第7話 体感温度
遠くの電車の音が聞こえる。
凍るような空は、ゆっくりと泣きだす。
そして雨は雪に変わる。季節外れの雪は街を真っ白に染めていく。窓から手を伸ばし、手のひらの上に舞う雪を優しく掴む。次第にじんわりと、それは溶け消えていく。
俺の想い出と同じだ。そうして、俺の傍からやがて消えるだろう。
*****
水槽の中で漂う女性を見てニヤは、今まで僕らに見せた事ない表情で、両手を優しくガラスに合わせてから、水槽越しに声をかけた。
「ユーリー起きて。会いに来たよ。ボクだよ、ニアだよ? ユーリー」
小さな声で囁く様に、優しく優しく丁寧に声をかけた。
彼女はゆっくりと瞳を開ける。尾鰭がゆらりと揺れ美しさが迸る。水面が静かに水音をあげる。美しく儚く、どこか切なさを秘めた生き物。この世に、こんなにも神秘的な造形はないと断言出来るほどだった。
彼女はニアに気がつき、自分の両手をニアの手に重ね合わせ、とても嬉しそうに微笑んだ。口の動きで『ニア』と言ったのは、僕たちにも理解できた。
暫くして、ユーリーは僕たちの姿に気がつき、まるで珍しい物を見るようにビックリした様子だった。
目を丸くして、逆さまに泳ぎ、僕たち二人の顔を交互に見た。
『……天使?』
そう言ってから彼女は首を傾げた。
*****
ニールは生まれて初めて、こんなにも美しいイキモノを見た。今まで美しいモノとは無縁の生活だった。心の隅の傷口を修復するかのように彼女の美しさに魅了されてる。童話の中の産物。この世に存在してはいけない。そう思わずいられなかった。
物心がついた時には 、オヤジの後に着いて危険な生活をしていたから、見るモノ全て醜悪なモノばかりだった。
泣いてワガママを言いたい時もたくさんあった。怖いと逃げ出したくもなった。
でも、「オマエは、お兄ちゃんだ…… シモンを守るんだぞ?」 と。ずっと、言われ続けてきた。
使命感はやがて憎悪に変わるかもと、恐怖に震え眠れない夜もあった。
悪夢は、たくさん見てきた。シモンを守りきれない夢。あと一歩の所で、シモンが崖に堕ちてしまう夢も見た。
ニールは、子供の頃からシモンが可愛くて仕方がなかった。未だってそれは、変らない。
シモンのヒーローに成りたかったんだ。カッコイイ兄ちゃんで居たかったんだ。ただ、それだけだった。母さんが自害する直前に俺を呼び。リビングのソファーで、優しく抱きしめて、
「ありがとうニール…… ありがとう…… あなたが居てくれて嬉しい。……大好きよ」
と、頭に顔を押し付けて、きつく抱きしめられた。
苦しいほどの愛情の全てを込めた抱擁だったの事を、今でもニールは覚えている。
バスルームで、その後、母さんは両手首と首元を自ら切った。
浴室は真っ赤な色に染まっていた。
その真っ赤なバスタブで眠るように死んでいた。血の匂いと母さんの付けていたバラの香水が混じり切った匂い。バスルームの噎せ返る匂いが、ずっと記憶から離れない。
衝撃だった。初めて見る身近な者の死。
泣く事は出来なかった。そんな暇なかった。まだ赤子だったシモンを守ると誓ったから。泣かなかったんじゃない。泣けなかったんだ。
オヤジは、トリック・ドールを作り。家のアチコチにナイフで、マークを刻んでいく。コレが……シモンを守るということ。
ウィンチェスターという、古めかしいライフル銃をニールには握らせ、
「オマエは もう立派なハンターだ。難しいまじないもこなした…… 後は、これで自分を守るんだ」
子供相手に渡す得物じゃないと子供ながらにニールは思った。未だに車のシートに隠して、一度も使った事なんてなかった。分厚い聖書に、銀の十字架。ニールは「 まじない 」だけで、渡り歩けた。それだけで十分だった。
ニールは、ナイフや銃は好きではない。手応えのある得物は使わない。そう決めていたんだ。
シモンは泣き虫で、いつも転んでは、泣いていた。それでも可愛かった。守ってやれる正義感はたまらなく、ニールを高揚させた。
シモンが大学受験の前夜。オヤジの呼び出しで突然、家を出ることになった。 サヨナラの言葉も何も言えずに……
それから半年して、やっと家に帰れると分かってもニールは躊躇した。今さらどんな顔してあの家に戻ればいい? 前と同じニールで?
そんなの無理だった。何も言わずに家を出たのに、ヒーローでカッコイイ兄ちゃんは出来なかった。
だらしなく。いい加減で嫌な奴を演じればいい。髪を短く切って、無精ひげを生やしてみた。鏡を見る度に嫌気がさし、何度もヒゲを綺麗に剃りたかったが我慢をした。大好きだった、モッズ・スーツや革靴も履くのをやめた。Tシャツにジーンズ。極めつけは滅多にスニーカーを履いた。
これでいい。これでいいんだと、毎日、毎日、言い聞かせた。やっと慣れた頃に、ひょっこり家に帰るとシモンは呆れた目でニールを見て、前のように言葉を交わさなくなった。
それでいい。これでいい。成功だ。
そろそろシモンを守れる限界が近いと、オヤジから連絡があり、あの日に繋がる。店の前でシモンに会い、慌てて話を合わせた。気まずくて、何を話せばいいのか分からない、シモンがあれこれ話す中、頷く事しか俺は出来なかった。
家に着き。呼び鈴でトリック・ドールが出て来ない事に直ぐに理解し、鍵を急いで開けた。案の定トリック・ドールは壊れた状態だった。誰かに殺られたんだろう。 芝居をし、シモンをなるべく傷つけない様にしたつもりが、あの有様だ。しまった。と思った。直ぐにオヤジが到着して、苛立ちがピークに達し玄関まで迎えに出た。
オヤジは首を縦に振ると、シモンに会いに行った。扉を力いっぱいに閉め、すぐに追いかけたが手遅れだった。
シモンは、崩れ落ちるように泣き叫んだ。
ニールはそんなシモンを支える事しか出来なかった。淡々と話を続けるオヤジは残酷で。猶予を与えなかった。
あの時と一緒だ。守る為とはいえ、残酷で容赦なく突き落とす。
勝手なもんだ…… ニールの気も全然知らないで……
そして3人で飲んでいるうちに、シモンは倒れる様に寝てしまった。部屋に運びベッドに寝かしつけた。
気がつけばシモンの身長はニールを超していた。オヤジとは 、あの後も話し合いをした。そして町を出ると決まったのだ。
ニール、三十一歳。シモン、二十五歳。
変な家族の在り方になってしまった。
腹違いの子供設定。オヤジは偉い人設定。
ニールは、いい加減で嫌な奴設定。
大変な告白大会で、シモンの頭も大変な事だったと思う。ニールですら、そう思ったのだ。
ワガママで泣き虫は相変わらずで。どうしようもなかった。それでも、あの時とニールは何ひとつ変わらず。シモンを守ろうとニールは心に誓った。
昨夜の下級悪魔の出来事。
それから、あの 「ガキ」は、きっと今までにあった事のない大物だと思う。
身の丈に合わない、日本刀を器用に扱うガキ。シモンからは見えない位置だったが、ニールの目にはしっかりと映った。火花が散った瞬間に背後から、ガキはしっかり位置を把握をし後ろから脊髄と心臓を躊躇うことなく、貫きやがった。あの一瞬で。
ガキの姿はきっと仮の入れ物だろうと思う。なんにしても、厄介この上ない。
オヤジが死んだ時もニールは涙が出なかった。言葉も出て来なかった。悲しくなかった訳じゃない。心が正常に機能しなかったんだとニールは思った。
―――そして今
とんでもないモノに遭遇している。
俺達と同等か? いや、それよりもっと上。「レッドデータ・ブック」に載っていたのかさえ、定かじゃない。
ありゃある意味、本物のバケモンだ……
そういや、あとひとり居たな……
「ローズ・ゴールド」のSランク。
「ミッドナイト・イヴ」の称号を持つ少年。ウィリアム・ロックのただ一人の助手 。
彼の名は「アルベルト・ニア」
偽名か、はたまた本名かは不明。
ミッドナイト・イヴは噂では、血は薬。
肉は不老不死。交われば若返り。
真の悲しみの涙は宝石になる。と聞いたことがある。まあ都市伝説。実際は謎のままだ。呆れたものだよ、こんな幼いガキがその大物とはね……
しかも、一丁前にマーメイドに恋してやがる。やれやれだ。
――――数分前
ニアはニール達に今までの経緯を、独り言のように語りだす。
あれはね……、夜中にボクはウィリアムさんにナイショで、こっそり抜け出して散歩をしていたんだ。
突っ込みたいことは一先ず、全てニールは飲み込む。
港に通じる倉庫には、たくさんの高級車が並んでいて、ボクはゆっくりとそれを見物していたんだ。
すると、大きなトラックが荷台に大袈裟な布を覆い被せた状態で、ほんの数十メートル先に停車して、運転手は倉庫の中に積み荷を入れる手配する為にいなくなったんだ。
ボクはその大袈裟な大きな布の下が何故かとても気になったんだ。こっそりと中を覗くと大きな水槽の底に女の子が沈んでいたんだ。
ボクは驚いて公衆電話からウィリアムさんに連絡をしたんだ。
勿論あとで、こっ酷く怒られたさ、うん。
とにかく今は、それは置いておこう?
ウィリアムさんには
『闇商人の取引だから放っておきなさい』って言われたんだ。
……そりゃオマエも、「レッドデータ・ブック」のSランクだからな? と言うのもニールは我慢した。
それでも、ボクは諦めきれなくて、誰もいない事を確認してから、水槽のガラスを音を出さずに丸く割ってからね―――
……おい。そりゃどういう道具だ? その言葉もニールは、とにかくグッと我慢し無理矢理に飲み込んだ。
大量の水で、びしょ濡れになったけど、彼女を上着で包んで。抱きかかえて、ボクは夜の街を走って帰ったんだ。もう本当に必死で走ったんだ。奇跡的に誰にも見つからなかったんだよ? すごいよね? きっと神様が守ってくれたんだと思ったよ。
それから15年間、色々な噂を耳にしたよ。もう、なんていうか、匿ってくれたウィリアムさんには、一生かけても頭が上がらないと思ったんだよ……
ニールはとうとう我慢が出来なくなり、ニアに向かってこう言った。
「おい、オマエ…… いったい幾つだ?」
そんなニールの言葉に、ニアはキョトンとして答える。
「え? たぶん、三十五歳くらいかな? うーん…… もっと上だったかも? ん~? とにかく それくらい? 忘れちゃった」
と、照れ笑いして頭を掻いた。
ニールは、頭を抱え何も言えなくなり。黙って本を読みながら、話を聞いていたシモンがその本をバタンと大きな音を立て落とした。
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