第38話 死の林檎
あなたは林檎にそっくりな果実がある事を知っているかしら?
あらゆる果実の中でも最も危険なもののひとつなんて言われているのよ。危険なのは、その全てが猛毒を含んでいるからなの。樹液にはアレルギー性皮膚炎をおこす、ボルボール。果実には下痢や吐き気をもたらす、アルカロイドが含まれているらしいの。樹液の場合は雨で溶け出たものが皮膚に触れるだけで激痛に襲われるなんていうのよ。でも、樹液では死なないの。苦しいだけ。ただの木の実や果実と間違えて食べた場合には致命傷になりうるわ。その強力な毒性から、ある国では『死の林檎』なんて恐れられているの。
ねえ、貴方の「致死量」はどのくらいかしらね?
(※実際にある物を題材としていますが、諸説ありです。)
ーーーーー
「ふああああ~」
大きなあくびをし片目に涙を浮かべ、左腕を上げる。そして、もう片方の手は口に当てがって首を左右に揺らし音を鳴らす。
今日は久しぶりにゆっくりとしているな。ここ最近は本当に色々とあったからな。数ヶ月の出来事は嵐のように過ぎていき、目まぐるしかった。
春の陽射しが暖かな風を運ぶ。何処かのビルからのバート・バカラックの「the look of love」が聴こえる。とても耳に心地良い、落ち着いた音色に酔いしれそうになる。ニールは窓枠に腕を置き、煙草に火をつけた。甘く懐かしい香りにシモンが目を細め、マグカップを二つ持ち、そっとサイドテーブルに置く。流れる曲に邪魔をしないように小さな声で名前を呼ぶ。その声に振り向きニールは煙を窓の外に逃がした。
「珈琲入れたんだけど……一緒にどうかな?」
「ああ……」
「ニール、なんだか平和ボケしていない?」
「平和ボケも、たまにはいいだろ……」
「そうだね、たまにはね……それにしても今日は暖かいね」
「ああ……」
「ねえ、ニール……聞きたい事があるんだ」
「……うん?」
僕の顔を見て、首をゆっくり傾げたニールの瞳は力強く、そして儚い、ヘイゼルグリーンの輝きをしていた。何気ない、この会話も幸せな時間だと僕は思った。これが今の僕らの世界だと、守りたい世界だと思うんだ。
ニール……知っているよ、こうやっていても気にかけてくれている事を。
知っていたよ、この暖かな日差しのように見守っている事も。覚醒を起こしたあの日から腫れ物に触るようなニールも、この頃から目に見えて変わっていくのが分かったんだ。
「ねえ~え! シモンちゃん! 壁に掛かった時計の埃を取りたいの! 手伝って!」
「……ああ、うん。今行く!」
結局聞きたい事は聞けずじまいで、ティノの声にシモンは返事をすると、ニールを一瞬目で追うように見て、その場を離れた。シモンが置いていったマグカップを持ち、また変わらず窓の外を眺める。
行き交う人に紛れ、赤いストールが揺れているのがニールの目に映った。何故だろう見覚えがある。何処で見たのだろうか? どこか懐かしい赤いストール。ニールはその赤いストールをゆっくりと目で追う。赤いストールの女は偶然にも、このビルの下を横切って行く。グレイのスーツにブロンドの上品にアップにされた髪。折れそうに細い黒いヒールに、柔らかなオレンジの口元の女。
ニールは思わず事務所から駆け出し、その姿を探した。大通りに差し掛かる所でタクシーに乗る後ろ姿が見え、ニールは走るが、あと一歩のところでタクシーは走り出し行ってしまった。我に返るように頭を掻き首を傾げる。何故ここまで夢中にさせたのか? すると足元に白いハンカチが落ちていることに気が付きニールは指先で拾い上げた。さっきの女の落し物か? それとも他の人の落とし物だろうか? ガードレールにそのハンカチを結びつけニールが事務所に戻ろうとした時だ、後ろから声が聞こえた。
「貴方がそれを拾ってくれたの?」
その声に振り返りみると肩で息をした女性が立っていた。結んだハンカチを慌てて外し差し出すと、息も切れ切れで女性は頷き手を伸ばしハンカチを受け取る。
「ああ……これはアンタのか?」
「大事な物だったの……ありがとう……」
「いや……」
「良かったらお礼を……」
「気にしなくていい……偶然拾っただけだ」
「……でも」
「じゃ、仕事に戻るから。俺はこれで……」
ニールは振り返る事もせずに事務所に戻って行く。そのニールの姿が見えなくなるまで、女性は黙って見つめたままだった。
ーーーーー
ニールが事務所に戻ると、ティノとシモンがニールの顔を見て安堵の溜息を吐く。グランとアダムが見知らぬ女を連れて事務所に訪れていた。
「ニール、よかった……」
「どこに行ってたの? 気がついたら居ないんだもの」
そんなシモンとティノの姿を見て、ニールが苦笑いをした。
「あ〜! やっと帰ってきたんですね! ご無沙汰しています、ニールさん! 遊びに来ちゃいました!」
「ニールお兄さん!」
「……おお! よく来たな! グラン調子はどうだ?」
「うん! もう大丈夫だよ! このとおりだよ!」
元気よく駆け寄ってくるグランをニールは満面の笑みでそっと抱き上げる。その隣でアダムは嬉しそうな素振りをして、ニールに抱き上げられたグラン見上げた。
「その上着……アイツが着るより似合ってるな?」
「……だーれの、なーにが似合ってないって?」
「よう! クマさん!」
「……誰がクマさんだよ! グランくんが着れる服がボクのサイズしかなくって、それにカレなら似合うからってボクがあげたの! 余計な事言わないでいいんだよ! ニールは!」
「ニアお兄ちゃん……お洋服……ごめんね……」
「いやいやいや! そうじゃないんだよ? そういう意味で言ったんじゃなくてね!」
「ニア……オマエ、結構酷いこというね?」
「ちがうちがう! そうじゃないってば! もう! ややこしくなるから、ニールは黙ってて!」
「あ〜……グランが気にする事ないんだよ?」
「ごめんなさい……アダムお兄ちゃん……」
「まーた、ニールは余計なことを言うのね……グラン少年と純粋無垢そうに見えて、実は中身が真っ黒ドロドロなアダムさんに失礼よ~?」
「あの、ティノさん……それ、すごーく毒吐いてますよ?」
「あら? そうかしら? じゃ~この雑誌の中身はすべて嘘なのかしら?」
ゴシップ誌を片手で持ち、ティノが片目を大きく見開いて、含み笑いをする。あの例の女との情事を、こと細かく掲載されたモノ。金に目が眩んだ女が自ら売ったと、事務所のお偉い様から後でアダムは聞かされた。もちろんイメージは急激に下がり、仕事に影響は出た。だが、その代わりに色気のある仕事が増えたのも事実。世の中とは呆れたものだ。
「それは……その……えーっと……」
「……コホン!」
焦りを必死で隠そうとするアダムの顔は真っ赤になり、まるで、そこらに居る青年と何ら変わらない。そんなアダムを呆れた顔で見ていた女は、わざとらしく咳き込んだ。
「そう言えば、そちらのエロい美人はどちら様だ?」
「ニール! 言い方を考えて!」
「えーっと……そちらの大変グラマラスボディに深く入ったスリットスーツに、眼鏡に目元のホクロがエロティックなお嬢さんは……ああああ~上手く言えねえな!」
「ニール、もういいから……こちらの女性はアダムさんのマネージャーで、実のお姉さんだそうだよ!」
「へえ~……って姉さん? ほお? で、どういった御用権で?」
やけに悪戯な表情でニールは珍しく、戯けてみせた。そんなニールに彼女が呆れた目を向け、頭を下げた。
「イライザと申します。以前アダムがお世話になったそうで……それからグランの事もあり、お礼に伺った次第ですが……ですが、ここら辺で私は失礼します……」
ムスッとしたイライザはニールを見ると厳しい目を向け、踵を返し、事務所の大きな扉を開けようとして手をノブにかけた瞬間にノック音が聞こえ身体を後退させた。
「おや……お客様ですか?」
黒いダブルのスーツに、黒いハットの出で立ちのウィリアムと執事のガブリエルが荷物を抱え立っていた。
「ウィリアムさん! おかえりなさい!」
ニアがウィリアムの鞄を受け取り、書斎のいつの場所にきちんと置く。そして、急いでキッチンに入っていく。その後ろに着いていくようにグランが興味津々になり、こっそりと覗き込み、その情景に目を輝かせた。
「このお部屋……すごい! たくさんの瓶や、きらきらした道具がいっぱい!」
「グラン様、お怪我なさいますと大変ですよ……さあ、こちらへ」
丁寧に並べられた茶葉の入った瓶が、壁に沿って奥ばった形で、壁にある生成りに染まった年代を感じさせるパントリーに置かれ、数々のティーカップが所狭しと飾ってあった。香ばしく焼かれたワッフルに、色とりどりのマカロンが個々に仕切られた化粧箱に入っている。大きなソーダ硝子に入った、まるで宝石のようなリボン状のキャンディーが数本入っている。その隣にクマちゃんビスケットの袋が、まるで肩を寄せ合うように、二袋並べられていた。
ガブリエルがグランを丁寧にソファーに誘導し、膝にブランケットをそっと掛ける。
手際の良さに扉の前で棒立ちになったまま言葉にならないイライザが全てに感心をした。
「さあ~お嬢様! お茶のご用意が出来ました! そのような場所ではお茶会はできませんよ……さあさ、どうぞこちらへ~」
ティーポットに数脚のセットを器用に持ち手際よく並べていくと、温かな紅茶をゆっくりとカップに注ぎ入れてる。湯気と共に甘くフルティーな香りに、スパイシーな上品な香りが混ざる。すると、ニアが丁寧に頭を下げた。
「ボクが入れた特別なハーブティーです。香りと共に安らぎの時間をお楽しみくださいませ……あと、本日は特別に今朝焼いたばかりのクイニーアマンをご用意しました! バターが何重にも練り込まれたデニッシュ生地はサクサクで美味しいですよ~」
上品な香りが漂った部屋に、うっとりとする甘い菓子の香り。そこに拍車をかけるように甘いグラニュー糖と香ばしい塩バターの香りが魅了するフランスの焼き菓子。伝統的なお菓子の「クイニーアマン」が大きなお皿に飾られる。女性でなくとも、ニアのマジックに掛かってしまう瞬間にウィリアムは優しく微笑んだ。
「さて、今日はゆっくりとした時間を過ごしてください。遠慮はいりませんよ?」
ウィリアムの落ち着いたその声は、苛立ちを解消させ、イライザはカップとソーサーに手を掛けると、ホッとため息をついた。
あの事件が嘘のようで、笑い合う声は午後の安らぎの時間をゆっくりと、まるで心地の良い音楽のように流していく。アダムとグラン達が帰った後、一緒に並んで片付けをするニアとティノが楽しそうな鼻歌を唄う。あのトイ・ストアのCM曲だ。二人は顔を見合わせては笑い合う。それを見ながらニールとシモンは書類をステープラーで閉じ、棚にアルファベットごとに入れていく。何通かの封筒を確認するウィリアムは薄青い便箋に気が付き目を通す。一枚の写真と待ち合わせの場所だけが書かれた、差出人の名が書かれていない手紙。ウィリアムは書斎にニールを呼びつけ、その便箋を手渡し「この場所に見覚えは?」と、珍しく怪訝な表情を浮かべた。ニールは少し考えたが覚えがないようで便箋と色褪せた写真をウィリアムに返した。
「これがどうしたってんだよ? この場所とこの手紙にどんな意味が隠されてるんだよ? はっきり言いたい事があるなら言ってくれないか! ウィリアム!」
少し大きくなる声に、応接室のみんなが一瞬にしてウィリアムの書斎を見た。珍しくはない事だが、シモンは気が気じゃなかった。それに、いち早く気がついたティノがホットミルクを持ってきた。
「シモンちゃん? これすごく落ち着くから……アタシが入れてみたの、飲んでみて」と照れくさそうに笑ってみせた。
「僕の心の声が聞こえちゃったかな? 気を使わせてごめん……それから、ありがとう……ティノいただくよ」
シモンは優しさに甘える事が元来苦手だ。それでもここに来て、人に触れ合うことで随分と成長したのだろう。ゆっくりとカップを手に取ると、ふんわりとした微笑みをティノに返した。ティノは何も言わずに俯きながら両手を後ろに回し首を左右に振る。
その夜、ニールは眠る事が上手く出来ずに事務所の窓際のソファーに座る。所々に残るビルの明かりと、うっすらと雲が掛かる空には三日月がのぼり淡く街を照らした。煙草に火をつけ、ぼんやりとその月を見上げ少し肩の力を抜くと扉を叩く音が聞こえた。こんな時間に客人か? ニールは怪訝な表情のまま煙草を灰皿の角で消し、扉をゆっくりと開けた。
扉を開けた先には、あの赤いストールの女が立っていた。ニールは唖然として言葉にならなかった。そして感情のままで話してしまいそうになるのは、きっと間違えを起こてしまいそうになる。とっさにニールはそう思ったのだろう。女のオレンジの口元が何かを言いたそうに動き、ニールはその妖美な立ち振る舞いに吸い込まれそうな感覚に落ちそうだった。
「まだ覚醒していないのね……迎えに来たっていうのに残念ね」
その言葉に燻りかけた心は一瞬に引き戻される。ニールは女に向かって睨みながら首をゆっくり傾げた。
「アンタ……何言ってんだ?」
「自分がまだ誰だか理解していないのね? 馬鹿な男ね! でも嫌いじゃないわ……」
ニールは女を訝しげに睨み付け、不愉快な思いに落ちる。
そんなニールを気にもしないで、女の顔は悪びれもせずニールを見て嘲笑う。肩と首筋に回される指先に誘惑という言葉を嫌という程に思い知らされる。絡まる女の香りに支配されるように溺れていく。震える強がりも裏切りのプライドも……渦にのみ込まれていく。
そして……
その日、ニールは事務所に帰らなかった。
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