幼馴染と隠しナイフ

氷ロ雪

序章

原 罪

笛吹男

 目の端に一閃、男の振り抜いたナイフが鋭く僕の額を斬り裂いた。血が吹き出し、視界の左半分を赤く染めていく。


 骨まで達した傷による激痛は一度頭の隅に追いやった。今、僕が考えなければいけないのはどうやって此処から生き延びるかだ。


 長い鎖が床を這いずる音、間髪入れずに同世代の少女が僕に駆け寄った。


 彼女はまるで自分が傷つけられたように苦痛に顔を歪ませながら僕の額に手を当て、止血しようとする。患部に触れられる痛みよりも彼女の手の暖かさが心地良かったのを覚えている。


 そう、これは記憶。既に起きた七年前の殺害事件の記憶だ。この後起こる悲劇は既に決まっている。彼女は九歳のどこにでも居る幸せな家庭で育った優しい女の子。


「ダメ……血が止まらないよ! 緑青(ろくしょう)君!」


 もう一人、自分と同じく誘拐され、この山小屋に監禁された少女の名前は佐藤浅緋(さとうあわひ)。両親不在の僕が当時お世話になっていた下宿先の家族の一人だった。


 薄暗い山小屋の中、僕と女の子は片手同士を鎖で繋がれている。手首の枷は鍵が無いと開けられない。だから僕が選べる選択肢はそう多くは無かった。恐怖心は不思議と無かった。僕はただ必死に目の前の女の子を救う為の活路を探していた。僕を斬りつけ、勢い余って転倒した男から視線を外さない。左の視界を塞ぐ血に構わずに睨みつける。手元に武器と呼べるものは既に無かった。


 ナイフ相手に素手は分が悪い。況しては相手は大人。十歳の子供が勝てる確率は低いだろう。もし、誘拐されたのが僕の幼馴染である彼女だったら、意図も簡単に目の前の大男を倒せたのだろうけど、今此処には僕しか居ない。犯人の男は悪態を吐きながらもそれ以上こちらに危害を加えるつもりは無い様だった。恐らく、先刻の一撃は暴れ回って抵抗した僕への戒めらしい。そう、僕は既に持てる全てを使って抗っていた。けど、僕はまだただの無力な子供でしか無かった。鎖に繋がれた僕等は理不尽な命の選択に迫られている。


 男が言うにはこれは大事な儀式で、僕らが殺し合う事が必要らしい。意図や理由も不明。生きる為に相手を殺すか、生かす為に殺されるか。最初、僕ら二人の間に置かれていたナイフは既に男を刺すために使い、没収されてしまった。


「ごめんね……緑青君」


 少女が僕の名前を叫びながら何度も謝る。何をそこまでキミは謝るのだろうか?僕等に非があるとしたら、不用意にこの森に足を踏み入れた事だ。僕から溢れる血が少女の白い手と衣服を紅く染めていく。思ったより傷は深く、血が止まらないようだ。このまま僕が死ねたら彼女は助かるのだろうか。


 此処に至るまでの十年という短い人生を振り返り、どこで選択を間違えたのかを自問自答する。その一つ一つの小さなミスがこの事態を招いたとしたら、これは僕が招いた不幸であり、この子を巻き込んだ事になる。謝るべきは僕の方なのに。彼女は皆んなから、世界から愛され、皆んなを愛していた。


 僕よりも生きる価値のある人間だ。

 疲労と失血で朦朧とする意識の中、少女が僕に囁いた。


「……私を……殺して?」


 薄暗い山小屋の中、少女の細い手が僕の両手に触れ、彼女の白い首元へと誘った。


「生きて、緑青君。あの子、君の幼馴染が帰りをきっと待ってる。今もきっと傷だらけになりながらこの森を探し回ってるはず。いい?あの男の提示したルールでは何方かは生き残る。そしてあの男はこのルールを自ら破れない……」


 彼女は僕よりも何かを知っている?極限状態の中、脳裏に幼馴染の女の子の姿を思い浮かべる。黄金に輝く彼女の髪に、僕の名前と同じ色彩を持つその瞳。あの雨の日、孤独な僕に傘を差してくれた太陽の様に輝く女の子だ。僕はもう一度、彼女に会える事を願う。それは僕が、僕自身を堰き止めていた感情だった。


 溢れ出した心の奔流を止める術を僕は知らない。例え、望まれない子供だとしても。心の底で世界を憎み、人を恨んだ自分だったとしても。


 薄れゆく意識の中、僕は彼女の細い首に力を込めていく。

 最後に何かを彼女が囁いた。それは何かの約束の様だったけど、僕はうまく思い出せない。靄の掛かった彼女の言葉。けど僕の心の奥深くにその約束が刻まれた事は覚えている。


 どれぐらいの時間が経っただろうか。苦しかった筈の彼女の顔は最期まで微笑んでいた。


 僕は選んだのだ。彼女を殺し、無様に自身が生きる事を。そしてこの罪は一生消える事は無い。それが僕の原罪だから。


 誰かが僕の名前を呼んでいる気がした。そうだ、僕は行かなくちゃ、彼女の下へと。

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