『執心』(2007年02月03日)

矢口晃

第1話


「ねえ佳子、剥きすぎだよ」

「うん、わかってるんだけどね……」

 同僚の香織に声をかけられて、佳子は久しぶりに俯けていた顔を上げた。佳子の机の上には、さっきから彼女自身が熱心に剥いていた彼女の指の皮の細かい破片がかなり汚く散乱していた。机の上が真っ白になるほど指の皮を剥き続ける佳子のあまりの執拗さに、隣にいた香織がたまらず注意を与えたのである。

「昨日も剥いてたでしょう? いい加減病院行ったほうがいいよ」

「うん。行ってはいるんだけど……」

 冬になり空気が乾燥すると皮膚が乾き指や手の平の皮が剥けやすくなるのは、佳子が中学生になってから、すでに十数年来の持病なのであった。生まれつきに神経質な彼女は、自分の指の先の皮が白く浮き、剥けそうにめくれ上がっているのを見ると、気質上どうしてもそのままにはしておけないのである。剥けそうになった皮は全て排除して、自分の手を「きれい」な状態にしておきたいというのが彼女の願望なのであった。だから彼女は指の先に少しでもささくれを見つけようものなら、必ずそこから皮を毟り始めた。しかし指先の乾燥した固い皮は、茹でた烏賊の皮を剥ぐようには簡単にはきれいに剥けるものではない。少し剥いては皮がぶつりと切れる。するとそのむき残しがまた彼女の神経を苛々させる。そしてその剥き跡を再び剥き始める。

 このようにして佳子は、毎年冬になるとほとんど毎日左右全ての指先の皮を丹念に剥いてゆくのである。もちろん剥いたら血の出る生皮の部分は剥かない。剥くのは白く死んだ皮膚だけである。しかし佳子はそれでも、時間さえあれば何十分でも己の手の皮と格闘を続ける女性だったのである。

 現に今だって、隣の香織が見かねて声を掛けるまでに、佳子は右手の人差指の指先から第二関節までの腹の皮の全てを剥き終えてしまっていたのだった。佳子は下の皮が透けて真っ赤になった人差指の腹を見つめながら、それでもまだ剥けそうな皮がどこにでも残っているのに不服を感じながら、いったん皮を剥く手をやめ、さっきまで自分の体の一部だった、しかし今は机の上に散らばるただのかすと化した剥いた皮膚の残骸を、机の下の小さなゴミ箱のなかにティッシュを使って余さず落とした。

 佳子が今「病院に行っている」と香織に答えたのは、もちろん嘘ではなかった。彼女はこの病気が発生してから、ほぼ毎年欠かさず皮膚科に通い、専用の治療薬を受け取っているのである。佳子はその薬を使って、医者の教える通りの治療を試みた。肌が乾燥してきたと思ったらこまめに軟膏を手に塗ったし、夜は軟膏を手に刷り込んだ上に保湿用の手袋さえして眠った。水分をたくさん採れと言われればトイレの近くなる苦も厭わずなるべく水を飲んだし、ビタミンやコラーゲンをたっぷり採れと言われれば、安い給料の中から泣く泣く出費をはたいてそれらの食料を買い入れた。

 治療を始めた最初のうちは、確かに調子がよいのは佳子も知っていた。皮が死んで白く浮き上がってくる頻度も減るし、もし剥き始めても周りの皮が湿っていて柔らかいからあまり広く剥きすぎることもない。そのままの状態が永遠に続けば佳子としてももちろん文句はないのであるが、ところがそうは問屋が卸さないのである。たとえば、彼女が自宅でセーターや綿物の上着を脱ぎ着しようと服に手をかける。すると彼女は自分の手の平に、一瞬服に「ガリッ」と引っかかるような感触があったのを感じる。そして彼女が感触のあったあたりを見てみると、やはり例のささくれがあるのだ。数回手入れを怠ったがため、すっかり白く変色してしまった、乾いた皮膚が。またある時には、電車の吊革に掴まっている時に彼女が何気なく見た自分の指先に、「敵」の姿を発見してしまうこともあった。そんなささいなきっかけから結局いつものように向き始めてしまって、つまるところがもとの黙阿弥、治療もまた一からのやり直しということになる。

 畢竟彼女が彼女の皮膚の状態を一番の状態に保っているためには、彼女は何をおいても先に皮膚の手入れに気を配っていなくてはならないのである。しかしそれは実際彼女には難しいことであった。仕事を持っている彼女にとって、少量ではあれ軟膏を塗った手で書類を触っては、それらを汚す恐れがあった。その手で部屋のノブやパソコンのマウスやキーボードに触れれば、べた付いてその後にそれらに触れる人に不快な思いをさせないか不安だった。もちろんだからといって、軟膏を塗ってから乾くまでしばらくの間仕事から席を外すなどということが可能なはずがなかった。

 そうして少し薬を塗るのを怠った日に自宅に帰ってシャワーなど浴び、軟膏のすっかり落ちた自分の手の平を見ると、もうその手はいたるところ白い皮膚ばかりなのである。見たら剥かずにはいられないから、時間をかけてまた剥く。手がぼろぼろになる。そんなことの繰り返しなのである。

 軟膏の減りは早い一方で、自分の手はいい時の状態と悪い時の状態を行ったり来たりしている。少しでも治癒に向けて前進しているのならまだよいが、彼女にはそれすらも感じられなかった。すると彼女には、諦めとも悟りともいえる一種の観念がいつしか芽生えてきた。どうせ治らないならいくら時間と努力をつぎ込んでも無駄だ。いくら手の皮を剥いたところでそれが人に害を与えることでもないし、自分が死ぬわけでもないのだ。ならば一生この病気と付き合っていこう。朝が来たら朝食をとるのと同じように、冬が来たら手の皮を剥く。佳子はそれを自身の「日常」の中に組み込んでしまおうとした。

 だから確かに最近も彼女は病院には「行ってはいる」のである。しかしそこにはすでに治るという期待もなければ、直そうという意志もなかった。ただ冬の恒例行事として、彼女は皮膚科へ出向いたのである。正月が来ればみんなが餅を食べるように、冬が来れば彼女は病院に行くのである。

 さて、それから数日隔てたある夜のことである。佳子はいつもにもなく何かに気を揉んでいるようだった。それは仕事上のことのためであるかもしれないし、または彼女の友人間のことのためかも知れなかった。ただ彼女は非常に気を苛々させていた。そんな時その反動として、彼女が指の皮を剥くのにさらに没入するのは彼女にとって珍しくはないことだった。

 この日も独り暮らしの自宅に帰ってからシャワーを浴び、リビングのソファに座ると、耳の端に時計の秒針のかちかちという音をかすかに聞きながら、熱心に手の皮を剥き始めた。時間は夜の十時を過ぎていた。彼女はうすぼんやりと灯した部屋の天井の照明の下で、テレビつけず音楽も聞かず、あらゆる雑音からひとり孤立して、ただひたすら自分の皮を剥くことに専心した。右手の皮を剥くと、左手の皮を剥いた。それからまた右手の皮を剥いた。繰り返し繰り返し手を換えながら、彼女は剥いても尽きない己の皮と一心に格闘をした。

 やがていつもより深く剥きすぎ、柔らかい生皮を傷つけた爪の周りの部分からは、うっすらと赤い血が滲み始めた。しかし彼女はそんなことには少しも頓着せず、なお剥ける部分があれば休まずに剥き続けていった。

 やがて時計は十二時を回った。が、一度も顔を上げない佳子がそんなことを知るはずは無論なかった。彼女は今では左右五本の指の腹の皮をことごとく剥き終え、その五本の指は今にも皮膚の下から血が噴き出して来はしまいかと心配されるほど真っ赤に変色しているのだった。しかし彼女はそれでもまだ手を休めようとせず、今度は各指の付け根から手の平の方へ向けて剥き進めようとした。

 手の平の皮は、指の皮に比べて柔らかく剥きづらいのに違いなかった。しばらく剥いて行くと、すぐに血の出てくる皮の薄い部分もあった。そのたびに彼女は手の平に敏痛を覚えた。それが一か所や二か所のうちは耐えるのも困難ではなかったが、やがて出血が何十か所と及ぶにつれ、それは耐えがたい激痛に変わり始めた。彼女は額に脂汗を流しながら、歯を食いしばり、それでもなお皮を剥き続けることだけはやめようとしなかった。何がその夜の彼女をそこまで鬼気迫る状況に追い込んだのかは、誰も知る者はなかった。ただ彼女は何かに取り憑かれたように、必死で己の皮との死闘に挑んでいたのである。

しかしそれから彼女がまさしく生皮を剥がれる苦しみにしばらく耐えていると、不思議なことにある瞬間からぴたりと彼女の表情から苦しさが消えた。苦悶に歪み脂汗に光っていたその顔からは全く責め苦に苛まれる色が消え、ただ平生のように無心に手の皮を剥く、穏やかな彼女の表情がそこにはあった。時間は深夜の二時になろうとしていた。右の手の平にあった運命線、生命線の類は、すっかり赤い血の色の皮膚のなかに埋没して、ほとんど原形を留めてはいなかった。右の手の平をほぼ剥き終わった彼女はさらに手首へと剥き進み、手首からさらに前腕の腹へと進路を拡大して行った。

 夜がしんしんと更け朝方になっても、彼女の自身の腕の皮を剥く怪しい手つきは留まることを知らないらしかった。

「おはよう」

 翌朝、会社に早く来て席に座っていた香織が、いつものように後ろから佳子に声を掛けられ、

「おはよう」

 と返事をしながら椅子ごと振り向いたその時、香織はそこにいた佳子の顔を見て、思わずフロア全体に響くような大声で絶叫した。

「ど、どうしたの、一体」

「うん、ちょっとね。そんなに目立つかな?」

 そう言って白い歯を見せながら笑い、佳子は自分の右頬のあたりに軽く右手の指を軽く当てた。佳子の顔の右半分は、まるで大きな火傷でも負ったかのように真っ赤に爛れていたのである。佳子が笑ってみせると、右の頬にできるはずの笑い皺は、皮の剥けた肉の襞が重なり合う、ただグロテスクな光景だった。下の瞼も上の瞼もすっかり皮を剥ぎ取られた右目は、今にもそこから零れおちて来てしまうのではないかというくらい、飛び出した眼球がぎらぎらと不気味に輝いていた。また周りの赤い皮膚の中だから、一層その半ば飛び出した目玉が異様に映るのに違いなかった。

 香織は椅子の上に腰を抜かし、眼だけはすでに佳子の右の顔から右の首筋へかけて赤く爛れているのを見逃さなかった。そしていったん制服のブラウスの下に隠れて再び現れた右の手首から先は、やはり顔面と同じ色に焼けたように爛れているのを発見した。

「それ、全部自分で剥いたの?」

 放心しかかった声で香織がそう尋ねると、佳子はいつものように香織の隣の席に腰を下しながら、

「うん。昨日、彼氏にふられちゃってね。つい」

 そう言って左にいる香織に顔を向けて再びにこりとほほ笑んだ。香織はその顔を見るが早いか、一目散にトイレの中へ駆け込んでいた。




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『執心』(2007年02月03日) 矢口晃 @yaguti

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