第8幕 夜霧のようにとける男

 人探し? と、オウム返しをするわたし。

 そうだ、と目を輝かせるアベル。

 本当にこの人は、ドールなのだろうか。いや、それは違う――このドールは、人なのではなかろうか?  

 あまりにも人間と見間違うせいで誤謬(ごびゅう)が生まれる心の声に修正を加え、現状把握を試みた。


「誰なの、その人は?」

「歌がうまくて、セーヌ川色の瞳をもった女だ。左の手首に、十字架の傷がある」


 アベルは悲喜こもごもとした口調で、左手に十字を切りながら言い放った。


「ただ、名前は知らない」

「な、なぜ?」


 それだと困るではないか。間髪入れず問うわたしに、アベルはその場でくるりと廻ると、甲高い女声を真似て、


「『貴方に名前をお教えすることはできない。そして私を想うなら、貴方もお名前を名乗らないでくださいな』って、やつは言ったのさ。ロミオとジュリエットさながらの駆け引きだ。同情ものだろう?」


 と、さもおかしげに言葉をつむぐ。

 わたしはその言葉に、アベルとその人との間にただならぬ関係があることを悟り、なんとなく心臓あたりが窮屈に感じた。


「……というのは嘘で、まあタイミングが合わず、名前を聞けなかったと言っておこう」


 目を三日月形に変えて嘯く。

 どちらが本当のことなのか。ころころと道化師のように変わる彼の言葉に頭と感情がついていかず、ぼんやりと彼を見つめていた。

 だが、恐ろしいことに彼の眼の奥にはなんの感情も息づいていない。それはそうだ。

相手はドールなのだから、動くこと自体奇想天外なこと。それなのにも関わらず、このアベルというドールは奇妙な舞台を周囲に馴染ませるのがあまりにも上手い。きっとわたしは、流されているのだろう。頭の回らないわたしでも、その事実だけは飲み込めた。


「お前はどうやら、歌が上手になって舞台に立ちたいとでも思ってるんだろう?」


 いとも簡単に見透かされた想いに驚愕しつつ小さく頷くと、してやったりといった顔で、


「俺なら、お前を輝かせてやることができる」


 そう自信満々に鼻先を上げて言うと、わたしの手を無理矢理ひっつかみ、シャラリと何かを握らせた。

 吐息がかかる距離でアベルがこちらを見る中、そっと手を開いてみる。そこには、アイリス、ラベンダー、マリーゴールドの花が融け合って色づく、夕闇色の時計状の鍵があった。

 カチ、コチ……。耳障りの良い時計の鼓動。思わず心を奪われた。


「さあ、この鍵でパンドラの箱を開けて、未来まで名を馳せる女優となりたまえ」


 力強い予言のごとく言い放った彼の言葉が心に響いた。

 同じ時分に、花売りのニナはオペラ通りから家路についていた。物寂しげに満ちゆく月が、孤独なニナの頭を撫でるように煌めいている。

 荷車には売れ残った花がしょんぼりと座っていて、瞳に影をつくって歩いていると、背後からとんっと肩に手を置かれたことで肩をビクつかせた。




"Ça vaサヴァ?"(御機嫌いかが?)


 耳の聞こえないニナはその言葉は聞き逃したものの、警戒気味にゆるりと振り返った。

 街灯下に映ったその顔に、ニナは恐怖して見開かれた目をすぐにアーモンド形に変えた。その人物とは、いつも喪に服したような黒いスーツと分厚い外套に身をくるんだ若い男性であった。黒いシルクハットを深く被っているせいか顔はきちんと見えないものの、僅かにのぞくプラチナブロンドの髪と緩やかに結ばれた口元からは気品が漂っている。

 彼は決まって、ニナの花が売れ残った夜毎に夜霧が立ち込めるがごとく姿を現す。そして、おつりは要らないと言わんばかりの大金をニナの手に握らせ、売れ残った花を全て買い占めるのだ。

 ニナは今日こそ言ってやろうとこう心に決めていた。「申し訳ないから、お金は要りません」と。

 決意をこめた瞳をまっすぐ彼に向け訥々とつとつと話す。


「あ、の……お金は、要りません。これ、売れ残りの花なので。それに、しおれかけていますし」


 お金を握らせた冷たい彼の手がニナの手を離さず、首をかしげた。


「なぜだい? 大抵の女性は喜んで金を手にする」


 口の形からそう言ったと判断したニナは、澄んだ瞳を軽蔑の瞳に変え、硬貨を道路に投げつけた。

 チャリン、と虚しい音がこだまする。すると、客引きをしていた娼婦が躊躇なく餌に食いついた魚のようにその硬貨をかっさらっていった。

 ニナは、自分が愚かだったと痛切に感じた。一時でも、彼の思いやりに目頭が熱くなったことがあったことを忘れてしまいたい。そんな想いで、口を開く。


「お金、ほしくない。わたし、そこまで……落ちぶれてない。親がいなくても、まっとうに、生きていくの」


 その言葉に、彼はぽかんとあけていた口をキュッと引き締めた。帽子を深く被り直すふりをして、口端を少し上げる。「気に入った」と。


「なら、なにが欲しいんだい? 何でもあげるよ」

「いらない、なにもね」


 ニナは、両親が亡くなってから今に至るまで気丈に生きてきた。

 このパリでは、芸のないものは乞食になるか身を売って稼ぐほか方法がない。あちらこちらに散在する乞食でさえ、音の出ないヴァイオリンを弾いたり、大して上手くもない枯れ果てた歌を披露したりして小銭を乞う。それさえできないのであれば、奪うのみ。盗みさえいとわない者も少なくなかった。


 ニナは耳が聞こえない分、感覚が鋭かった。いわゆる、第六感である。この感覚を見事に駆使し、良い客種を見分けて花を売りつけて常連客をつけたり、彼女なりに苦労してここまで生きてきたのだ。

 そんなニナには、同情なんて不要そのもの。道端に人知れず咲く花なりに、その気高さは失わないことが生きる信条なのだ。

 それにしても不思議だ。第六感が優れたニナなのに、肩を叩かれるまでその気配に気づかなかったとは。ニナはそう思いながら、敵愾心(てきがいしん)を露わにした視線を男に向けた。


「無欲すぎないかい? 僕は君を気に入ってるんだ。だから、君も僕を気に入ってほしい」


 半月型に開いたままの口の動きに、ゾクリと震え立った。


「ずいぶんと、勝手ね。きれいな女の人なら、そこらにいるわ」

「いいや、君ほどの美しい人はいない。どうだ? この手をとってくれさえすれば、常人が手に入れ難いものもあげることができる」

「『常人が手に入れ難いもの』? 馬鹿言わないでちょうだい。私の本当に欲しいものはもう、この世には、いないのよ……」


 お父さん、お母さん――ニナは心のなかでそう呟き、長いまつ毛を伏せた。幼い時に亡くなった両親以外に、ニナが大切に思うものなどこの世にもうないと言って等しい。

 もう耳は聞こえなくなってしまったけども、聞こえていたあの頃に聞いた両親の声を思い出す。

 ニナ、大好きよ。

 ニナ、流石自慢の娘だ。

 頭の中で両親の声がこだまする。ニナは思わず瞳を揺らした。


「この世にないものでも、ご所望であればなんなりと」

「!? ふざ、ふざけないでちょうだい!」

「僕は至って本気だよ。お望みとあらば、故人の魂を与えてしんぜよう」


 詰め寄る彼に、ニナは口の中で歯をガチガチと震わせた。今まで、ニナの容姿に惚れ込んで言い寄る男はいたものの、軽くあしらってきたニナでさえ困るほどのしつこさと無責任すぎる戯言に慄いたのだ。

 こういった時、どういった応急処置を講じるべきかニナは分かっていた。すぐ去れるよう荷車を担ぎ直し、まっすぐ彼の隠れた顔を見ながらピシャリと無感情に言い放った。


「あなたみたいな人、嫌いなんです」


 足早にガラガラと荷車を引きずりながら走った。

 少し、言い過ぎたかも……と罪悪感がつのってすぐ振り返ったものの、なぜか彼はもうその場にいなかった。

 そんな馬鹿な。三秒ほどしか経っていないのに、見渡してもどこにもいないのだ。まるで、まるで――本当に夜霧のように空気に溶け込んだようだった。

 遠くで、最初からニナの様子を見守りつつガス灯の点検をしていた点灯人は、訝しげに独り言をこぼす。


「おいおいニナのやつ。ついに気が触れて一人芝居でも始めたのかぁ?」


 その点灯人は、ニナと幼なじみのせいか彼女のことが気になるらしい。目を細めてニナの後ろ姿を凝視していた点灯人は登っていた梯子から落ちそうになり、「おおっと!」とよろめいていると、下で梯子を支えていた点灯人の父親が赤らんだ顔をさらに赤くして叱りつけた。


「こら! よそ見せず早く取り替えろ! お前がニナのことを大好きなのはよーく分かったから」

「は、はぁ!? 誰が誰を好きって……って、おわ!?」


 その瞬間、不思議なことが起こった。口を尖らせて部品の取り換えに集中しだしたその時に、父親が支えているはずの梯子がガタガタと揺れだしたのだ。


「親父、ちょ……!」


 ガシャン!

 そのけたたましい音に付随した振動に敏感に察知し、ニナは振り返った。すると顔を真っ青にさせ、荷車は放っておいて駆け寄る。

 そこはもう大惨事で、倒れた梯子、尻もちをつく点灯人の父親、梯子から落ちて頭を擦る点灯人の息子がいたのだ。


「大変!」


 ニナは表情を強張らせ、あたりを見回す。すると、細い路地へ入っていく人影が見えた。




 乱暴な強い日差しが瞼を焼き尽くす。ああ、カーテンを閉め忘れたまま寝たっけとぼんやり思考を巡らせていると、近くでちっという舌打ちが聞こえた。

 ……舌打ち?


「寝坊する気かよ、(くそメルド)」


 低俗な罵り言葉に意識が覚醒する。いくら感情の起伏が少ないわたしでもひやりとしてしまう声であった。

 慌てて瞼をこじ開けると、そこには昨夜持ち帰ってしまったサディスティックなビスクドールのアベルが腕組をして佇んでいた。たいそうご機嫌斜めなようで、外の空よりも鮮やかなスカイブルーの瞳は細められている。


 ――ああ、やっぱり夢ではなかったんだ……! 


 どういう原理で動いてしまっているのだろう。もしかしたら人形を器に、悪魔が入り込んでしまっているのかもしれない。まあ、もしそうだったらわたしはもう死んでいるはず。

 それにしても骨董屋で見た時は儚げで悲壮感を漂わせていたというのに、今となっては真逆な印象である。小憎たらしい子どものようだ。

 わたしは無言で後ずさるものの、ベッドから転げ落ちてしまい、その様子を見てアベルは噴出した。

 消え入りたい気持ちが押し寄せる。

 もう知らないと言わんばかりにアベルの存在を無視し、学校へ行く準備を始めた。水を吸った本をつぎはぎだらけのバックへ入れていると、アベルは眉をひそめてみせた。


「うげぇ……どうしたんだ、このおんぼろ本。蚤の市で売ってる古本以上に年季が入ってるけど?」


 下唇を噛み、勝手に本をいじりだすアベルを無言で睨みつける。

 するとアベルは挑発するような笑みを浮かべてこちらを見くだす。


「なんだ、言いたいことでもあるのか?」

「……なんでもないわ」


 知ってる。こういう時、何を言っても変わらないということを。生きてきて蔑まれることが多いと、相手を説得させるために労力を割かなくなる。

 半ばあきらめたようにため息を漏らして部屋を後にすると、後方でアベルが針のように鋭い口調でこう言った。


「アリシア。お前はそんなんだから『こう』なるんだぞ」


 力なく振り向くと、アベルは机に置いてある他のみすぼらしい本を手にとっていた。

 まるでその痛み切った本がわたしだと、そう言いたいのだろう。

 端から知っていることを指摘され、血が出そうなくらいに下唇を噛みしめた。


 ――ああ、反論できなかった。なんて情けない。

 ぐるぐると頭が回る。思考がかき混ざられる感覚は、いつ以来だろう。

 昨日初めて会話したアベルという強烈な存在がわたしの頭を占拠しているのだ。そもそも、ビスクドールと会話するという体験自体がおかしなものであるが。

 授業もままならず、目を伏せたままそっと自身の首につけた鍵を盗み見た。その中の時計の針はチクタクと自分の仕事を理解して文字盤を走っている。アベルにもらってしまったこの鍵、なんの役に立つのかしら。

 先生と目が合い、もやもやとした気持ちのままそっと服の下にそれを隠す。

 ああ、この体験を誰かに言ってしまいたい。

 そう思い立った瞬間、女神のごとく微笑むニナの顔が思い浮かんだ。そうだ、あの子ならこの空想譚のような現実を信じてくれるかもしれない。

 授業が終わった後、すぐに校内を出た。待ち伏せていたエリゼがいつものごとくわたしを立ち止まらせようとしたが、自分でも驚くほどの力で「ごめんnさい!」と言って彼女を振り切り、夕暮れで赤く染まった道を全力疾走した。


「な、なんなの、あいつ……」


 エリゼの戸惑いがちな声が風にのってかすかに聞こえた。



 遠くで見える白亜のノートルダム寺院が火照ったように紅蓮に染まり、ゴゥンゴゥンと深い鐘の音を響かせていた。地鳴りのごとく伝わる振動と、焦る鼓動が共鳴する。

 オペラ通りにたどり着き、ニナの姿を探す。少し時代遅れな行商の古着屋が、「マールシャン・ダビー(ふるーぎー)」と、力なく練り歩く中、人混みをかき分けていると、暗い表情をしたニナが定位置で佇んでいた。

 声をかけようとするも、どうやら様子がおかしい。彫りの深い、整った彼女の顔は青ざめていて、いつもの頬に紅がさして元気そうな顔とは真逆であった。

 肩を手でそっと叩くと、ニナは弾けたようにアーモンド型の目をこちらに向けた。エメラルドグリーンの瞳の奥に、恐怖の闇が広がっていることが窺える。


「あ、アリシア、ね……。よ、かった」

「どうかしたの? その……様子が変よ」


 すっかりアベルの話をすることを忘れ、ニナの話を親身に聞いていた。

 どうやらニナ曰く、不審な男が売れ残った花を大金で買い占めるものの、それを断った夜に近くにいた幼なじみが災難に遭ったと。幼なじみは点灯人としてはかなり優秀だし、点灯の点検をする際には父親が梯子を支えているのにいきなり揺れて落ちたらしい。


 もしかして、わたしのせいかも。そうニナは呟いた。

ニナの言い振りから、その不審な男を疑っていることが窺える。


「ニナ、考えすぎよ。不幸な偶然が重なっただけだと思う」

「そう、かしら……? そうだと、いいけど」


 ニナの沈んだ顔が正視できずに視線を彷徨わせていると、荷車の下から視線を感じた。ふとそちらを見ると、首に鈴をつけた黒猫がじぃっとこちらの様子をうかがっているではないか。

 黒猫は、わたしの目を見てミィアウと甘い声で鳴くが、ニナを――否、ニナの背後を見た瞬間に打って変わって警戒したように毛を逆立てた。


「んん?」


 黒猫はこちらへ寄り付くと、シャァァァとニナの背後へ威嚇を表した。ニナはどうやら、自分に対して威嚇されたと思ったらしくて困惑していたが、わたしが違うと首を振った。

 ニナの背後を、神経を集中させて凝視してみる。すると、どうしたことだろう。錯覚かもしれないが、背後に黒いもやのようなものが立ち込めているではないか。

 そのことに気がついた途端、黒猫はなぜか荷車の上にのぼり、置いてあったニナの帽子を奪い去る。


「あ、猫さん! 待って!」


 ニナの虚しい叫び声に、わたしは迷うことなく足を動かしていた。


「と、取り戻してくる! ニナはここで待ってて」

「え、でも」

「大丈夫!」


ニナの背後に見えた「何か」がとても心配ではあったが、名残惜しくも人混みに吸い込まれていく黒猫の背を追いかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る