第39話 venture
利用する気持ちと、利用される気持ち。
そういうの理解できるか? 結構ヘビーだぞ? こんなモノはどっちもどっち。どっちにしても心の罪だ。ただし、利用される側はそれを知っていて、というのを付け加えておくよ。俺は大事な人をずっと騙し続けるのに疲れたのかな? 泣き言だって? そんなことは分かってるさ。そんなことが分からない程、俺もそこまで馬鹿じゃない。離れて分かることもたくさんある。きっと、ちょっとやそっとじゃ消えない傷みや苦しみを抱えるってこともな。でもな、それよりも大事なこともあるんだ。俺が傍に居たらきっとそれは叶わない。だから分かってくれるよな。って、これもきっと困らせるんだと分かっている。あと、怒るんだろうな、たぶん。
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だからあれだけ言ったでしょ? 不器用だって! どうして誰にでも優しくするのよ? どうしてすぐに何にでも首突っ込みたがるの! 誰にでも弱い所はあるんだからね! そこを掬い取って自分だけが我慢すればいいって思ってるんでしょ? そんなだから心配なのに。だからあれだけ言ったのに。
好き勝手なセリフを言い残して勝手に自己完結しないでよ! こっちはまだ言いたい事は沢山あるんだからね? 不器用なんて言葉じゃすまないんだからね!
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「おはよう~……ってみんなどうしたの? 暗い顔しちゃってさ? シモンちゃん! ニールは?」
珍しく寝坊をしたパジャマ姿のニアが、眠そうに目を擦り起きてくる。だらしなくついた、まるで花が開花したような可愛い寝癖も、のんびりとした口調も寝起きだと分かる。そのニアの声で応接室は、一瞬にして静まり返った。ティノがキーラックに掛かる車のキーを確認する。あの古い黒い皮のキーホルダーが変わらずにぶら下がっていた。車のキーはスペアはない。この一本だけだった。
「シモンちゃん! 車のキー! ほら! 車のキーがあるってことは、ほら! 近くにいるってことよね! えーっと……そうよ! 市場! 市場に散歩に行ったのよ! そうよ!
きっとそう! 携帯電話も置いてあるんだもの! ね?」
それを話題にするが、すぐに出鼻をくじかれティノは躊躇する。そのティノの言葉にニアが馬鹿にしたように騒ぎ出す。これも空気を変えようとしたニアの気遣いだと僕は思った。
「ニールが市場? 何処に行くにも車を出したがるニールに限ってそれはないでしょ?
朝市に行ったとして何買ってくるんだよ? クマちゃんビスケットは間に合ってるよ?
それに日頃から「携帯電話」は「非携帯電話」だったでしょ? 何が携帯電話だよ……意味わかんない! 」
「じゃ……ニールは何処に行っちゃったのよ?」
「それは僕に言われても……分からないよ……っていつから居ないの?」
「ずっと居ないからこういう会話をしてるんじゃない!」
「だからさ……いつから居ないの? ニールは気まぐれだからさ、ただの散歩じゃないの?」
「そんなのアタシがさっき言ったセリフじゃない! ……もう、これじゃ堂々巡りでしょ……」
「ニアもティノも落ち着いて! ……ふらっとそのうち戻ってくるから……昔はこんな事が普通だったんだよ! 何も言わずにいつも何処かに行って気がつけば戻ってくるんだよ! だからね……大丈夫!」
シモンはふたりを落ち着かせようと、振舞えば振舞うほどに不安な表情になっていく。ガブリエルがすぐにシモン隣に寄り添うように立ちショールを肩にかける。
「シモン様……お身体に障ります」
「大丈夫だよ……それに僕は病人じゃないんだよ? ガブリエルさん! それよりも今は……」
「今、いちばん落ち着かなきゃいけないのは貴方ですよ……シモンくん」
ガブリエルの声は透き通り優しくシモンの耳に届く。それが逆に不安を煽る。シモンは眉間に皺を寄せ片手をテーブルにつき、もう片手で頬を撫で溜息を吐く。ウィリアムが小さく溜息をつき、書斎の引き出しから持ってきた封筒を開封しテーブルの上に広げた。赤茶けった古いインクに、所々が破れた古ぼけた黄色く濁った紙。その紙を指でなぞりウィリアムは皆の顔を見た。
「ウィリアムさん……これは何?」
ティノがウィリアムに問いかけると、ゆっくりと頷きウィリアムは口を開く。
「みなさんは「マンスリー・レッド・データーブック」というのをご存知ですか? 」
「マンスリー? 月間の事だよね? それからその汚い紙って繋がりがあるってこと?」
「……このような時に依頼ですか? それとも何かのお説教ですか?」
ウィリアムの淡々と連なる言葉に、ニアが小首を傾げ紙に触れる。その言葉を遮るようにシモンは鋭く尖った言葉を使う。机にやる気なく突っ伏していたティノが棘のあるシモンの言い方に慌てたように顔を上げシモンを見上げる。怪訝な顔でニアはその様子を黙って見ていた。
「シモン様……それは些か言い過ぎかと……」
「何が? ガブリエルさんみたいにこんな時にも冷静で落ち着いていられるほど僕は大人じゃないんだ!」
「シモン様……」
「……ガブリエル、いいのですよ。お勉強する事も彼には必要です」
「ええ、分かっております……ですが……ウィリアム様……」
珍しく反抗的なシモンはガブリエルに噛みつき、ガブリエルは困った顔をし、悲しげな目を向ける。そんなガブリエルに優しく微笑むとウィリアムは両手で紙のシワを丁寧に伸ばす。
「……ゴースト。悪魔。魔物。天使。そして、ローズ・ゴールド種……様々な種族が居るのは分かりますね?」
「うん……ボクは分かるよ!」
「アタシはまだ分からない……ちゃんと見たことないもの……都市伝説みたいな感じだと思ってたから」
ウィリアムの問いかけにニアが頷き、ティノは指先で紙をそっと撫で、ある文字の上で止める。グリーンの瞳は興味を持った輝きと不安を抱えている。ティノはウィリアムの目をそっと見つめた。
「それで? ウィリアムさん、このハーフってのはなんなの?」
「人間との間具合いによって産まれた子……分かりますか?」
「人間との間具合い……人間と天使の子「ネフィリム」も……それに入るの?」
「ええ……そうなりますね、その中でも一番厄介とでも申しましょうか、ハーフ・デイモンという種族が居ます……」
「悪魔との間に出来た子供……ネフィリムが居るなら居てもおかしい話じゃないよね?」
「怖いけど……世間から見たらアタシだって普通じゃないのよね……そういうのなんだかヤダな……見た目は普通なのに」
「ティノ大丈夫だよ……僕も不安だからね……気持ちは一緒だよ」
「うん、ありがとう……シモンちゃん」
「ねえ? シモンちゃん……ちょっぴり気になるよね? 気にならない理由ないよね? 図書館に調べに行ってみない? ガブりん……お供いい?」
「ええ……もちろんお供いたします」
「ティノは来る?」
「……ううん、今日はお留守番してる」
「私も仕事がありますから残りますよ……大丈夫ですよ……気が済むまで調べなさい。話はそれからでも遅くはありません」
「ウィリアムさんも行かないんだ……そう……ティノはそういう気分じゃないの? まあいいや! サラダとブリオッシュがキッチンにあるからお腹空いたら食べてね?」
「ありがとう! みんな気をつけて行ってね……お土産はアップル・カスタードパイがいい!」
「ちゃっかりしてるね〜! 分かった! ボクが作ってあげる! 林檎も材料もたっくさん買ってくるね!」
「うん!」
ウィリアムとティノを残し3人は国立図書館へと出向いて行き、ウィリアムとティノは事務所に残ることになった。
今日の空は濁りを知らない。雲一つない青空だ。昨日の天気予報は夕方から雨だと告げていた。それはきっと「今のティノの心を表していたのかもしれないな」そうニールなら笑って言っただろう。と、ティノは考え微笑み、紅茶をひとくち飲んだ。
ティノはウィリアムから数冊の図鑑を借りてテーブルに広げるが内容は頭に入ることなく、ただ美しい蝶の羽根が瞳に映るばかりだった。冷えきった紅茶に食べかけのブリオッシュ。トマトとベイビーリーフが、ガラスの器に芸術品の一部のように飾られる。うまく喉を通らないし、味もうまく感じない。心は上の空。時折、遠くのビルのピアノが聞こえる。それだけが今は気持ちを何処かに追いやらずにしずめてくれた。音楽は不思議な力を持っている。寂しい気持ちに拍車をかけたり。楽しい気持ちをより盛り上げたり。何かを思い出させるスパイスになったりと、心を動かすのだ。窓から見えるビルをティノは見上げ溜息を吐く。
静かな空間を邪魔する電話の音がして、ティノは現実に引き戻されるかのようなそんな気持ちになった。ティノはハッとして慌てて電話に出る。
「はい! ウィリアム探偵事務所です! ご要件は?」
「……ティノか?」
「ニール? いま何処に居るのよ? 誰にも何も伝えないで! 本当に勝手なことしないでよ! ちょっと、聞いてるの?」
「ははは……悪かったな……なんにも言わないで事務所を出ちまった事は謝るよ……ごめんな」
「何笑ってるのよ! シモンちゃんもニアもみんなも……アタシだって心配してるんだから!」
「そっか……心配してくれるんだな……でも……もう俺……みんなの場所に帰れねえよ……」
「……ニール! 何言ってるの? 冗談よね? ちょっとした冗談よね? ねえ! ニール!」
「ティノ……みんなと元気で居るんだぞ?
あと泣き虫は直さないとな? 」
「何言ってるのよ! 切らないで! ニール! ニール!……ニール!」
受話器を片手に、ティノがその場で凍りついたように動かなくなる。何も言わずにその様子を見ていたウィリアムが、その受話器をそっと受け取り元の場所に静かに戻す。ティノは淡々とウィリアムをまるで他人事にように黙って見ていた。無音の空間に取り残され耳が痛くなる。ティノはその場に崩れ落ち声をなくした。
「ただいま~! ティノ! 図書館にすごく綺麗な図鑑があったよ〜! ウィリアムさ~ん! ティノ~?」
ニアは扉を開けるなり頭上に持っていた本をゆっくりと胸の辺りで強く抱き締め、その光景に動けなくなった。
「ニア? どうしたの……」
後から入ってきたシモンは、部屋の冷たさと目に眩しい美しさを感じ、孤独の色を身体全身に受け止める。痛みと悲しみ、そして孤独。
四人掛けのソファーにティノが泣き疲れた目をし、身体を丸くした子猫のような姿で眠っていた。窓際で空を見上げたウィリアムは徐に煙草の箱を潰した。窓から射す光はまるでティノを包み込むように護るようにその場を照らした。
「ウィリアムさん……いったいティノに何があったの?」
囁くようなニアの声。重みで今にも壊れて千切れそうな、林檎の沢山入ったあみ籠を抱え込んだシモンは林檎を数個落としてしまう。林檎の低い悲鳴が床に跳ね返ると欠片と雫が白く泡立つ。そして甘い香りが部屋中に広がっていく。誰も上手な言葉を探せずにそれを見つめる事すら出来なかった。ただ、そこら中に転がった心を拾い集めるのに必死だった。
ーーーーー
「……これでいいんだろ?」
「そう、それでいいのよ……」
「誰も傷つかないなら……それでいい……これでいいんだよな」
「……貴方って本当に、アルチザンね」
「アルチザンねえ~……言い様だろうな……人攫いがよく言うよ」
「すぐそこにダイナーがあったけど……私、お腹がすいたの……一緒に行く?」
「そうだな……俺も腹が減った……あと、やけに喉が渇く」
寂れた町のモーテルの外に備え付けられた公衆電話で通話を終えたニールが、ガードレールに腰掛けた女を見下ろす。女は販売機で買ったオレンジのソーダをひとくち口に含むと頬に瓶をあて笑う。ニールは首元を擦り、神妙な面持ちで嫌味な言葉を吐く。首には赤黒い刺青のような水膨れが数カ所に出来ていた。引き攣れるような痕。
笑うことも怒ることも意味を成し得ない。「ただいま」の言葉はもう二度と口にする日は訪れない。そう感じたんだよ。俺が居ることで傷付けるならこれでいいんだ。これで終わりだろ? そうなんだろ?
ダイナーで食事を終え、モーテルの一室に入り、ベッドに腰を下ろした。両手を頭を抱えるような形で髪をくしゃくしゃにし何も映っていないテレビを見る。顔色の悪い俺が俺を睨む。何も言葉は交わさない。口元が歪み嘲笑う。心の隅のわだかまりはきっと一生消えることは無いだろう。裏切り? そう簡単な話じゃない。 蓄積した汚れのようにこびりついたモノはそんなに容易く剥がれ落ちることはない。鏡に映った姿。もうひとりの自分。月に二度程、姿を現していた幻影? 母の残した残骸。そう、俺だよ。天使の兆しが見えてこないのがおかしいのは当たり前。俺は天使なんて大層なモノの器じゃない。ハーフの全てに能力や特別な輝きがある訳じゃない。これが性というモノだ。別に神様がくれたモノにケチをつけるつもりはないさ。でも、皮肉なもんだな。弟だけにばっちりと出た天使の兆候。別に嫉妬や嫌気が差した理由でもない。
ニールはスタッキングマグをひとつ手にすると備え付けのウォーターサーバーの水を入れる。大きなボトルが水を注ぎ入れた事で大小様々な気泡が音を立て消える。まるで最初から何も無かったように溶け込んでいく。ニールは、ひんやりとしたマグカップを額につける。それから伝わる温度に両目を固く閉じ奥歯を鳴らした。
子供の頃のシモンが走る姿が脳裏に浮かぶ。嬉しそうな顔で俺の後を息を切らし追い掛けてくる。シモンの赤いニットが目に眩しい。両手を広げ無邪気に笑い、石につまずいて勢いよく転ぶ。びっくりした目をして膝の血を見た途端に動きが止まったと思ったら、次第に顔が歪み大声を出し泣く。お決まりだった。いつも面倒で馬鹿で、それでいて可愛かった。赤い大きな橋が見えるマーケットの駐輪場で息を白く吐き、かじかむ指先を繋ぐ。夕日を見てロリポップを咥えて顔を見合わせて笑う。ただ、それが幸せだった。何もいらなかった。それだけで幸せだった。こんな贅沢はいらなかったんだ。夢を見てたんだ。ありきたりな幸せな夢を。
「本当にいつも俺たちはこんなだな……」
言葉は霧のように消える。
心も身体も意味を成さない。それをきっと前から知っていたはずだ。なあ、そうだろ?
「あら貴方でも感傷に浸るのね……そう言えば此処につれてきた本当の理由まだ言ってなかったわね……」
「うるせえよ……本当の理由だって?」
「ニール・クインテット……貴方はハーフ・デイモンの器なのよ……」
「……ハーフ・デイモンの器?」
「そうよ……ネフィリムの身体を持ったハーフ・デイモンの器なのよ」
シャワーから出てきた女は濡れた長い髪を拭き、タオルを巻いただけの姿で現れ俺を潤んだ瞳で見つめ、ただ笑ってその言葉を吐く。俺はその濡れた姿よりも彼女の言葉に息が詰まりそうになった。
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