第42話 邯鄲の夢
緩やかな北風が吹く寒空の下、大きな瞳に徐々に涙が溜まっていく。その涙がこぼれ落ちそうになる寸前に下唇を噛み、ゆっくりと鼻に皺がよる。すると、一気に涙が瞳から流れ落ちていった。同時に大声を上げ、泣き出してしまう。甲高く叫ぶような声が静まり返った住宅地に響く。時折、機械音がリズミカルに鳴る川沿いの工場地帯を、その泣き声があっという間に包み込み、騒がしく耳障りな場所へと変えてしまった。その声に反応するように数人の視線が集まってくるのが分かる。刺さるような視線の痛みと恥ずかしさと焦りから、思わずポケットに手を突っ込み何かないかと、まさぐった。指先に触れた物を急いで掴み出し、すぐに俺は声をかけた。
「オレンジとグレープどっちがいい?」
鼻先を真っ赤にしたシモンは身体を上下に小刻みに揺らし、泣く声を止め、涙と鼻水で濡れた顔を俺に向けた。小さく蚊の羽音ほどの吐息を一度漏らし、シモンが囁くように声を出す。
「すっぱいオレンジより……甘いグレープ……グレープがいい……」
俺は酸っぱいオレンジも甘いグレープも、甲乙つけがたい。どちらも好きだ。マーケットのレジ横に銀色の回転フライヤー。これでもか! と、大量に差し込み売っているロリポップキャンディー。ミルクチョコレート、チェリー、ストロベリー、ミルク、ピーチ、オレンジにグレープ。様々な色と味の中から選んでは、いつも買っていた。手頃な値段で甘くて美味しくて、なにより長持ちする。俺はとても好きだった。有名なナッツとパフが入ったチョコレートバーを一本と。二本で、たっぷりと楽しめるロリポップキャンディー。同じ値段で俺はいつも悩んで、結局選ぶのはこれだった。包を開けると甘い香りと光り輝く宝石のようなその見た目に、子供の頃の俺たちは笑顔になれた。安上がりなもんだと思うなかれ、きっと今でも甘くて美味しいだろう。単純で手軽で、泣き出したシモンをあやすのに最適だと子供ながらに思ったのだろう。本当によく考えたもんだ。
「シモン……もう大丈夫か?」
その言葉にシモンは、まだ赤い鼻先を鳴らし、とろけてしまいそうな笑顔をこちらに見せた。それで俺も笑顔になれた。
ーーーーー
「アタシはユアン・コーリングっていうのよ! アダムの専属ヘア・メイクをやっているわ! ん~……もう、何年やってるのかしらね? あ〜だから、ぜーんぜん怪しい者じゃないのよ?」
腰に両手を付け、何故か偉そうに仁王立ちする彼女(?)はテーブルに目を落とした。その並べられた言葉に怪訝な表情を向け、ティノは腕を組み肩を上下に揺らし大きな溜息を吐いた。
「アタシもみなさんの食事に、御一緒してもいいかしら?」
その言葉と共にクロワッサンをカラフルな爪先の指でひとつ掴み頬張ると、今にも、とろけそうな笑顔で頬を押さえる。
「あら~なんて美味しいのかしら〜! どこのお店のなの! 差し入れに良いわ!」
と、ひとつをあっという間に平らげてしまった。
「……お行儀がなってないな〜! あと何処のお店を探したって見つかるもんじゃないよ~」
「あら! もしかして手作り? 残念ね〜」
みんなが唖然とする中で、腕まくりをしてキッチンから出て、呆れた声を出したのはニアだった。その声にユアンは笑顔で答えた。
「すぐにオネエサンのも用意するから……手を洗ったら行儀良く好きな場所に座って!」
言葉と共にいつものニアの笑顔が弾けた。
「いやーねえ! 手伝わうわよ! というよりさせてちょうだい!」と、ユアンはニアの側に駆けていく。
あの頃のボクらは、ニールを闇雲に探す事に臆病になっていた。ただ息をすることに必死だった。みんなで海の天辺に大小さまざまな泡が上がっていくのを黙っていた気がするよ。苦しくって悲しくって底で、もがいていたからね。ユアンオネエさんが来たことにより肩の力を程よく抜いてくれたとボクらは思ったんだ。
「で? 貴方達のお兄さんが居なくなったのね?」
ユアンは指先に付いたバターを舐めとると、葡萄の蔦が絡まり数羽の鳥が愛を囁き唄う。そんな上品なデザインの繊細な薄く造られた綺麗なカップとソーサーをテーブルから丁寧に手に取る。湯気を小さく吹き、ゆっくりと紅茶を口に含んだ。オレンジの甘く爽やかな香りが辺りに漂った。その言葉に頷き、シモンが寂しそうに視線を落とす。
「アタシね? みんなの事はアダムとグランちゃんから色々と聞いていたのね? 優しくて暖かくて陽だまりのようだって……聞いていた通りね! でも、今はそれがひとつ欠けちゃったのね?」
「ユアンさん……」
「今夜アダムが此処に来るわ! 少しは元気出るかしらね? あの子はあの子なりに動いてくれるわ~そういう子なのよ!」
ユアンは優しく微笑んで小さな音を立てソーサーとカップをテーブルに置いた。
ーーーーー
「アタシね……愛って分からない……」
「世の中は分からないことだらけだよ! 愛だけじゃないよ! 世界が歪みだす前から分からない事は溢れ返っていたよ!」
時計の音が嫌になる程の夕暮れ時。ティノはだらしなくソファーに横たわり、誰に言うでもなく、天井を仰ぎ見て呟く。その問い掛けに、ガブリエルとニアが食事の買い出しから帰って袋から物を取り出しながら、笑うこともなく真面目に答えた。その言葉に耳を傾けながらティノはニアを見る。でも、その答えには、さほど興味がある訳でもなかったようで、すぐにまた天井を見上げた。
「ねえ……シモンちゃん……どうしてふたりは本気の喧嘩や言いたいことを我慢してるの?」
「……え?」
ティノの今度の言葉はシモンに向けて、吐き出される。シモンは本を捲り、わざとらしく聞こえていないフリをした。
「もう、聞こえてるクセに!」
「間違ってたんだよ……今までが全部ね……分かっていることも、分からないことも全てね」
目線をわざと逸らして、シモンはゆっくりゆっくりと語る。まるで自分にも言い聞かせるように。天井を見上げていたティノはソファーに座り直し、シモンの顔をしっかりと見て話を聞き出す。
「シモンちゃんとニールは家族なのに?」
「家族……だからだよ」
「そういうもの?」
「さあ……どうだろうね? ただ僕はそう思うんだよ」
「曖昧なのね……」
「そう……かもしれないね」
「ふーん……」
「なに? 不満そうだね? まだ何か聞きたい?」
「なんでもなーい! もうすぐアダムさんが来るんでしょ! 美味しい夕食を作るんだってニアが張り切ってるから、アタシも手伝ってくるわ!」
ティノは慌てて立ち上がりキッチンに逃げ込む様に足音をたてて行ってしまった。残されたシモンは唖然として暫く言葉にならなかったが気が抜けるようにため息混じりに呼吸をして吹き出して笑う。窓から見える路面電車。親子連れが楽しげに笑い合う姿。家路を急ぐスーツ姿の人も見える。タクシーに乗り込む老夫婦も。皆幸せそうだ。外は夕暮れ時なのに、まだ遠くの空が青が強く、オレンジが遠慮しがちに交わろうとしていた。
精一杯の答えも生き方も。答えは、これといったモノは無いんだよね。道標がないなら作ればいいんだよね。慌てて走り出さなくていいんだよね。そう思わせたくれたのもニールだったのに。どうして今此処に居ないの? もうそろそろみんな限界よ? ニール……いったい何処に居るの?
ーーーーー
漸く頭がスッキリとして、ニールはモーテルから重い腰を上げダイナーに遅すぎる朝食を取りに行く。古ぼけた年季の入ったレジスターが見え暇そうに雑誌を捲り溜息をつき頬に手をあてる。窓の外は平和に見える。何も無かったように時間は流れていく。珈琲を運んで来たウェイターがニールの前に珈琲を静かに置くと何も言わずに手前の席に腰を下ろした。
「アンタが新しい器なのかい? まだまだガキじゃないか! 兄貴の目も落ちたもんだね……もっと渋い男を選ぶべきだね……」
ウェイターの立ち振る舞いと言動に、ニールは言葉にならないでいた。
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