ある商店街の日常
久遠マキコ
カスガ、美容室で財布を見つける
「ない!」
そんな声が上がったのは店がいよいよ忙しくなってくるそんな時間帯の事だった。
その一言で店内は静まり返る。順番待ちをしていた客は揃って声の主を見つめ、客の相手をしている店員でさえその手を止めた。
「どうかなさいましたか」
何事かという顔をしながら対応したのは最近入ったユキという女だった。ついこの間、専門学校を卒業したという彼女は恐る恐る声の主に尋ねる。
「ないんだよ!」
それがない事がさも当たり前のように言う声の主はきつい化粧の臭いを振りまくふとましい中年の女だった。パーマをかけている間は随分と上機嫌だったと思ったのに、どうしたというのだろう。
「何がないのですか」
「財布がないんだよ!」
「それは大変だ」
人間は金がなければ何も出来ない。それがなくなったともなれば一大事だ。
「他人事ね」
「そりゃあ他人事だもの。吾輩には何の関係もない話だ。それにほら」
手で示した先には人目を憚るように椅子の足置きの下で黄色い財布が直立している。鞄から零れ落ちたのが偶然にもああいう形に収まってしまったのだろう。
「ああ。あそこに」
「そう。あそこに」
「もしかしてアンタ、盗んだんじゃないだろうね」
「め、滅相もございません。お客様の物を盗むだなんて」
「じゃあ誰が盗ったんだい!」
自分が落としたという可能性を遠くへ放り投げた女は被害者面でそこらにいる人間に噛みついて行くが、誰もが自分は無関係だと主張する。
「どうなってるんだいこの店は!」
ヒステリックな声が店内に響き渡り、眠気を誘うBGMを掻き消した。
うるさいなと思いながらも成り行きを見守っていると、千鶴が動き出した。千鶴は店長で、この中の誰よりも歳を取っている。すっかり白くなった頭を洒落た形状に整えているおかげでそれほど老いた風には見えない。それどころか若々しくエネルギッシュで吾輩から見ても格好良いと思えるくらいだった。
「いつ見てもワイルドだ」
「イケてるでしょ」
「イケてるな」
「何かございましたか」
老人特有の少ししわがれた声を凛々しく発しながら千鶴が女に尋ねた。
「財布がないんだよ」
「それは困りましたね」
「本当だよ! 犯人を見つけてちょうだい!」
女がやけにうるさい声で喚き散らすものだから吾輩はうんざりして耳を塞いだ。他の客や店員も似た気持ちのようで、揃ってうんざりとした顔をしながら二人のやり取りを見ている。
「うるさいわね」
「まったくだ。ゆっくり昼寝も出来やしない」
「カスガ。最初に見つけたんだから、お財布の場所を教えてあげなさいよ」
「嫌だよ。吾輩には関係の話だ」
あんな悪臭の中を歩かされると思うと全身の毛が逆立つに決まっている。
落とした可能性はないか、そもそも家に忘れて来たのではないかなどと千鶴は尋ねるが、女はその可能性を微塵も考えていなかった。
「客が盗まれたって言ってるんだよ! だったら盗みに決まってるでしょう!」
「それでは少し探してみましょう。お客さま方、少し煩わしいかと思いますがご容赦下さい」
千鶴の一言に順番待ちをしていた数人の客が無言で頷いていた。こんな状況でも客が去らないのはこの近くで千鶴以上の腕を持つ人間がいないからだろう。
「カリスマおばあちゃん美容師と言われるだけはあるな」
「そうよ。千鶴がいるから私はいつだって完璧な身だしなみでいられるの」
確かに、彼女の毛並みはいつ見ても輝いている。
「褒めても良いのよ?」
「それよりも財布を取ってやったらどうだ」
「え?」
「ほら。もっとうるさくなりそうだ」
クローゼットや本棚などを探しても財布は出てこなかった。
「出てこないじゃない! やっぱり誰かが盗んだのよ。もしかしてアンタが盗んだんじゃないでしょうね!」
女は千鶴を指差して声高に叫んだ。
「そうよ。そうに違いないわ! 誰か! 警察を呼んで! 窃盗、そうよ窃盗よ」
その単語が気に入ったのか、窃盗窃盗とふとましい女は連呼するが、誰も取り合わない。
「どうして誰も連絡しないのよ! いいわ。私が連ら…あー」
鞄を取るために屈んだ途端に語気を緩めたところを見るに、自分の財布の所在を知ったらしい。それから女は怪訝そうな顔の千鶴に気が付き、気まずそうな顔をした。
「そ、それじゃ掛けるわよ!」
ふと何かを考えるように俯いて自分の肉に顔を埋めた女は最終的に何かを決心したのか、覚悟を決めた顔でボタンを押し始めた。
女が自暴自棄になって電話を取り出した時、隣にいた彼女が飛び出していた。
「ほ、本当に警察呼んでやるんだから!」
ダイヤルを終えた女は泣きそうになりながら電話を耳に当てる。するとそこへ可愛らしい鳴き声が聞こえてきた。
財布ならここよ。
そう言っているのが分かるのはこの場では吾輩だけだった。
「おやシャンプー」
シャンプーは口に財布を咥えている。
千鶴はしゃがむと財布を受け取り、女に見せびらかす。
「まずは電話をお切りください。それで、お探しのお財布はこちらですか」
千鶴は女が財布を見つけたは良いが、引くに引けなくなってしまっていた事に気が付いたようで、呆れたように溜息を吐きながら言った。
「そ、それよ! 見つかったのなら良いわ!」
女はふんだくるように財布を取り戻すと店を出ようとするが、千鶴がそれを止めた。
「お待ちください」
「今度は何よ!」
「お会計がまだでございます」
所々から嘲笑が聞こえてくると、女は顔を真っ赤にして紙幣を何枚か取り出すと、それを投げつけた。
「お釣りはいわないわ!」
逃げ出すように巨体を揺らして去って行く姿が見えなくなると、千鶴は紙幣を拾い上げる。
「おかげで儲かっちまったよ」
シャンプーを撫でてから、千鶴は手をパンパンと鳴らす。
「はいはい! サボるんじゃないよ! お次のお客様はこちらにどうぞ」
千鶴はシャンプーを抱き上げると吾輩の横に降ろして、それから吾輩を軽く撫でてから仕事に戻って行った。
石鹸の良い香りがした。
そう。この酔いしれるような香りを間近で嗅ぐために吾輩はここにいたのだ。
「良かったではないか。褒められたのは吾輩が動かなかったおかげだな」
「そうね。そういう事にしておいてあげるわ」
目的を達成した吾輩は帰るべく立ち上がる。
「帰るの?」
「帰るとも。そろそろ御母堂が食事の用意をしている頃だ」
「またね」
シャンプーの一言に尻尾で応えてから固いドアの前まで移動する。
「はいはい」
レジ打ちをしていたユキが吾輩に気が付くと、ドアを開けてくれる。
「まったく。猫は自由で良いね」
ドアを開けながらユキが吾輩を撫でた。慣れた手つきの気持ちの良い撫で方だった。
「ユキちゃん。サボるんじゃないよ」
「すいません!」
千鶴に釘を刺されたユキが気を付けのポーズで直立したためにドアから手が離れる。開けたドアが閉まり始めた。狭まるドアの隙間を縫って外に出てから一度だけ振り返る。
ユキと視線が合うと彼女は手を振り、それを見ていた千鶴がまた何かを言ったのか、ユキは緊張したような顔をして仕事に戻っていった。その様子を見届けてからシャンプーを見ると、またねとでも言うかのように尻尾を揺らしていた。
振り返り、家に帰ろうとすると足元が気になった。
帰ったら爪でも砥ごうかな。
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