第23話 狂いだした真冬の太陽
此処は、とても居心地の良い場所。
暖かな陽だまりに身体を預けて眠る事が、こんなにも幸せだったってなんて知らなかった。柔らかな空間はゆっくりとアタシを包み込み、理屈なんてなくてただ幸せを感じたの。
「ありがとう」はまだ言えていないけれど、アタシは今までに感じたことのない幸せな気持ちに浸っていた。
「ティノ様、もうここの環境には慣れましたか?」
温かい湯気と暖かな言葉に、ふわりとアタシは包まれる。ガブリエルさんの声はお腹の底に暖かく、じんわりと響く。彼に手渡されたマグカップにゆっくりと唇が触れ、そっと飲み物を受け入れる。彼の淹れた飲み物は艶めかしい程に喉を温かく優しく通って、しっとりと身体に行き渡っていく。自然な甘さと優しさが含まれたミルクティー。とても心地良いメロディーが聴こえたかのようにアタシの心が身体が落ち着いていく。アタシはただ黙って少し俯き、恥ずかしさを隠すようにして頷く。ガブリエルさんは、そのアタシの表情を確認すると優しく笑顔を返してくれた。
「お嬢様~ 本日のミルクティーはいかがでしょうか? 特製の茶葉はスリランカの一級品! ボクが丹精こめて厳選しましたよ〜」
ニアの声と、おどけた動きにアタシは溜め息をこぼす。
「台無しだわ! アンタ最低ね! もう丹精こめて厳選ってなんなのよ? 意味分かんない!……ホント最低!」
「ガブりん、かっこいいもんね? ボク、お邪魔だったかな?」
そう耳打ちするニアに、ティノは顔と耳を真っ赤にした。ティノは、ふと何かを思いつくとソファーにきちんと二つ並んだクッションのうちのひとつを掴み、緩やかなカーブをつけてニアに向かって投げる。ティノの顔には自然な笑顔がこぼれた。
「おい! そこのガキども! 埃が出るからそういうのはやめろよ! 最高のお茶が台無しだろうが!」
ニールが器用に足を使いクッションをバウンドさせ、ミルクティーを飲みながら片手でキャッチした。
「ニールくん…… 貴方も道化師のように器用なものですね…… ティノさん、貴女も、もう少しお上品にしてくださいね?」
その言葉に二人はビクっとして顔を見合わせ「アンタのせいで怒られたじゃない!」「俺のせいじゃないだろ! オマエが悪い!」と小声でお互いを罵る。そんな二人をよそにウィリアムはこちらを一度も見ずに、コートと鞄を手に持ち前を横切っていく。
「ウィリアムさん、新しい依頼ですか?」
僕は、すぐに声をかけるがウィリアムにはその声は届かず、書斎の扉がゆっくり閉まる。
「最近ウィリアムさん忙しそう…… ちょっと寂しいな……」
ニアはその背中を見送ると、ティーポットを静かにテーブルに置く。そして、少し瞳の奥が寂しさで曇っていった。
「ねえ、アタシが来てから? もしかしなくてもウィリアムさんは…… アタシが嫌いかな?」
自分がここに来てからのウィリアムの行動のひとつひとつを気にしていたのか、ティノはニアに内緒話をするかのように小声で話す。
「うん? ああ…… それは違うよ! そんな人じゃないよ? ウィリアムさんは忙しい人なんだ! カッコ良くて、困った時は頼りになって、本当に尊敬する人って感じなんだ!」
「へえ~ ……すごいわね…… そこまで言える人が居るなんて…… ある意味、アンタに尊敬するわ!」
「そう? いいよ! 尊敬して! 大いにたたえちゃって!」
ニアは胸のあたりで腕を組むと目を閉じて何度か深く頷き、まるで自分のお手柄で褒められた時のように自慢げな態度をする。
「調子に乗らないでよ? そういう意味じゃないんだから!」
「でも、僕もそれは思うよ?」
と、そこにシモンが口を挟んだ。
「え?」
「なになに? ボクが生意気ってシモンちゃんは言いたいの?」
シモンがテーブルの残ったティーセットを手に持ち、穏やかな口調で揺らぎない言葉を続け、ティノとニアは同時にシモンを見上げる。
「ニア、そうじゃないよ? 僕もウィリアムさんの事を尊敬しているよって事!」
「シモンちゃんもウィリアムさんを? へえ~」
ニアはシモンの顔をもう一度見て、オットマンソファーの上に落ちていた小さな羽根を指先で摘んだ。そして羽根にふっと息を吹きかけ飛ばすと、窓からの風にふわりと浮かび、ゆっくりとそっとシモンの手のひらに落ちた。
シモンはその羽根を見つめて、あの時の事を思い出し話す。
「あの冷静な判断は素晴らしいと思うよ! あと、やっぱり凛として強くて、あの激しく降りしきる雨の中、迷いもなく的確に仕留めていく姿は素直に凄いって思ったよ……」
「おい! おっさんって、そんなに強いのかよ?」
ティーカップを口から離し、後ろからニールはシモンに声をかけ、驚いた顔をする。そのニールの声に振り返ったニアは、目を少し見開き考えながら落ち着いた口調で話を続ける。
「強いって言葉で合ってるのかな? そんな言葉でいいのかな? なんだろう……強いっていうか……ウィリアムさんは怒ると怖いよ?」
お皿に丁寧に並べられたビスケットを1枚手に取るニアは半笑いで、そのビスケットを刀に見立て、素早く切るフリをする。
「怒ると怖い? なんだそりゃ? もっと噛み砕いて説明しろよ?」
ますますニールの表情は歪み、唇の片端を上げ、眉根を寄せた。
「歯止め効かないタイプっていうか…… なんというか…… ずっと一緒にいるボクですら、ああいう時のウィリアムさんには身震いしちゃうもん!」
「なんだよ? それ?」
「言葉のまんまだよ…… ってニールはあの時死んでたからね、あははは! そりゃ知らなくても仕方ないね!」
目を細め厭らしく笑うニアは口元を片手で隠し、わざとらしく芝居をする。
「ああ…… あの時か…… って死んでねえよ! 気を失ってたって言えよ! 謝れ! そして、訂正しろ!」
話が見えてこないティノは、3人のやり取りに小首を傾げて少々不機嫌になった。
「なに? みんなにいったい何があったの?」
「ん~! ティノには教えな~い!」
「えー! ニア! そういう言い方すると余計に気になるわよ!」
「ティノには関係な~いの! 知ったところでどうする事もできないでしょ~? 」
「何よ! アタシだけノケモノなの! ひどい! 教えてくれたっていいじゃない!」
「うるさいな~ ……ティノの声はボクには聞こえませーん!」
「ニア…… またそんな言い方して…… ティノさん、これには深い訳が合って…… とにかく二人とも落ち着いて……」
「シモン! 哀れんだ顔と目でモノを言うな! なんか、俺すげえ可哀想だろうが!」
「あああ~…… ごめんニール……」
「オマエ…… 半笑いで謝んなよ! 余計に傷つく!」
「ティノ様、知らなくてもいい事もあるんですよ? それよりも、お茶のおかわりは如何ですか?」
「ガブリエル! それよりもって、どういう意味だ!」
「ニール様、そのままの言葉ですよ?」
「……ふーん、まあいいけど。ああ、おかわりはいただくわ!」
ガブリエルの少しだけ砕けた言葉に唖然として、ティノは空になったカップを見て顎を上げ、ガブリエルを見てにっこりと笑った。
窓から降り注ぐ暖かな空気が揺れ、部屋はひとときの安らぎをつくる。書斎の窓際のウィリアムの机には季節外れのクレマチスの小さな鉢が置かれ、鮮やかに白と紫の花が咲く。花びらの露が音もなく滑り落ちていくのをウィリアムは黙って見ていた。
まるで何かを物語るように。そして幸せの歯車はゆっくりと回り出す。ぎこちない音が聞こえるその歯車は、不穏な空気を纏いながら錆びた臭いを撒き散らす。この何気ない会話も幸せだったと感じる日が来るなんて、誰も思っちゃいなかった。ずっと、続く事がどれだけ幸せだなんて――ね。
*****
毎夜見る夢に悩まされ、眠りにつくのはいつも明け方だった。次第に頭痛薬は効かなくなる。痛みに耐えきれなくなるのはいつも真夜中で幸いだったが、体力的にも精神的にも限界を感じる前にと等々僕は病院に行く事を決めた。そして次の激しい頭痛は翌朝に始まり身体に異変が起きた。
「なに……これが僕なの?」
痛みに耐え切れずにパウダールームで胃の中の物を全て吐き戻し、口元を洗い顔を起こして鏡に映る姿に思わず声が漏れ両手で顔を触る。確かにこれは僕だ。紛れもなく僕だって理解だけが出来た。けれども鏡に映る自分の姿に混乱せずにはいられなかった。
明け方だった事が幸いだった。僕の瞳の色は赤に近い紫に変わりはて、もともと色白だった肌が更に透明度が増していた。髪の色はゴールドブロンドで目に刺さる程だった。
明けていく朝日がきちんと閉じていない扉の隙間をすり抜け、鏡を通して目に眩しく僕は眩暈がした。急いで側にあったバスタオルで頭を覆い光を遮断する。
「ねえ……そこにいるのシモンちゃんだよね? 」
「ニア? ……何言ってるの? いったい誰に見えるの?……他に誰だって言うの?」
「安心して大丈夫だよ? ボクだけだよ? まだほかに誰も起きちゃいないから…… それよりとても綺麗だね……その足元の羽根、あの時ソファーで拾ったモノと一緒だよね? シモンちゃんのだったんだね…… ハーフなんて言葉じゃ、もうシモンちゃんを片付けられないよ? 」
扉の隙間に立つニアはこちらからだと逆光で表情はわからなかった。でも僕は怖くて仕方がなかったんだ。
「ねえ……もう出ていってくれる?」
「シモ……ンちゃん?」
僕のいつもとは違う冷たい言葉にうまく声にならないニアは、たじろいだような声を出す。
「聞こえてないの? 出ていってくれないかな? ……それに僕はバケモノじゃないよ!とにかく早くここから出ていって!」
「シモンちゃん、大丈夫だよ! ここに居るみんな、そんなこと誰ひとりも言わないし…思わないから!」
ニアのその言葉には嘘偽りはないと思った。彼もきっとそんな風に辛く生きてきたんだろう。でも、今の僕に他人を受け入れる余裕なんてものは無かった。遠くの車の音が聞こえ鳥の羽ばたく音が聞こえる。いつもよりも鮮明に、美しく。そして何処からか懐かしいオルゴールの音が聞こえた。幻聴なんかじゃない。懐かしい音。
頬をゆっくりと涙がつたい僕は声を殺し泣く。分かっていたよ? 愚かで泣き虫でどうしようもないことくらい。僕の中の恐怖の色は塗り潰した滲んだ黒だった。記憶の中のみんなの顔が徐々に見えなくなっていく。記憶が曖昧になっていく。気が狂いそうになる程の荒くれたヴァイオリン協奏曲が途切れ途切れに聴こえ、父さんのジッポのオイルの匂いと甘いタバコの匂いが入り交じる。大きな手にウインセンターのあの大きな橋。子供の頃の記憶が走馬灯の様に頭の中で勢いをつけて流れてくる。
そして、もう僕は此処には居られない。そう思ったんだ。ごめんね、ニール――ごめんね。
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