07「束の間の平穏」
とりあえず破壊されたテレビのことは原因不明ということで結論づけられた。
「やっぱり昔のようなブラウン管が一番だな」
父は頓珍漢なこといっているが、キレたエロイーズさまに逆らうことは許されないのだ。
こ、こんな恐ろしい場所にいつまでもいられるか――! 俺は登校するぞ!
たぶん家にいてもくつろげない気がするんでね。
朝食を平らげた俺は、てきぱきと着替えて鞄を持つと、玄関に向かった。
「あら、あんたまだ時差ボケがあるんだから、今日くらいはお休みしたら?」
「あんまり学校休むと卒業できなくなっちゃうから……」
座って靴を履いていると、母が声をかけてきた。
「そうよねぇ。マゼルちゃんのことも考えたら、あんたも大学くらい出ておいたほうがいいわよね。生涯年収も変わって来るし。ま、母さんもパートで頑張って働くからっ。
あんたも、大学行ったらバイトして女房子供の食費くらい入れなさいよっ。これからはただ遊んでる学生じゃいられないんだからね」
だから、あいつらは俺の嫁と子供じゃないんだってば。
マゼルの食い扶持はともかくとしてだ。
エロイーズはこれからどうするつもりなんだろうかねぇ。
そんなことを考えていると、スリッパをぱたぱた鳴らしながらやってきたやつの姿が見えた。
見た感じは若奥さまだが異様にこやつは嫉妬深いぞ。
まさか、あんな程度でキレるなんて。
どんだけカルシウム不足なんだよといいたい。
「あ、トータさんっ。学校行くんならお見送りします」
「マゼルもマゼルもー」
「いいよ、別にそんな……」
「藤太っ。そんなこといったらエロイーズちゃんたちがかわいそうでしょうっ。まったく、この子は女心がちっともわかんないんだからぁ。ごめんなんさいね」
「いえ、平気ですよお義母さま。トータさんいつもこんなですから」
ふたりはまさしく理想の嫁姑といったふうに、口元に手を当て「おほほ」と笑い合ってる。
ふん、どうせそのうち互いに化けの皮が剥がれるんだろうなっ。
俺が玄関の三和土で靴を履き終え立ち上がると、マゼルが両手をばっと広げてまん丸な瞳でジッと見つめている。
これは抱っこしてよ! というサインだろうが、すでにここまで成長した成人女性並みの彼女を抱え上げることなどはできない。
だが、エロイーズの幻術によって百七十近い背のあるマゼルが一歳児にしか見えない母は、なんで抱っこしてやんないのよ? といった目で見てくる。
仕方ないので抱え上げようと頑張った。
「わーい」
くっ、普通に重てェ。こんなん無理ゲーだろが。
おまけに真正面から抱き合っているので、マゼルの成長したエロイーズ以上のたわわなパイオツが顔面にぎゅうぎゅう押しつけられる。苦しうれしい。
頭んなかはピンク色の邪悪な想念でいっぱいになってしまう。
――ハッ? 殺気!
「マゼルちゃーん? パパンはこれから学校でお勉強するからわががまいっちゃ、だーめですよう」
エロイーズは素早くマゼルの背後から両脇に腕を入れて俺から引っぺがした。エロイーズのほうが背が十センチは低いので、彼女の顔は隠れてしまう。
「むううっ。やだあっ。トータといっしょに行くのおおっ!」
「だから、ダメだっていっているでしょう」
「あらあら。マゼルちゃんは本当にパパが大好きなのねえ」
「なんだなんだ、こんなに朝から騒いで。あはは」
居間でくつろいでいた父もコーヒーカップを片手に廊下へと出てきた。
図らずも藤原家全員集合といった感じだ。
「いだっ、腕を振り回さないでくださいっ」
「やだっ、トータっ。トータとおでかけするううっ」
朝っぱらから玄関口で俺を取り合ってふたりの美女が争っている。
それを微笑みながら楽しそうに見つめている、マザー。
「いいなあ、藤太は。モテモテじゃないか」
ファザーよ。
その余裕ぶっこいた顔がむかつきますわ。
こんなところをご近所さんが訪ねでもされたら、町内より一家放逐間違いなし。
くっそ。まだ旅立ってもいないのに。
一日のエネルギーの半分くらいは消費してしまいそうな勢いだ。
「とにかく俺は行ってくるから。エロイーズ、家のことは任せたぞ」
「あ、はい。トータさん、いってらっしゃい。――こら!」
玄関の扉を開けて外に出ると、エロイーズを振りほどいたマゼルが蜂蜜色の髪を朝日に輝かせながら思いきり抱きついてきた。それから――。
「ん、んううっ?」
「むー」
瞬間、時間が固着した。マゼルは俺の顔面を両手で押さえつけると、実に濃厚なキスをかましてきてくれたのだ。さっき食べた玉子のケチャップ味がするぜ!
「な、ななななっ――」
「えへへー。行ってらっしゃいのキスだよっ。テレビでやってんだもんっ」
蒼白となったエロイーズを無視してマゼルがほっぺたをリンゴのように赤らめ顔を伏せた。
彼女は手を後ろで組んでもじもじしている。
その姿は非常に愛らしく、俺の脳みそを強烈に揺さぶった。
「ふふふ、ふざけるなあっ。それは妻である私の仕事だろうがあっ!」
「んんぐむっ?」
キレまくったエロイーズがつっかけも履かず裸足で飛び出すと、電光石火の勢いで負けじと俺の唇に吸いついてきた。
なんというか、朝っぱらから両親には見られたくない念の入ったディープなやつだった。
さすがサキュバスといったところか。
いや、感心していいとこなのか、コレ?
エロイーズはじゅるじゅると長い舌を俺の口内に突き入れこれでもかとばかりに蹂躙する。
俺は蜘蛛の巣に絡まった羽虫のようにぴくりとも動くことができない。
いや、なんか人外的な術使ってるでしょ!
「は、はは。いいなぁ、藤太は。モテモテじゃないかッ!」
父は下を向きながら悔しそうにごんごんと玄関の壁を片手で殴りつけている。
ベージュ色の壁面が、裂けた拳の血で赤々と染まってゆく。
どんだけ白人女性にルサンチマンがあるんだよ、あんたは。
「あんっ」
「もう、いいだろ。くそっ、いつまでくっついてんだよ」
俺はエロイーズから無理やり離れると、唾液で濡れた口元を平手でゴシゴシやった。
「トータさん、別に恥ずかしがらなくてもよいのですのに。両親公認の仲なんですよ」
エロイーズは切なそうに眉を歪め、人差し指を濡れた唇に添えている。卑猥すぎだろが。
「朝からこれは倫理的にまずい。世間体というものも考えてください」
この一家といるところを見られたくない。
俺はいってきますと叫ぶと、その場を逃げるようにして学校に向かった。
さて、久しぶりの学校というものもいいものだ。
気づけば一ヵ月ぶりである。
誰よりも真面目に人生を生きていたのにこの仕打ちはないんじゃないでしょうかと、神を呪ったこともあったが、基本的に無事帰国できたからいいとすることにした。プラス思考だ。
「トータ、くん?」
校門の前。ゆるふわな髪をつまんでうつむいていた人物に気づき、肩眉を上げた。
三ツ森ちろる。
俺とありえないトンデモ世界の日常を共有している、数少ない女性の友人だ。
「おうっ。久しぶり、ちろる――」
彼女は俺の姿を認めるなり、手にしていた鞄をどさっと取り落とすと、両手で顔を覆ってしくしくと泣きだしはじめた。
すわ、なにごとか――! と慌てて駆け寄ると、ちろるは感極まったように俺の胸に飛び込むと、涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔を上げた。
「なんで、なんで無事だったら連絡くらいくれないんだよっ。酷いよっ!」
「へ? あ、ああ。ごめんな。ちょっと携帯の電波がまるっきり通じない世界にいたもんだからよう」
「あたし、とーっても心配したんだよっ! たっくさんたっくさんメールしたのに、ちっともお返事くれないし既読もつかないからっ!」
え、ちろるメールくれてたんか。
俺は、このひと月のサバイバル生活でスマホを確認するという習慣が途切れていたのだ。
許せよ。
SNSアプリのロインを見ると、着信数の記録が五桁を超えていた。
って、これってここまで表示できるものなんすかねぇ――!
「ホントに心配したんだからねぇ。だから、あたし、こうやって毎日、朝はトータくんが登校しないかなって、ここで待ってたんだよぉ」
それだけ聞くと、凄く健気なような気もするけど、普通に家に連絡するとか思いつかなかったのかな、君は。
ちろるを片手で抱きながら慌てて、トークを開く。
すると、もうこれでもかというくらいにありえない量のメッセージが、それこそ一分おきにダラーっと繋がっているのが見えた。スクロールしきれないぞ、おい。
なんということだ。
そういえばちろるはもの凄くかわいいのに浮いた噂ひとつなかった。
常人には容易に察知できないタイプのメンヘラちゃんだったからなのか。
「でも、よかったよ。トータくん、おかしな病気にかかってたんでしょ? 誤診でよかったね」
「え、まあ。うん」
両親は俺の失踪期間を学校側にどう取り繕っていたのか若干気になったが、今はこの日常がいとおしい。
「えへ、えへへ。教室まで、手、繋いでいてもいいかな?」
ちろるは、見ようによってはちょっとアホっぽい顔でしまりなく笑っていたが、かわいいのですべて許されてしまう。
「でも、いいのか? そんなふうにベタベタしてたらクラスのやつに勘違いされちまうぜ」
彼女は貴重な俺のガールフレンド(仮)だ。人材の流出は防いでおきたい。
でも、こんだけ心配してくれたんなら(仮)はもうとってもいいかな。
「勘違いって、やだな。あたしたち、つき合ってるんでしょ。トータくん、彼女に一番に連絡くれないなんて、ちょっと冷たすぎだよぉ」
――などと三ツ森氏は供述しており。
「え」
「え?」
お互いに見つめ合う。ちろるは、やっぱりにこにこと笑ったままだ。
そうしていると、後方からクラスメイトであるイケメン神崎くんが歩いて来るのが見えた。
彼は俺たちの姿を認めると、慌ててくるりと踵を返した。
「ちょっと待ってて」
ピンと来たね。
俺は特に理由もなく反転した神崎に追いすがった。
こいつはこいつで焦りながら走る速度を増してゆくが、本気を出した俺に抗するべくもないだろ、バーカ。たちまち襟を引っ掴むと壁際におしつけた。
「かんざぁき、くーん。どうして、ボクの顔見て逃げるのかなぁー?」
「に、逃げてないって! オレはただ、三ツ森さんがちょっとやばいかなって!」
「なんの話だ」
「彼女はこの一か月ほど校門前には来るけど授業には出てなかったんだよ! なにを聞いても、藤原を待ってるの一点張りで。そんで、みんなが――おまえが三ツ森を捨てて、今、ややこしいことになってるからって聞いたからさ!」
OH!
世間じゃそんなことになってるのね。
噂って怖いわー。
神崎は、ごほごほと咳き込みながら、恨みがましい目で俺を睨んでいる。
悪かったよ、もう。
「でも、おまえちろると仲いいんじゃなかったのかよ。なんとか説き伏せられなかったのか?
授業に出ないなんて問題だろ」
「おまえがいうなよ。でも、彼女って中学のときくらいからの知り合いだけど、その、もの凄く思い込みが激しくて……。
オレが知る限り、男のことでここまで入れ込んだことなんて、まったくなかったんだよ。今回の件では誰のいうことも聞かなくてさ。
ってか、藤原。おまえはこの一か月間なにしてたんだよ。オレら三年で受験生だぞ。ったく」
「そんなこといわれても、俺も厄介ごとに巻き込まれたとしかいえんわ」
「ふうっ。けど、三ツ森さんもおまえも変わってるとこあるから、案外お似合いかもな」
「――は? 誰が変わってるって。失敬な。神崎、俺のどこが人さまより変わってるっていうんだよっ。ひとつでいいから、いってみろよな!」
「ひとつでいいのか?」
俺は黙った。
とりあえず日常に色々と変化は著しくあったが、平穏はうれしい。
休憩時間ごとにちろるという存在が「トータくんトータくん」と重たげに伸しかかって来るが、そこは耐えよう。
「え、マゼルちゃん、今トータくんのおうちにいるのっ?」
なし崩し的にクラス公認のカップルとされた俺とちろるはふたりきりで昼食をとっていた。
たまたまふたりとも弁当を用意していなかったので、珍しく食堂だ。
ちろるはサンドイッチセットを、俺はきつねうどんを啜りながら駄弁っている途中、なんの気なしにマゼルの話題をぽろっと漏らしてしまったのだ。不覚。
「ねえ、ねえっ。あたし、マゼルちゃんに会いに行っていいよねっ」
ちろるの脳内の彼氏彼女という設定が強気にさせるのか、勢い込んでいってきた。
うーん、どう考えてもまずいな。
朝の騒動から予想するに、あのエロイーズという妬心の塊とちろるを会わせるのは塩素系と酸性タイプのお風呂掃除薬品を混ぜてしまうくらいリスキーだろう。
身体によくないガスが発生しちゃうってわかんだね!
「んーん。あ、そだ。逆に俺がマゼルをちろるんちに連れてくよ! この前は俺んちで遊んだだろっ。順番順番っ」
「え、あたしのおうち……?」
とにもかくにも個性の強いサキュバスとメンヘラさんを融合させるのはまずいだろうと判断し、放課後のマゼルを愛でる会はちろるの家で行われることになった。
てか、思ったほど今日は心が休まらなかったんですけどねぇ。
そもそも問題自体が、俺とちろるがつき合ってるという思い込みや、エロイーズが女房面しているという部分に起因しているのである。
根本的に女性経験が皆無の俺に上手く捌けというほうが不可能な話なのだ。
まあ、そのうちふたりとも飽きて、なんとはなしに無害な存在に還るだろうと思わずには日々暮らしてゆくこともままならない。
放課後である。
ちろるはお部屋の準備をしたいということで、先に帰宅していった。
「さあ、ここで問題です」
俺は下駄箱で靴を履き替えながら、深く思い悩んだ。
無論、マゼルとエロイーズの問題である。
ちろるには先ほど、だいぶ会わないうちにマゼルはおっきくなったといっておいたから、実物を見せてもそれほど責められはしないと……思いたいが、問題はどうやってエロイーズに感づかれずマゼルを外に連れ出すかということだ。
女心に詳しくない俺でも、未来予知できる。
いわゆる恋の熱に浮かされている状態のエロイーズが、俺の行動を黙って見過ごすわけもないだろう。外出するとでもなればつきまとってくるのは必定だ。
ちろる=エロイーズラインは、俺の心の平安のために是非ともシャットアウトしておきたい。
なにか妙案は、妙案はと考え続けているうちに、あっさりと自宅にたどり着いてしまった。
「ただいまぁ」
コソ泥のようにそーっと呟いて扉を開けると、そこには正座しながら三つ指ついて出迎えるエロイーズの姿があった。
「おかえりなさいませ旦那さま」
それ、絶対キャラ違ってますよね!
ショックのあまり鞄を三和土にどさりと落としてしまう。
顔を上げたエロイーズは両手を広げると、がばっと抱きついてきた。
単純にフワフワしておにゃのこ気持ちいいです。
「あの、なにをなさっておいでですか?」
エロイーズは俺の首っ玉に顔を埋めたままふんふんと犬のように鼻を鳴らしている。
「え、そんなの決まってるじゃないですか。トータさんにほかの雌犬の匂いがついてないか、チェックしてるんですよ」
なにそれ、怖い。怖すぎるよ。サイコだよ、こいつ。
別に、こうやって熱烈に抱きしめられて出迎えられれば、もうこいつでいいかなとか思ってしまう気持ち生まれないでもないが、ちょっと躊躇してしまう問題点が多すぎるぞ。
「トータだっ。おかえりっ! おかえりっ!」
間もなく土佐犬のぬいぐるみで遊んでいたらしいマゼルが、二階からどたどた足音を鳴らしダイブしてきた。
「ちょっ。マゼル、やめなさいーって!」
エロイーズは焦った声を出しながらも、サンドイッチにされてどこかうれしそうだった。
彼女は、疑似的ながらもこうやって俺たちと触れ合うことによって幼いころ得られなかったしあわせな家庭というものを追体験しているのかもしれない。
ごめん、ごめんなぁ。
おいら、それでも、これからちろるさんっていう現役JKんちに遊びに行くんやで。
「じゃ、これ頼むね。ちょっとおでかけしてくるから」
俺が鞄を手渡すとエロイーズは夢から覚めたような顔つきになり、口をぱかっと開けた。
「じゃ、マゼルちゃんおでかけするよー」
「おでかけっ! うんっ、行く行くっ」
「ちょっと待ってください、トータさん。なんでそういう流れになるんですか? ここからはホッと一息ついて私とイチャイチャするタイムに入るのが普通でしょう!」
マゼルの手を引いて玄関を出ていこうとすると、我に返ったエロイーズに呼び止められた。
というか、おまえの普通は俺には理解できない。
「ちょっとコンビニでおやつ買ってくるだけだって」
「それじゃ、私もついていったっていいじゃないですかぁ。なんでのけ者にぃ」
「ままま、すぐ帰って来るってば。夫の帰宅を待つってのも主婦の仕事だぞ」
「……トータさん、今、なんかきゅんきゅんしました」
うし。チョロイやつだな。上手くいいくるめたぜ。
「あいすーあいすー」
俺は浮かれながら手を繋いで歩くマゼルの頭を撫でながら家をあとにした。
「あのねあのね。マゼル、コンビニのみちしってるよ! ママとなんどもきたの。こっち!」
彼女は自分の知識を披露するのがちょっと得意なのか、俺をぐいぐい引っ張って先を行く。
「あはは、そうかぁ。マゼルは偉いなぁ。でも、今日はこっちの道を行こうか」
巧みに道を変えて三ツ森医院を目指していくと、さすがのマゼルも気づいたのか、
「う? トータぁ。こっちのみちじゃないよう」
と不安げな顔をし出した。
「違う。今日はだな、コンビニに行くんじゃない。ちろる、覚えてるか? あいつの家に遊びに行くんだ?」
「ちろる、それってだれ?」
「あー、ほら、あのな。一日だけ家で面倒見てもらっただろ。ナース服を着た、お姉さんだ」
マゼルは土佐犬のぬいぐるみを抱えたままその場にしゃがみ込んでしまう。
幼少期の記憶なのでもう忘れてしまったのか、と思ったが、うーうーとしばらく唸っているに思い出したのか、にこっと笑顔で立ち上がった。
「マゼルその人しってるっ。いっしょにねんねしてもらった人だ!」
マゼルはちろるに抱かれた胸のあたたかさを思い出したのか、自分の胸に両手をクロスさせて当て、ほわーっと恍惚に浸った。
「ははは。そうだよ、そのちろるがな。おまえに会いたいって。だから遊びに行くんだ」
「でもぉ……」
にこにこしていたマゼルは不意に瞳を籠らせるとバツの悪そうな顔した。
「なんだ?」
「ママにはコンビニにいくってゆったよ。うそついたら、ダメなんだよね?」
くっ! 想像以上の破壊力だぜ、その無垢な瞳は……。
なんという純粋極まりない魂なのだ。いや、俺が汚れすぎているせいか。
このままじゃ、ちろると遊んでいるうちにマゼルは里心がついて余計なことをいい出しかねない。それはお互いにとってプラスにはならないだろう。
俺は灰色の脳細胞をフル回転させると、舌先三寸でマゼルを説得にかかった。
「これはな、マゼル。やさしい嘘なんだ」
「……やさしいうそ?」
「エロイーズママはだな、心に深い傷を負っているため初対面の人とすぐ仲よくなれないんだよ。わかるか?」
「マゼルはだれとでもなかよくなれるよっ。ばぁばがお友だちとはなかよくあそんでって、いつもいってるんだよ!」
マゼルは瞳をきらきらさせながら「偉い? 偉い?」というふうに頭を撫でろと催促してくる。
俺はちょっと乱暴な手つきで彼女の頭をがしがし撫でると気がすんだのか、わーいと両手を広げよろこんでいる。
通りががりの女子高生たちがこっちを見ながらくすくす笑いを漏らしていた。
ちょっと恥ずかしい。
「だからな、これはママのためでもあるんだ。まず、マゼルがちろるとうんと仲よくなってから、それからちろるをママに紹介してあげればいい。マゼルのお友だちですって形で……あくまで俺をその輪に入れず、こう、うまーい感じで。わかるか?
だから、今日はちろるにいーっぱい遊んでもらえばいい。あとは帰りにアイスをお土産に買ってあげれば、ママとマゼルはアイスが食べれて楽しい。俺はおまえたちが仲よくなれたのを見て楽しい。これぞウィンウィンの関係ってやつなんだ。わかるか?」
「うんっ。マゼル、ちろるママとなかよくするーっ」
ふっ。ご納得いただけたようだな。ガキなんぞはチョロイ上に甘いぜ。
「ちろるママのこと、おうちに帰ったらママにいっぱい話してあげるんだっ」
おいおい、なにも理解してないじゃないか。
そんなことされたら、俺はエロイーズにケツの穴から掃除機突っ込まれて中身全部吸い出されちゃうこと必定じゃん。
うえっ、想像してゲロが出そうになった。
「マゼル。いい子だから、今日のことは黙っていような」
「なんでー?」
マゼルはふにゅっと眉をひそめると不満そうに唇を尖らせている。
「それはだな、その……これはふたりだけの秘密だっ」
「ひみつ……? うんっ。マゼルひみつにするよ!」
秘密、という言葉が気に入ったのかマゼルは瞳に星をちりばめながら人差し指を口元に当てて、しーっといった。ぷるぷるした唇がセクシーだった。
実のところ、俺の家とちろるの実家である三ツ森医院はそれほど離れていない。
マゼルも大人形態に進化したので、前回と違い抱っこしなくていいので、早く着いた。
「あ、トータくんっ。もう来たんだっ。待ってて!」
どこから入ればいいのか思案していると、二階の窓で外を見ていたちろるが声をかけてきた。
「いらっしゃ――ええと、どちらさまかな? はじめまして」
ちろるは俺の隣で突っ立っているマゼルを見るとたじろいだ顔をした。
それもそうだ。
マゼルはパッと見は雑誌やテレビで見るようなモデル並みのスタイルをしている。
目鼻立ちはぱっちりとしており、手足はすらっと長い。
タイトなミニから覗く生足は一点のシミもなく、ちろるもかわいいにはかわいいが並べて見比べるのは、酷、というものだ。
さすが日本人というべきか、ちろるも最初は愛想笑いをしていたが、俺たちが手を繋いでいるのに気づくと、すっと目を細めた。
これは説明せねばなるまいと、思っていると先にマゼルのほうが行動を起こした。
「ちろる、ママ?」
「……もしかして、マゼルちゃん?」
一瞬で記憶が戻ったのか。
マゼルの金色の瞳がみるみるうちに涙で満たされてゆく。
感覚で理解したのかちろるは唇をわななかせて、さっと両手を開いた。
「やっぱり、その耳、マゼルちゃんだ」
耳かよ。
「ママっ!」
「マゼルちゃん――っ!」
なんだ。
俺が心配することないな。
ふたりは人目も憚らず、抱き合うとわんわんと泣きだした。
ちろるの瞳に、もはや警戒の色はなく、我が子に再会できた母親のような慈愛あふれるものが宿っていた。
「でも、こんなに大きくなってるなんて、ぜんぜんわからなかったよう」
「食事がよかったからかな?」
「そうだねっ」
納得するんかいっ。
この子、どこか頭に問題があるんじゃないかな?
俺たちはちろるの部屋に招き入れられると、ラグの上に座って出された紅茶を堪能していた。
てか、女の子の部屋に入ったことなんて生まれてはじめての経験なのだ。
正直それどころじゃない。
俺はカップの紅茶をくるくる回しながら、いかにも興味ないですというポーズを崩さず、部屋のなかを観察する。
ちろるの部屋は、いかにも女子ですという感じで、ふわふわした用途不明の雑貨や、ぬいぐるみや、アロマキャンドルのようなものが設置されていた。
ちなみにマゼルは大きなセントバーナードのぬいぐるみを見つけると、もうそれに夢中で人の話なんて聞いてやしなかった。
「でも、マゼルちゃん、本当にエルフ帝国のお姫さまだったんだね」
「う?」
マゼルは両手でぬいぐるみの頭をぽふぽふ殴るのをやめ、ジッとちろるを見つめた。
「おひめさま? わたし、おひめさまだったの?」
「え、えーと。ねえ、トータくん……」
「まあいいじゃんか、ちろる。マゼルはかたっ苦しいプリンセスは廃業なされて、これからは市井に生きるいちエルフとして生きることを望んだのさ」
「そっかー、そうなのかぁ。マゼルちゃんもいろいろ大変だねぇ」
「うんっ。わたし、いろいろたいへんですっ。トータのめんどうもみなきゃだしっ」
「あらあら。トータくん、娘さんがあんなこといってますよう」
「あはは。面倒見るのは俺の仕事だぞ、おい。そんなこというと、もう夜中におトイレついてってあげませんからね」
「うう、なんでそんなイジワルいうのー。ひどいよー」
しばし、なごやかな時間が過ぎてゆく。
夕食の時間だというので、マゼルとともにちろるの手料理を図々しくもご馳走になった。
いつぞやマゼルがお世話になった三ツ森先生も同席したが、俺は動じることなく対応した。
てか、むしろ先生のほうが居心地が悪そうであった。
特にマゼルのことは先生には説明しなかったので、マゼルのことはちろるの友だちであると誤解したようであったが、あえて解かないままでいた。
ま、娘が夜に男を連れて手料理を振る舞うなどとは男親として尋常ならざる気持ちになるのはあたりまえだ。
しかし、ここにもうひとり女友だちが同席しているという形さえあれば、人間それなりに安心するものである。
ちろるの手料理は煮込みハンバーグにポテトサラダとなかなかに奢ったもので、俺も満足だ。
「トータ、トータ。このはんばーぐ、おいしいねぇ」
「はは、そうだな。よかったな、マゼル」
家では、母が和食党なので夕食はあまり肉料理を食べられなかったのだろう。
マゼルはにこにこ顔でご飯をフォークで頬張っている。
見た目は大人でも、まだ箸の使い方には習熟していないのだ。
こういう部分に、もろ実年齢が出るな。
「ほら、お口にソースがついてるぞ」
「ふにゅん」
ナプキンでびちゃびちゃになったマゼルの口元を拭ってやると、その光景をちろるがやさしい目で見つめていた。
いいじゃん、いいじゃん。
なんだか、こういうの俺が求めていた青春だよ!
「飯食い終わったら、三人でモノポリーやろうぜ」
「うん、あたしはいいよっ」
「ものぽりーってなに? トータ?」
「世界でもっとも残酷なゲームだ」
人んち食卓で和気あいあいやっていると、玄関口から、どんがらがっしゃんと耳をふさぎたくなるような破滅の音が聞こえてきた。
「やだな、なんだろ?」
ちろるの不安げな声に思わず席を立つ。
背中に汗が吹き出しじっとりと濡れていく。
ひたり、ひたりと廊下の床を素足が張りつく湿った音がした。
台所の入り口にかけてあるのれんがゆっくりと動き、どこかで見た立派な角が見えた。
「トータさあぁん、なーにやっているんですかねぇ。こんなところでぇ……」
ひ、と悲鳴を発しそうになりながら無理やりそれを飲み下した。
そこには、怒りの炎で瞳を炯々と光らせるサキュバスさんの姿があった。
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