第10幕 違う出場の双子人形


 わたしの声がほしい……?

 アベルはわたしの首を絞めながら、突拍子もなくわたしの声がほしいと言った。冷たくて硬い指が首に食い込み、まるでわたしを殺しにかかっているようだ。抗おうにも上手く力が入らない。とうとう意識が虚ろとなり、本気でアベルを怖いと思ってしまった時、ぱっとアベルの手が離れた。


 ゲホッ ゲホッ。


 勢いよく咳き込むと、オズウェルさんが優しく背中を撫でながらアベルを咎める。

 しかしアベルはただただ押し黙ってこちらを凝視していた。その目は凍てつく冷たさを宿し、でもどこか憎悪の炎が奥に漲っているようにも見え、その視線から逃れようとした。


「あー……お嬢さん。アベルはね、お嬢さんの声に亡霊が反応しているところを見たんだよ。だからお友達を助ける際にも、その特性を活かせるだろうって言ってたんだ。――と穏便に言えばいいものを。アベル、どうしていきなりお嬢さんの首を締めたりしたんだ? いくらサド哲学愛好者でも、それはないだろう?」


 オズウェルさんは少々眉間にしわを寄せて諭すように言葉を投げかけた。すると、ようやくアベルは少し口を開いて、なんの表情も浮かべずに言い捨てた。


「そいつの声、あいつに似てるんだよ」


 それ、どういう意味なの?

「あいつ」ってもしかして、アベルが探している人のことなの?

 ――アベルはずるい。自分だけ知っていれば、わたしが知らなくてもいいと想っているんだ。いきなり首を絞められ、それがアベルのいう「あいつ」という実在するかさえ分からない人物の声に似ているからと言われ、流石になにか言わないと耐え切れない。

 こんなになにかに対して物申したくなるのは初めてのような気がした。

 こちらへ背を向けて奥へ消えようとするアベルに、わたしは声を張り上げて呼び止めた。


「あ、アベル!」


 するとアベルの肩が少し揺れる。少し見える彼の左目は見開いていた。


「そ、そんなに……わたしのこと、嫌いなの?」


 もう、地下の亡霊の唸り声など耳に届かないほどアベルへ意識を集中させていた。アベルは肩をすくめ、


「さあな」


 感情をおくびにも出さずしてそう言い、その場を去った。



 エリゼ・バレ。彼女を知る者に「彼女はどういう人物か?」と尋ねると、容姿端麗・学業優秀・品行方正という言葉が連ねられる。

 双子の姉、アリシアと似た顔立ちなのにそれ以外が全て真逆のため、周囲からはアリシアと姉妹だということを知られていない。それに、知られたくないと強く思っていた。


 エリゼは同級生から好かれていた。

 パリジェンヌがうっとりするような流行の服に身を包み、相手が男だろうが女だろうが関係なく向ける聖女のような微笑み。太陽のように金色に輝く髪はゆるやかに巻かれていて、母親からもらった紅いリボンが可憐さを主張していた。


「エリゼはお人形さんみたいね!」


 もちろん褒め言葉のつもりで言った、友だちの言葉。エリゼは一瞬躊躇ったように目を伏せ、「そんなこと、ないわ」と答える。


(お人形? 馬鹿にするんじゃないわよ。胸糞悪いわ)


 内心はそう思っていたが、何度も練習しつくした高価値な笑顔を貼り付けた。

そう――これも全ては、母親のため。

 腹立つ。

 不愉快。

 虫酸が走る。

 自室でエリゼは紙にそう綴った。白だった紙は、いつの間にか真っ黒に染まっていた。今まで、何度羽ペンのインクが切れたことだろう。ご丁寧に最後の余白にまで「死ね」と書いたちょうどその時、扉から控えめなノック音が響く。


「エリゼ、いるかしら?」


 耳が焼け爛れそうになるほど甘ったるい声主は、エリゼの母親だった。偽造感たっぷりの気品がこめられた口調と砂糖菓子の声調が、エリゼにとっては少し苦手でもあった。


「ママ? いるわよ。どうしたの?」


 口元は笑顔にして、上機嫌そうな声を作った。


「あのね、新作のお洋服ができたの。ぜひエリゼに着てもらいたくてね。今夜はデザイナー友だちも遊びにきてるから、お洋服を着たらサロンへいらっしゃい。ここに置いておくからね。ほら、今度デスタン家の夜会にもお呼ばれしてるのだから、夜会用ドレスのことも考えないとね」


 母親は弾んだ声で一方的に言い、軽やかな足音が遠ざかる。扉を開けると、そこには華美な流行の洋服がご丁寧に袋の中に入れてあった。


「……ちっ」


 銅の燭台で踊り燃えるロウソクに、真っ黒になった紙の端を当てる。パチパチと燃えていく紙に、エリゼは腰から駆け上がる恐怖と快感を覚えた。


 自分の書いた汚い言葉が、燃えカスになる喜び。自分の心が洗われないのであれば、せめて燃え尽くしてしまえばなかったも同じ。エリゼはそう思いたいのだ。


「バイバイ、あたしの感情」


 そう、これでいいの。

 まるで画家が描いたような絵が壁にかかっていたり、机の中に売れっ子の小説家が執筆したような小説が隠れていたり、埃を被ったピアノが置いてあったり――どれも全てエリゼの多才ゆえの軌跡だが、母親は全て「無駄」と言った。

 その時点で、エリゼの運命は母親の理想の辿ることになるのだと悟ったのだ。


 好みではないフリルがふんだんにあしらわれた服をさっさと着て、サロンへ顔を出す。するとソファーにはニコニコと嬉しそうな母親の顔、VVS1グレード以上のダイヤモンドを見たように感嘆して微笑むデザイナー三人の顔諸々があった。


「まあ、エリゼさんったらぁ。とてもお似合いじゃない」

「本当お人形さんみたいだわ」

「着る人が良かったらこんなにも服って映えるのね!」


 口々に褒め称えるデザイナー三人に内心うんざりしながらも、口角を上げた。




母親は誇らしげにエリゼの背後に回り、エリゼの肩に手を置いて、

「ありがとう、皆さん。エリゼは自慢の娘なの。エリゼはね」

わざとエリゼの名前を強調させる理由を、エリゼは知っていた。そう、アリシアとは別人だと意識させるためであった。

エリゼは、母親の指が肩に食い込んで痛みにぴくりと頬がつったが、気丈(きじょう)に笑顔を振る舞った。四人の要望に応え、その場でふわりと舞う。

ちょうど誰にも顔を見られない角度の瞬間、強張った表情筋を緩めた。

(まるであたしって、人形みたい)

母親の望むように生きてきたエリゼ。思考も容姿も、全て母親の言うとおりに操られる。そんな自分を、エリゼは「人形みたい」と揶揄していた。

アリシアは、冷遇される身の上で自己防衛本能から感情が薄れてしまったことで、そんな自分を「人形みたい」と思い、そうあればいいと思っていた。

真反対の性格のはずなのに、片鱗に共通点があることを本人たちは知らない。


アベルに煮え切らない返答をもらってから、心臓あたりがズキズキと痛みを覚えていた。わたし、もしかして病気になってしまったのかしら。そうだとしたら免許医に視てもらいたいところだが、心臓に何か詰まっているのだとしたらそれどころではなく大問題だ。医学博士に立ち会ってもらってでも、異物を取り除いてほしいくらいである。

――いいや、わたしのことはどうでもいい。そう、今はニナを助けることに意識を集中させるべきだ。

具体的にわたしになにができるかオズウェルさんに尋ねたら、「鎮魂歌は歌えるかな?」といきなり尋ね返される。

「あ、はい。代表的な一三曲くらいなら、まあ……」

 歌詞はうろ覚えですが。そう付け足して肩を落とすと、オズウェルさんは喜色満面の顔で頷き、

「そうかそうか。リズムを覚えているなら歌詞はうろ覚えでも構わないよ。できることなら、復活祭の日の夜までに練習しておいてくれないかな。それが君にできることだよ。それまで英気を養っていてほしい」

「……? に、ニナは大丈夫なのでしょうか?」

「それまでは大丈夫さ。復活祭の夜を過ぎたら、大変なことになるだろうけど。それに、セレナーデの中心メンバーが揃って助けてくれるようだから、お嬢さんは自分にできることをしてくれたら大丈夫だ」


 そんなやりとりをして、早数日。

オズウェルさんに言われた通り、密かに鎮魂歌の練習を重ねた。窓辺で夜空を眺めながら練習していると、背中からアベルの視線が突き刺さることがあった。

【そんなにわたしのこと、嫌いなの?】

【さあな】

 あの時の会話を思い出し、また胸にチクリと痛みが走った。

「いっ……」

 今までより強い痛みで、思わず声が出てしまった。手から歌詞の書いた紙が落ち、慌ててそれを拾って平然を装う。もう一度続きから歌おうとしたちょうどその時、

「どうした?」

 間近で声がして、今度は違った意味で胸が軋む。これだと、いくつ心臓があっても足りない。

 歌詞の書いた紙で自分の顔を隠しながら「なんでもないです」と言ってみるが、すぐにその紙をどかされる。月夜に照らされたアベルの顔があまりにも芸術的で、平然と至近距離で見るにはかなり目が肥えていないといけないほどであった。

その魔力染みた魅力で正気を失ったのか、それともアベルの問いかけに対する回答をごまかすためか、わたしはアベルの胸にそっと耳を近づけてみた。

自分でもなにをしているのだろうと思う。

途端、アベルが少し強張らせたことに気づいたが、構わず耳を押し当てた。うん、やっぱり聞こえない。それに、陶磁器だから当然と言ったら当然だが、跳ねかすほどの硬さで弾力がない。人間と違って、鼓動という生命の音はなく、そこは無音だった。ならば、アベルの魂とやらはどこに存在するのだろう。

「なにしてんだ、お前」

 相変わらず、悟りすました顔。

即座に振り払われるかと思ったが、予想に反して抵抗の意を示さないアベルに気を良くして、思ったことに加工をくわえず口に出した。

「アベルはどこにいるのかなって思って」

 あまりにも突拍子もないわたしの言葉に、アベルは呆れた口調で言った。

「はぁ? とうとう脳味噌が救いようのないことになっちまったのか?」

「ひ、ひどい……だってほら、人間なら心臓が動き廻ること――鼓動で生きてる証明になり得るけど、アベルのアベルたらしめる証明ってどこか分からなくて」

 自分でもなにが言いたいのか分からなかった。言ってる本人が分からないのもおかしな話だが、アベルに縋り付くように視線を合わせてみた。そうしていないと、いつの間にかアベルが消えてしまいそうに思えたからでもある。

「アベルって胸が痛んだり、弾んだり、温かくなったりしないの? わたしが見ているアベルは、実は幻想でしただなんてこと、ないよね?」

 必死にまくし立てるように問うと、アベルは珍しく真剣な顔で聞いてくれていたが、

すぐにまたいつものようなピエロのような表情を浮かべる。

「はははっ、おもしれぇ! いきなりなにをしでかすかと思いきや――お前、なに? もしかして俺を人間視してねぇか? 別に俺は心臓なんて持っていない! 機械仕掛けのビスクドールが本当になにかを感じ取っているとでも思ってるのか?」

「ええ」

「残念。お前もそこらの人間と同じく、俺の表層演技に騙されてやんの」

 ほくそ笑むアベル。しかし、どうしてだろうか。なぜかその笑みが少し寂しげに見えてしまう。

「アベル。わたしは今ね、きっと『情念論』でいうところの『悲しみ』を感じてるの」

「――ほう、なんでだ?」

 心臓が痛いほど疼きまくる。やはりわたしは病気なのかもしれない。

「アベルが、わたしに言えない悲しみを抱え込んでるように見えたから」

 その言葉を聞いたアベルの顔から笑顔が消えた。するとアベルはわたしから目を逸らし、強い語気でこう言った。

「で?」

「え?」

「例えば、俺が本当に悲しみを胸の内に秘めていたとする。そこで、お前はどうするつもりなんだ? 何もできないだろう? いや、する勇気もないだろう」

「あ、えっと……」

「ほら、すぐそうやってどもる。相手の気持ちを変える勇気すらねーくせに、相手の心の隙を突こうとすんじゃねぇよ」

淡々と紡がれる言葉に胸が抉られる感覚を覚える。 アベルの言うとおりだ。

 例え相手の心奥をついたとして、その先を考えてもみなかった。なにかをする勇気すら持ちあわせていないんだ。

わたしはなんて無力な存在なのだろう。 

 茫然(ぼうぜん)自失(じしつ)で窓へまた視線を戻すわたし。口端から舌へ、塩の味が届いていた。

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