第7幕 月夜と未視感の世界
アパルトマンの五階から顔を覗かせた、エリゼ。
エリゼはこちらに気づいていないようで、上機嫌な様子で窓辺の花に水やりをやっていた。エリゼの背後には、お母さんの仕事関係の客だろう中年の女性がエリゼにおもねるように微笑みかけていて、エリゼもまた口端を上げて応じていた。
気づかれたらまずい!
瞬時にわたしはアベルの入った箱を植木の影に置いた。ちょうど置いて視線をエリゼに再度戻して一拍おいた後、バチリと目が合う。流石は双子、変なところでタイミングがあってしまう。
わたしを見たエリゼは、まるで道端の吐瀉物を目の当たりにしたような表情を浮かべ、ピシャリと窓を閉めた。
窓越しから、べっと舌を出した直後、部屋の奥へと消えていく。
いつものことだからそんな意地悪は大して気にならない。ただ、「良かった……気づかれなかったみたい」とだけ思い、警戒心を解かないように箱を持った。
そのまま正面の扉ではなく、中庭をつっきった先にある、"E
そう、わたしは同じアパルトマンに住んでいるものの、屋根裏部屋に住んでいるのだ。それこそ、そこらの女中さんと同じようにこの屋根裏部屋に通じる、配管むき出しの薄暗い階段をのぼる。
わたしが正面玄関の樫でできたドアを開閉する機会は、それこそお母さんやエリゼに対して用事をこなす時くらいしかない。隔絶された距離感に、何も感じないよう努めた。
今にも抜けそうなベニア板の階段を、箱を抱えて0階から六階まで登頂した。
偉いわたし、と少しだけ自分を褒めてみる。
幅一メートルもないフロアの壁に箱を当てないよう細心の注意を払い、やっとのことで自室(屋根裏部屋)に到着した。
「つ、かれ……た……」
体力のないわたしは、箱をそっと窓辺に置いてそのままベッドに伏した。
太陽は真上に位置しているが、今まで感じたことのない充足感と倦怠感に抗えず、仰向けになって瞳を閉じた。
少しなら、いいよね。
誰に許しを請うつもりなのか、そう呟きながら意識を手放した。視界の焦点が収縮し、ついには真っ白になった。
時を同じくして、エリゼは窓辺から見た自分の姉のことについて煩悶していた。
自分と双子である姉、アリシア。ぼうっと生気のない瞳と表情が癪に障り、毎回エリゼは彼女を見ると怒涛のごとく怒りが押し寄せるのだ。
エリゼにはその理由がわかっていた。しかし、彼女はわかっていない。だからこそ、余計に腹立たしい――。
エリゼは下唇を思いきり噛み、口の中で広がる血の味を堪能した。
一人だけ被害者ぶって――大嫌い。
届かない言葉を舌で転がし、それでも母親の客に吐く言葉は甘くして、二重の感情を操ってみせた。
あたりが真っ暗――。
ん? 暗い?
薄らと左目だけ瞼を上げると、斜めに傾いた屋根に取り付けられた天窓から金粒が広がっていた。四角い枠の中から見える群青色の夜空一帯に、色とりどりの星が命を燃やしている。
「綺麗、だなぁ……って、ええ!?」
悠長に星の輝きを讃称(さんしょう)している場合ではない。少しだけ寝るつもりが、まさか夜まで寝てしまう失態を犯してしまい、慌てて上半身を起き上がらせた。
「あ、そうか。今夜はお母さんとエリゼは外食……良かったぁ」
夕食を作る義務は、運良く今夜は果たす必要がなかったのだ。額に浮いた脂汗を吹き、ほうっと深呼吸をした。
そのまま緩慢な動作で鏡の前へ移動し、月光を頼りにロウソクを灯す。
「しっかりしないと。アベルを手に入れたからって、気が緩んでいるんじゃ……」
アベルと呼ぶ時に少しこそばゆい気持ちになるが、きちんと名前で呼んであげないと可哀想な気がして声に出してみる。しかしすぐに髪を振り乱すように首を振り、樽にためた冷水で顔を洗って両頬をぱしっと叩いた。
よし、少し気持ちが引き締まっただろう。唇を真一文字に結んで引き締まった自身の顔を鏡で確認していると、不意に窓辺からカタンッと不可解な音が響く。
情けなく「ひぃ!」と声を上げて、その場にしゃがみこんだ。
音源はどこだと忙しなく視線を四方へ運ばせるが、窓辺だということ以外には分からなかった。
「気のせい……よね、はは、は」
まさか、窓辺においた箱からのはずがあるまい。そう決め込んでいた。
そう、ドールが――もとい、アベルが動くはずがない。
そう分かっていても、早く対面したいはずのアベルの箱を開けられずにいた。早く箱をあけてしまえばいいのに、今日一日で色んな衝撃的なことを体験したせいで、これ以上の刺激は体が拒否しているのか、明日でいいやと思っている自分がいた。
「ごめんね、明日あらためて挨拶するからね……。さあて、と」
ビスクドール相手に軽く謝罪し、気持ちを仕切りなおして、木製のすすけたタンスから目的のものを取り出した。そこに、大切にしまっていた歌詞と本を取り出す。
これは誰にも言えない秘密。
わたしがひっそりとオペラ女優になりたいと思っていることを知っている花売りのニナでさえ、知っていないこと。
そう、実は毎晩か細い声で歌い、本を読んで勉強しているのだ。
もちろん、これでオペラ座の女優になれるとは思っていない。ただの慰めのようなものだと言い聞かせているが、月夜のステージの上でくらい、眼裏に染みついたか《あの人》のようになりたいのだ。
彼女のように、堂々とステージに立ちたい。
心の底から、歌いたい。
観客の心に、光線のように届く感動を生み出したい。
絵心も地頭の良さもないわたしだけど、もしかしたらこの声で、なにかを変えることができるかもしれない。
残念ながら、『カルメン』の初演は観客に受けなかったけれど、それは時代が『カルメン』の魅力に追いついていないからだとわたしは思う。
なぜなら彼女の演じるカルメンは、ごてごてとした貴族のドレスを纏って歌うマネキンのような女優と違って、衣を脱ぎ捨てて羽を生やした蝶のごとく心軽やかに飛び立っていたのだから。
なによりわたしの目にはそう映って、その日以来少しだけ現実世界に彩りが増えたのだ。
大きな出窓と天窓から差し込む黄金の月光が、ロウソクよりも頼もしい文字の案内役だ。歌詞のほうは、カルメンの舞台で歌われる『恋は野の鳥(ハバネラ)』で、本のほうは百貨店(グランマガザン)で薄利多売の対象にされた、『オペラ座の歴史』だ。
"L'amour est enfant de Bohême."(恋はジプシーの子よ)
自分の声が天窓に反響する。
声だけは自分でもわかるくらいに透き通っていて自信があるものの、客観的に考えてなぜか自分の歌は魅力がない。
違う、こうじゃない。なんで彼女のような、心を共鳴させるような歌にならないのか。
恋? 恋をしていないからかしら? ジプシーのように放浪的で享楽的に愛を追い求めればわかるのかしら。
そんな想いを巡らせながら歌っていると、クスッという忍び笑いのようなものが耳に入る。
心臓が飛び跳ね、警戒態勢で周りを見回す。しかし、これといった変化はない。すすけた茶色の壁に、月光で姿を現す埃、所狭しとおかれた家具、何も動いていないし、ネズミがいるわけでもなさそうだ。
「気のせい、かしら?」
そうよね……そう信じたい。
ぎこちなく首をかしげながら、再び口ずさむ。
すると、今度はずるずるとなにかを引きずるような音が聞こえ、口を開いたまま身を強張らせた。
な、なんの音だろう。
頭のなかで警鐘が鳴り響くが、人は恐怖を感じるとうまく動かないもので、息さえうまくできない状態になってしまう。
心臓が皮膚から突き破りそうな感覚が身を襲う。
どうしよう、逃げるべきか? いや、音の正体は八割方わかっている。でも、普通に考えたら絶対にありえないわ――。
そう逡巡していると、コツ……コツ……という音がこちらへ迫っていることに気づいた。
八割方から九割方の確信に変わる。恐怖心と焦燥心が混ざり合って、胸を突き上げる。
歌詞の書かれた紙がひらりと膝へ落ちることに気づかないくらい、その音に神経をとがらせる。すると、
「へったくそ。お前はただの楽器かぁ?」
耳元で澄んだテノールの囁き。
不覚にも聞きほれてしまう美声のせいで、頭が真っ白になる。
ゆっくりと振り返ると、そこには月光に照らされた金糸に、大きな透き通ったアクアマリンの左目と、闇を取り込む右目が待ち受けていた。
腰を抜かし、声にならない悲鳴をあげた。
震える指で彼を指さすと、彼は整った顔をピエロのように歪め、不敵な笑みを浮かべた。
「なんだよ、お前が望んで買ったドールにその反応はねぇだろうが、え?」
美声に似合わぬ汚い言葉遣いで吐き捨てる。嘘だ、目の前でビスクドールが話をしている……?
奇想天外の出来事に、わたしの出来損ないの頭はついていかない。それに、こういってはなんだが彼の容姿に似合わない喋り方にがっかりしている冷静な自分もいる。
「え、えっと……アベル?」
震え声で呼ぶと、彼は更に口角を上げて腕を組む。どうやら肯定の意らしい。
「皮肉だなぁ。お前、人間のくせに俺より人形らしいじゃねぇか。ここ、空っぽなんじゃねぇの?」
ここ、とわたしの頭にぐりぐりと人差し指を押しつけながら言うアベル。
ひ、酷い。よく他人から言われる言葉で慣れているはずなのに、なぜかアベルに言われたら心臓がちくりといたんでしまう。なぜだろう。
「だって……人形らしくしていないと、愛されないもの。いや、どちらにせよ、愛されていないけど……」
目を伏せて弱音を吐く。あのニナにさえ言わない愚痴を、なんでドール相手に吐いてしまうのか自分でも分からなかった。
すると、彼は一拍おいてから、
「ふぅん、なるほど。だーからそんな幸薄そうななりしてるわけ?」
と辛辣な言葉を吐き捨てた。
うっと言葉につまり、視界がぼやけてきた。なぜ初対面の(といっていいのかわからないが)ドールにこう責められないといけないのか。
エプロンドレスの裾を握りしめていると、腕に冷たい何かがふれた。
そこには、彼の白い手があった。その手と彼の顔を交互に見やる。すると彼は面倒くさそうに眉間にしわを寄せたまま、わたしの手を引っ張った。
なにをするのかと思っていると、ちょうど月光が強く当たる場所へ誘導され、スポットライトの下にいるような感覚に陥ってしまった。
焦るわたしを見て、彼はニヤリと笑い、右手をわたしの腰に、左手をわたしの右手に当てた状態でステップを踏んだ。こちらはわけがわからず、ただ彼のステップにぎこちなくついていく状態だった。
「『おお、ジュリエット! おまえはわたしがずいぶんきっぱりしていて、あらゆる絆の敵だと思うことでしょうね。――自然の唯一の掟は、大いに楽しみなさい、誰を犠牲にしてもかまわないからというものなのだから』」
抑揚のある声調でアベルは語り、度肝を抜かしたわたしが後ろへ傾くと、細いのに頼りがいのある右手が不自然な恰好でわたしを支えた。
「えっと、それ……マルキ・ド・サドの? え、えっと」
「ちっ、面倒くせぇな。そうだ、サドの『悪徳の栄え』でデルベーヌ院長が言った言葉。お前はもっと図々しくなれ。お前の人生はちっぽけでもお前しか主役はいねぇんだよ、ってことだ。そのちっせぇ脳味噌の片隅に残しておけ」
なんという毒舌。脳味噌の片隅に刻みつけるどころか、ぐさぐさと心にまで突き刺さっていく。
アベルはそこまで言うと、またもや道化師のような笑みをこびりつけ、腰をひきよせて正常な体制に戻る。
そして突然、どこかの国の王子のように流れるような動作でその場で跪いた。
見上げてくる大きくて透き通ったアクアマリンの左目と、オニキスのような眼孔。瞳は非対称で歪ながらも、人間ではありえないほどに整った顔にかかる月光色の髪がさらりと官能的に揺れた。
「主役よ、お前の名前はなんだ?」
「あ、アリシア。アリシア・バレ」
誘導尋問のように聞かれて答えると、アベルは愉しそうに手を叩きながら意気揚々としてこう言った。
「さあ、アリシア・バレ。その薄汚いなりと不幸すぎる存在で、このぎらつく光の都市パリをどう震撼させてしまうのか! 彼女の名演技にこうご期待!」
人間よりも人間らしいビスクドール、アベル。彼はコロコロと態度の変わる、口の悪い人形だが、なぜか人を惹きつける魅力がある。アベルは跪いたまま、わたしの手をとった。
まだ夢から覚めていないような気分で、彼の唇が手の甲に触れそうになった瞬間、慌てて口を開いた。
「あ、あの、わたしっ! その、まだ、現状が把握できていないし。その、困ると、いうか……」
そこまで言うと、アベルは胡散臭い笑顔をすっと消し去り、眼光を強くさせた。
すると刹那、誰も触っていないにも関わらず出窓がバン!と音をたてて開く。
ヒュォォォッと、肌を突き刺すような冷風が頬と髪を乱暴にたたきつけてきた。
「え?」
底冷えするような低い短い問いかけ。思わず足が竦む。
彼はすっと立ち上がり、大きく見開かれた左目をずいっとわたしの右目のすぐそばにまで近づけた。
心臓が壊れそうなほどに鳴り響き、鼓動に従って体も微動するわたしを見て彼は低い声で、一言一句強い口調で言い放った。
「お前は俺にとって、主人ではあるが単なる操り人形でしかない。さっき、俺を手放そうとか思っただろ? お前の思考は実にわかりやすい。が、それは許さない」
「骨董屋の店主も言っただろう?」
と、念を押すように畳み掛けてくる。身を退いて、悲鳴を押し殺した。
そうだ、店主はどんなことがあっても手放すなと言っていたっけ。なぜあの時、わたしは快諾してしまったのだろう。
「て、手放したら……?」
「呪い殺してやる。死後もその魂ごと呪ってやろう。まあ、そんな程度では生ぬるいかもしれないけどなぁ」
悪魔だ!
鳥肌が全身に立ち、喉から悲鳴が滑り出た。
わたしが一歩退いた分、こちらへ詰め寄ってくる。
ついにはベッドの方にまで下がってしまい、ベッドの足に蹴躓いた。アベルはその様子を見て、先ほどの真剣な表情から一変、ぷはぁと吹き出した。
「はっはははっ、くっそだっせぇな。だが、お前――アリシアだけ不利なのは流石に可哀想だ。だから、お前の夢は表舞台として叶えてやろう。その代わり――俺の願いも聞いてもらう」
「ね、願いって……?」
そう尋ねると、アベルは私の後ろ髪を引っ張り、耳元で笑い声を零しながら囁いた。
「そんな難しいことじゃあない。ただの人探しだ」
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