第3幕 死は確実、時は不確実

 一八七八年、パリ。

 パリを目指してコルマールを出発してから七年の年月が経った。

 わたしはその間、精神的に強くなったものの失うものが多かった。わたしが所有するもので大切なものは、花売りのおばさんからもらった花時計以外なにひとつないから、もういいのだけども。



 パリ・コミューンで動乱状態にあったパリは、わたしが到着した時には徐々にではあったが平穏な生活を取り戻しつつあった。


 慣れないフランス語。

 行き交う大勢のパリ住民。

 ガラス製のアーケードに覆われた通りぬけ道のパサージュや、それよりも高級感あふれる商店街のギャルリ。

 上空には、「」と新聞に揶揄されながらも、自由気ままにモンマルトルの丘から飛び立つ気球の数々。


 「贅沢は繁盛の源」。そう信じこまされた民は、自身の身分に見合うお洒落を熟知しているようで、わたしにとっては皆が輝いて見えた。

 そんな中でポツンと佇むわたしは、まるで置いてきぼりにされた亡者のようで、誰にも見向きもされない。

 まさに、幕と背景と人形がそろっていても照明が当たらないと実物感が出ないのようだ。わたしは ここに立っているのに、まるで実物感がない。

 わたしにとっての光はどこ?

 いくら人形のように生きていたわたしでも、その疑問から避けることはできなかった。そうやって悩んで苦悶くもんしていると、いつも夢の中で不思議な世界と繋がるのだ。

 今朝見たばかりの明晰夢を思い出し、少しばかり重い瞼を閉じる。

 わたしの見る明晰夢は、不自然なほどにいつも同じ場所だ。



「また来てしまったわ」

 目の前に聳え立つ、少しいびつで大きな時計塔。

 針はなぜか4時44分を指している。

 中央にある円柱のような物の中には、大きな月が入っていて、爛々と怪しげに光っていた。

 ガチャッ、ガチャッ、ガチャッ。

 時計塔を構成している歯車がせっせと慌ただしげに動いている。少しでも近づいたら、かみあう歯車に引きずりこまれそう。

 どうしようか。いつもみたいに、その場を散歩してみようか。と思いながらその場で立ち竦んでいると、「あら、見ない顔ね」と、凛とした声の持ち主に話しかけられる。虚を突かれ、わたしは腰が抜けるほどに驚いた。


「あらあら、驚かなくていいのよ」


 足に力が入らずにしゃがみこんでいると、とんっと肩に手が置かれる。

 敵意はなさそうでほっと胸を撫で下ろし、そろぅっと振り返ると、そこには黒髪で陶磁器のような肌を持つ少女が立っていた。

 見たことのない紺色の上着と、驚くほどに短いスカートをまとった彼女は、にぃっと笑ってみせた。「久しぶりね!」と明るい声で挨拶される。


「『久しぶり』? あ、あの、初めまして、だと思うのですが」


 そう答えると、少女はきょとんとした顔で首を傾げる。不思議なことに初めて見た顔のはずなのに、なぜか既視感がよぎる。誰だろう、この人は。

 よろける足に力をこめて立ち上がろうとすると、彼女はわたしの手をとって、「ほい!」という元気そうな掛け声で助けてくれた。


「あ、あの、ありがとうございます。ところで、あなたは誰?」

「私? 私はね……貴方が天寿を全うした時に教えてあげる。」


 彼女は肩甲骨より少し下の長さの黒い髪を靡かせ、人差し指を唇に当てた。さまになる仕草に憧れすら感じてしまう。ほうっと見惚れていると、時計塔の上の方から声が降り注いできた。


「あなたっていつも意地悪。そんなことを言わずとも、教えてあげればいいのに」


 少し物憂げな物言いをする声主を見つけると、驚いたことに目の前にいる彼女と瓜二つの顔をしているではないか。違う点といえば、髪と瞳の色、表情と服装くらいだろう。

 目の前にいる黒髪の彼女は、明朗快活な口調といきいきとした表情をしており、上の歯車に座っている緑髪の彼女は静かな棒読み口調でも物悲しげな表情をしている。二人の雰囲気は対照的といって過言ではない。


「『深く問わば、ヒントを与える』、この原則を忘れたの?

ここはね、ユングでいうところの『』に少し似たもの――といっても、あなたの時代ではユングは産まれたばかりね。

つまり、ここは時間と魂の交差する場所。この世でも、あの世でもない。実在でも、幻でもない」


 エキゾチックな情調で語る緑髪の彼女はそこまで言うと、ふぅっと息を吐いて、真横に閉じ込められた月を見た。


「ち、ちょっとわたしには難しくてよく分からない」


 小声でそう答えると、目の前の彼女はニコニコ笑いながら、


「いつか分かる時が来るよ! 私もあなたに教えてもらったんだから、アリシア」とわたしの名前を付け加えて言った。


「へ!? なんで、わたしの名前を知って……?」


 どうしてこの人はわたしの名前を知っているのだろう。

 先程も「久しぶり」と言ってきたことも気になって仕方がない。黒髪の彼女と緑髪の彼女を交互に見やり、頭を抱え込む。

 なんだか……不気味だ。

 そうしていると緑髪の彼女は神妙な面持ちでゆっくりこちらへ視線をやると、少し強い口調でわたしに言葉をかけた。


「アリシア、あなたはこのままだといけないわ。昔会ったあなたとまるで別人ね。

あなたは生来の臆病者で人形そのものだと、自分で決めつけていない? 

いいえ、それは大きな間違いよ」


 怖気づいてスカートの裾を握りしめて後退していると、目の前の彼女は私の肩に両手を置いた。明るい表情だった黒髪の彼女は、含み笑いを零しながら、


「あなたは大切な歯車なのよ。あなたは私、私はあなた。さあ――」


 と言うと、とんと軽く肩を押した。ふわりとした浮遊感が全身を襲い、血の気が引く。


「あ……!」


 落ちている、と気づいた時には既に遅し。

 わたしはガチャガチャと動く歯車の隙間に落ちていった。


「いやぁぁぁ!!」


 わたしを押した黒髪の彼女――笑っている。

 上で見守っていた緑髪の彼女――嗤っている。

 二人は最後に、口をそろえて呪文のように唱えた。


 ”"Mors certa, hora incerta.モルス ケルタ, ホーラ インケルタ ”"


 ラテン語のそれは、つまりはこういう意味だった。

 

 なんの暗示か分からないまま、夢の世界からフェードアウトした。



 ハッと瞼を持ち上げると、訝しげにこちらを見てくる通行人と目が合う。どのくらいの間、目を閉じて物思いに耽っていたのだろう。

 羞恥心を隠すように、そそくさと早歩きであてもなくその場を去る。


「モルス ケルタ、ホーラ インケルタ……。『死は確実、時は不確実』、か」


 パリ五区で育ったわたしは、簡単なラテン語は理解できる。

 パリ五区は"Quartier latinカルチェ ラタン(ラテン語の地区)"と呼ばれる学生街で、ラテン語を耳にする機会が多いからだ。


 あの二人は、わたしになにを伝えたかったのだろう?

 そう逡巡しつつ、虚ろな目でセーヌ川の橋を渡る。ぶつぶつと呪文のように呟きながら歩いていると、気がついた時には日が暮れかかっていた。

地面から視線を上げると人通りが少なくなっており、ヒヤリとした感覚が全身を襲う。


「い、いけない! 早く帰らないと」


 ――はて、ここはどこだろう?

 首が折れそうなくらいに回しながらあたりを確認すると、大理石の床にガラス屋根、横に並ぶ店々からここが商店街パサージュだとわかった。

 次に見つけたものが、"Passage Choiseulパサージュ ショワソル"という文字である。

 ああ、プティ・シャン通りに面したこのパサージュに迷いこんでいたようだ。


「オペラ通りに戻らないと!」


 少し廃れたパサージュは"FERMEフェルメ(閉店)"と書かれた紙が多く、パサージュ入り口から入ってきた冷風がひゅぅっと頬や足をすり抜ける。

 はっきり言うと、すごく不気味である。

 踵を返そうとしたその瞬間、真横からカタンという物音が聞こえた。


「ひぃ!」


 いつの間にかわたししかいなくなったパサージュ。

 心臓が一瞬だけ止まったものの、慌ててまた鼓動を打ち始める。

強張った体を酷使するように冷たくなった指先に力を込め、勢いよく横へ顔を向けた。するとそこには、ショーウィンドウ越しに人がいた。


「ひ、ひと!? あ、あれ、違う……?」


 一瞬人かと思ったが、よく見るとそれは誤りであることに気づく。

 それは、見たことがないほど精緻につくりこまれた少年型の等身大ビスクドールであった。

 ガラス屋根から寂しげに入り込む夕陽に照らされたその肌は透き通るように白い。ブロンドの金糸は一本一本細く、夕陽と呼応してまばゆく輝いていた。

 そして、わたしにとっては直視するのも面映くなるほどの整った顔。

なぜか右目のドールアイはないものの、左目の澄んだスカイブルーのドールアイが心を惹きつけるほどに美しくて、そのコントラストさえ芸術といえよう。


(え、えっと人間ではないし、だからといってビスクドールにしては生々しいし)


 恐怖よりも動揺がまさり、とりあえず人間と対面しているような気持ちでこう言った。

 "Enchantéeはじめまして"

 それは初対面の人間へ挨拶する気持ちとなんら変わりがなかった。

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