

「大量保有報告書提出を前に、堀尾さんに水面下で株を集めて貰います。提出後は、時期を選んでTOBを宣言して下さい」

 光智は、堀尾を見て言った。堀尾は黙って頷く。

 その後五人は、懐石料理に舌鼓を打ちながら綿密な談合に及んだ。






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