第43話 泡沫の唄が聴こえる
あれから、僕はゆっくりと真綿で首を絞められているような感覚のままだ。嫌な気持ちは増すばかりなのに、何も進展がない。
月日は流れ、ニールが居なくなってもう一ヶ月になる。そして当たり前のように時間だけが過ぎていき、必死で捜査をするが何も手掛かりは見つからない。ウィリアムは同業者に声を掛け捜査を広げた。貧民街から高級街。ウインセンターの知り合いにも聞いてみたが手掛かりなんて見つからなかった。ウィリアムは事務所に帰る時間はいつも深夜を越える。みんなが揃って一緒に食事をする事がめっきりと減った。だけど、ひとつだけ変わったことがある。アダムが此処を拠点として仕事に通うようになった。理由は色々あるけれど、ニールのことが気掛かりでミスをする事が増えたと本人は言う。「何この記事? それで人の所為にするのね? あきれた……」と、ティノがゴシップ誌の男女のゴタゴタ記事を読んで大きな溜息を吐いていたのは、ここだけの話にしようかな。
時々グランを連れてイライザさんとユアンさんが遊びに来ては大騒ぎながらも楽しい時間を過ごすことも出来た。皆、口には出さないが何処かに物足りなさを感じ、時折、笑ってはその空気を誤魔化したりもした。
そう言えば一度、帰り際にユアンは写真立ての写真を見てこう呟いた。
「このやさぐれた雰囲気の人がお兄さん? へええ~良い男じゃない! 早く帰ってきなさいよね! 本当にお馬鹿さんね!」
みんなの思い出話に触れ、まるで昔からの知り合いのように思ったのだろうか。写真のニールにウインクをして小さく指で弾く。ガラスが弾ける音がする。そこにティノが顔を覗かせ、ユアンの顔を見上げた。
「ユアンさんって変わった人ね! 会ったこともないのにまるで前からニールを知ってるみたい! なんだか変なの!」
「うーん……彼はいま全速力で坂を登ってる感じかしらね? 何かを変えようと必死なのかもね。あら、そうね! アタシもなんだか不思議なのよね? 会ったこともないのに、まるで前から知ってる気分になっちゃったわ! ふふふ、アタシ本当に変ね?」
ティノが不思議そうに言うと、目線を上にしたユアンが一瞬考え思い立ったように、にっこりと柔らかく微笑み、二人は顔を見合わせて笑った。最初の印象はどうであれ、ふたりは今とても仲良しだ。それこそ、年の離れた姉妹のようだった。
ねえ? ニールは今何処で何をしているのかな? そこは居心地が良いのかな? 食事はきちんと取っているの? また、だらしのない姿で、だらけていたりしない? 元気でいてくれれさえ居れば僕はそれでいい。また前のように気が向いたら帰ってくればいい。ニールの帰る場所は僕らが居る場所だって思っているよ。そう、いつもね。
郵便物を手にガブリエルが血相を変え事務所に慌てて入ってくる。そんなガブリエルを皆が一斉に見て、部屋の温度が急速に変わっていくのを僕は感じた。
「シモン様! ニール様の事は後回しです!」
「ガブリエルさん、すごい剣幕でどうされたのですか? それに後回しって、何がどうしたのです? とにかく落ち着いて!」
「港に……港に……遺体があがりました! しかも一体ではありません……」
青ざめたガブリエルは、震えを止めるのに必死で自分の両肩を抱く。
「遺体が港にって……ねえ? まさかとは思うけど、このゴシップ誌のトップ記事にもなってるのと関係ないわよね?」
そう言葉を発すると、ティノの表情が強ばっていくのが誰の目にも明確に映った。
色々なモノの矛先が変わっていく。この事を知っただけでも価値はあるのだろうか? これで何かが変わるのだろうか? 事務所の色が薄暗い。そう、みんなの肌に伝わっていく。痛くて冷たくて、緊張で吐き気がしたくらいだ。
『大スクープ! 生娘だけが狙われた? 連続失踪者!』
この見出しに、アダムがある事をぼんやりと思い出しながら、片手を頬にあてがい呟く。何かとシンクロする瞬間にシモンの背筋がゾクッとする。都合のいい言葉は見つからない。美しい響き合いも今は皆無だ。
「この事件……俺の周りでも噂になっていますよ! オーディションに来るはずだった数人の女の子たちが連絡もなく消息を絶っているって……誰一人まだ見つかっていない……そう聞いてる!」
その言葉に雑誌を手にして、ティノが小さく息を吐き声を出す。
「ねえ……生娘っていったいなんなの? アタシもそれに当てはまるものなの?」
「ティノ様、汚れを知らない乙女とでも言えばいいのでしょうか……お分かりいただけますか?」
「汚れ? 乙女?」
ティノが雑誌の文字を指でなぞり、不思議そうにシモンの目を見つめる。シモンは少し黙って机に肘を付き、難しい顔をする。隣のガブリエルが丁寧にティノに伝えるが、益々表情を歪め首を傾げた。
「汚れなき乙女、処女って言えばティノには伝わるかな?」
「あらら……シモンちゃん大胆! ストレートに言ったねえ〜」
シモンの言葉に目を丸くしたニアがケラケラと、薄っぺらな表情を浮かべ笑う。
「ちょっと! こんな時に茶化さないで!」
「へへへ! ごめんごめん!」
「こんなのって……アタシ怖いよ……」
ティノはこの場の邪魔をするニアを追い払うように、ニアの手を軽く叩く。大袈裟に手を擦りニアが舌を出し戯けてみせたが、ティノは身震いをして両腕で自分を抱き締めた。
「遺体には共通点が幾つかあるようですね……」
ガブリエルが首を竦め、床に目線を落とし悲しさを纏い言葉をこぼす。
「共通点?」
「ええ……」
「どういったものですか?」
「内蔵が全て抜き取られています……」
「空っぽってこと? 身体には他になんか残ってなかったの?
抵抗の後が残っていないの? それって知り合いの犯行なの?」
ガブリエルの言葉は部屋の空気を霞めた。ティノは自らの手で肩を強く抱きガタガタと震える。ニアからは笑顔が消える。シモンは眉間に皺を一気に寄せ、ニールの置いていった車のキーを強く強く握り締めた。
そこに幾つもの疑問をニアはぶつけてくる。
「いえ……傷みのない身体、顔は安らかなまま、貴重品はすべて鞄と一緒に丁寧に並べられていたそうです。しかも大きさを揃えて……犯人に余裕がある証拠です」
「それはまあご丁寧にどうも……これって人間の技じゃないでしょ? いやーな臭いがぷんぷんするよ!」
その言葉に返事をするように、事務所の扉が静かにノックされる。重い扉をガブリエルが開ける。いつもきちんとした身なりのウィリアムが優しく微笑む。そして、次の瞬間には表情を変えた。
「ニアは見所がよろしいですね。ご名答! 残念ながら人間の仕業ではないですよ……」
ウィリアムはテーブルに三十センチ程の古びた飴色のアコーディオンを置いた。モノに対してこのような言葉が合っているかは解らないが、美しいなんて安っぽい言葉では足りない程に艶めかしく光り輝く。それでいて高貴な佇まいを魅せる。触れてしまえば気が狂れるのでは……と、思わせる。そういう言葉が皆の頭をかすめていく。
「ウィリアムさん! これは? またアンティーク調だね! 綺麗だねえ~! 音は鳴るの?」
ニアが指先で鍵盤に触れようとすると、ウィリアムの厳しい声が飛んできた。
「ニア! 気安く触らないで下さいね。その中に隠れているモノが居ますから……今回の事件にこれが関わっているのは間違いありません」
険しい表情をニアに向け、左手をアコーディオンにそっと優しく添える。
この楽器には持ち主に想いを込めて、造り手の気持ちがたっぷりと入っているそうだ。なかなか逢えない孫の祝いにと、丹精に造られたアコーディオン。装飾もきめ細やかで貝殻を薄く加工した、蕩けそうな滑らかなクリーム色。誰の心をも癒すソプラノアコーディオン。その音も申し分なく人を魅了すると云う。数百年経っているとは思えないほどに美しい音色を奏でるそうだ。そんな貴重なモノをアンティークショップの店主が渋々手放したのには理由がある。このアコーディオンは今は、ある一定の音が出ないそうだ。それでも軽く数千万円はすると、アンティークコレクターは口々に言う。それなのに持主人の手から次々に人の手に渡り、最後には小さなアンティークショップに辿り着いたアコーディオン。店頭には飾らずに、大事に皮の箱に保管されていたのだ。それが今は此処に、この事務所に辿り着いたのだ。要するに『いわくつき』なのだろう。妖艶な美しさは伊達じゃないということだ。
「このアコーディオンの元の持ち主は、生まれて数年でこの世を去っています」
「数年って……小さな子って意味だよね?」
「本当に……この世を去っています」
「って事は……死んじゃってるのよね?」
「……いえ、姿を消したのです」
「え? 意味が分からないよ、ウィリアムさん……」
ウィリアムの言葉を聞き、ティノとアダムとニアが首を傾げる。
「まだ小さかった男の子が忽然と姿を消したのです。ひとりで何処かへ行くような歳の子ではなかったそうです」
「えーっと……人攫い?」
「いいえ……本当に姿を消したのです」
「それって目を離した時にって意味ではなさそうですね……」
シモンの小さな消え入りそうな声が、部屋に冷たく響き渡る。
「ゆれる揺りかごの中で笑っていた男の子がケムに撒かれるように皆の前から消えたのです……」
「そういうのって有りですか?」
「普通なら無しだよね?」
「やっぱり! そうですよね?」
「そんなの……普通じゃなくても無しよ!」
「アダムさん……言葉に気をつけて下さい!
大人の言動でお願いします」
「あ〜……すいません……」
ぴしゃりとウィリアムの小言が飛んできて、軽薄そうな笑みを浮かべ、アダムが頭を掻く。ここら辺がアダムの悪い癖だ。そんなふたりを見ながら、しばらく考え込んでいたシモンが珍しく大きな声を上げ、徐ろに立ち上がりウィリアムに問いかけた。
「ウィリアムさん! ちょっと待ってください! もしその子が今生きていたら幾つなんですか! 本当に居たとしたら年の頃だと数百歳ですよね?」
黙って頷くウィリアムを横目で見ていたアダムが、また空気の読めない言葉を言い放った。
「え! そんなのバケモノじゃないですか!」
「アダムさん!! いい加減にしてください! もう席外してもらいます!」
軽く口を滑らせたアダムに、とうとうシモンの怒りが頂点に達してしまう。激しい睨みと共にテーブルを思い切り叩く。大きな音に痺れような痛みが耳に残る。青ざめたアダムは口を閉じ息も出来ないという表情と見せた。シモンがいつも怒るのは、世間でいう『小言』だ。だが、今回のは『怒り』という文字が横切り、ティノとニアも壁に寄り添うように黙って立ち尽くしていた。
「シモンちゃん……もうそこらでいいんじゃない? お茶冷めちゃったよね~……」
恐る恐る声を出したのはティノだった。自分の両手を合わせ不器用に指を絡ませた。
「ごめん……少し頭を冷やしてくるよ……こんなのじゃ駄目だよ」
その言葉を残し、自室にシモンが入っていった。アダムは焦りからか、額に汗が溢れて雫のようにぽたりと床に落ちる。今にも蒸発しそうに荒い呼吸を肩でする。そこに、グラスに水を注ぎウィリアムがテーブルに静かに置いた。
「貴方はもう少し場を弁えなさい……この状況は騒ぐ事ではないのですよ。ましてや、ニールくんが居ないのですよ? シモンくんがどのような想いで今居るのか、わかっていた筈ですね。アダムさん、今貴方が何を考え、何をすればいいのか考えてみてください。自ずと答えは出ます」
ウィリアムはそう言い終えると、柔らかい笑顔をアダムに向けた。
「俺……謝ってきます! 軽率でした」
アダムはシモンの部屋の前で立ち、大きく一度深呼吸をする。何かを決めたように扉をノックした。そのノック音にシモンの反応を待つ。待つ。待つ。眠ってしまったのだろうか? 返事がなく、しばらく扉の前でアダムは立ち尽くしていたが、一向シモンからの返答はなかった。寂しげな表情をしてアダムが応接室に戻ると、ティノが心配した表情をアダムに向けた。そんなティノにアダムは首をゆっくりと横に振る。
「どうして? シモンちゃん? どうしよう! ニア! シモンちゃんが返答しないなんて変じゃない! こんなのおかしいよ!」
「ティノ、落ち着いて! ボクが様子を見てくるよ! お茶を入れ直したからね!」
ウィンクをするニアがティーポットとカップとソーサーを持ち、シモンの部屋に向かった。
「シモンちゃ~ん! ねえ~寝ちゃった? 開けるよ~! ハーブティーを持ってきたんだよ! 開けるからね〜!」
ニアが少し重い扉を豪快に開ける。開けたことで空気が混じり合い渦を巻く。部屋には羽毛が渦を巻き柔らかく舞い、風で生き物が居るのかと、錯覚してしまうほどに動くカーテンが見えた。
「シモンちゃ……ん?」
綺麗に整頓された大きな本棚。飾りっけのない部屋にメイキングの整ったベッド。丸テーブルに白いパイン材のスツール。いつもと何も変わらない部屋だった。シモンが居ないことを除いては。
降り出した雨が開いた窓から吹き込み、ニアは慌てて窓を閉めようと四階の窓からの景色を見降ろした。数台の行き交う車。ゆっくり走り出す路面電車。空気中に靄がかった排気ガスと、転々と灯るビルの明かりが怪しく揺れていた。
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