入院

 目が覚めると、薄い灰色のそっけない天井。カーテンを滑らせるレールが一人分のスペースを囲っている。ああ、病院か。と息を吐いた。

目を覚ましたら、あの変な医師達が取り囲んだ手術台の上。って展開でなかった事にひとまず安心する。


「あ、目が覚めましたか?」


 と鈴の鳴るような声がして、声の主がさらりと流れる黒髪を耳にかけながら、にこやかな表情で覗き込んできた。

瞬間、俺の心臓は爆音で高鳴る。

めっちゃ可愛い!思わずそう叫びそうになるほど。


「喉渇いてますよね、お水です、どうぞ。」


 俺が声をなくしているのをそう受け取って、ミネラルウォーターのペットボトルに、ストローを刺して差し出してくれる天使。

今までの人生でこんなに水をうまいと思った事はない。もう変な医師の事は頭から吹っ飛んでいた。


「血圧計らせてもらいますね。」


 と声をかけながら色の白い綺麗な手で俺の腕をとり、バンドを巻き付ける。

今計られたらおかしな数値出るんじゃないか。


「意識が朦朧としたり、どこか痛かったりしませんか?」


 心配そうな表情を作って質問してくれる看護婦さんに、俺は首を横に振って伝える。

ついでに目線を彼女の足元に落とす。足長いな。細すぎずいい具合に肉がついてると思う。ズボンの上からだから定かではないが、なんかそんな感じがする。


「それは良かったです。じゃあ、先生をお呼びしますね。」


 計り終えて、バンドを外しながら言う声に、どの先生だ。という疑問が脳裏をよぎったが、それより看護婦さんが腕を触ってくれている事に集中したい。

あの時は大丈夫と思っていたけど、本当は錯乱状態だったのかもしれない。きっとそうだ。

病室はまともだし、思った通り大きい病院だし。別に悪い評判を聞いたことも無い普通の総合病院だ。良い噂もないけど。そもそも自宅から車で15分そこらで着ける距離に住んでいて、この病院の事を話しているような人に出くわした事自体が無いんだが。


「お母様は着替えを取りに行ってくれています。」


 目が覚めて突然病院では心細いだろうし、多分知りたいだろう。と、親切に教えてくれる看護婦さん。


「着替え?」


「先生から後で説明があるとは思うんですけど、今日一日検査入院が決まっているんです。頭を打っているのもあって、大事を見た方がいいだろうって。」


 何故か胸がざわついた。これは看護婦さんがどうこうとかじゃなくて、原因不明の不安だ。あの変な夢か何かで受けた不安感が拭いきれていないせいだろう、とは思う。


「うん、数値正常ですね。」


 と看護婦さんが最初と同じ曇りの無い笑顔で言って、腕の血圧計を外す。思わず胸元に目がいって、名札に書かれている名前を読んだ。


「城崎 雫、さん?」


 うっかり声に出してしまった自分自身にびっくりするが、当然、雫さんはそれ以上に驚いている。


「あ、すいません。」

「いえ、そんな。名前を覚えてもらうために名札着けてるんですから、謝る事ではないですよ。」


 と、はにかみながら答えてくれる。


「私、今日からこちらの病院でお世話になる事になったんです。澤口さんは問題なければ明日には退院なので、短い間にはなりますが、よろしくお願いしますね。」


 そういって雫さんは軽くお辞儀して、採血の為の準備をする様子で、カートの方を向いてしまった。

大学入ってから女子の目線気にして最近茶髪にした程度で、大してオシャレでも無ければ、美少年ってわけでもない俺が突然名札読み上げたんじゃ、内心気持ち悪がられていたりするんじゃないか。と心配になるが、後ろを向いていては表情が読み取れない。馬鹿なことした。と気落ちするが今更だ。いっそ開き直ってガンガン質問してしまった方がいいんじゃないか。

そう思って顔をあげた時、目の端で黒い巻き毛が揺れていた。


「悪い事は言わないけど、その恋愛は上手くいかないと思うなー。」


 と、白衣を着た俺とあまり変わらない年齢に見える男が言った。癖の強い黒髪を方々に散らせてはいるが、顔は腹立たしいくらいのイケメンだ。切れ長で涼し気な目元に藍色の眼鏡、健康的な範囲の肌の白さが一層二枚目の雰囲気を醸し出している。


「うちのナースは日替わりだから、無謀な挑戦するんなら今日中にしないとダメだよ。」


 何を意味の分からないことを。ってか失礼だな。と顔をしかめたのと同時に思い出した。

あー!コイツ!ストレッチャーの前を走ってた比較的若かった医者だ!

思い出した勢いでガタッと音を立てて立ち上がりかけ、ベッドについてるテーブルにしたたか膝を打ち付けた。


「元気そうだね。無事に明日退院できるんじゃないかな。」


 俺の動揺を何事もなかったかのように流して、そう言い切ると、カルテのファイルを早々にパタと閉じた。やはり錯乱状態だったのか。と思い直し、腰を落ち着ける。確か記憶の中のコイツは俺を長期入院にすると宣言していた医者だ。今あっさり明日退院宣言している。


「じゃあ、夜10時に病院の全員が参加するゲームがあるから、9時半ごろには迎えに来るよ。」

「は?何言ってんの?」


 今度こそ目を見開いて、搬送時に言ってやりたかったセリフを言った。が、医者は雫さんに指示をだしていて聞いちゃいなかった。


「ゲームとかする歳でもないんで、俺は不参加で。」


 聞こえるよう声を張ると、医者は振り返って意味深な笑みを浮かべた。


「強制参加なんだよ。特に僕と城崎さんと君はね。」


 唐突に名前を挙げられて、雫さんもわけがわからない様子でポカンとしている。


「それじゃあ、9時半過ぎに全員ここに集合ね。」


 とだけ言って、呼び止める俺を無視して医者は病室を後にした。

すかさず自分のベッドについているネームプレートの担当医欄を見る。


『担当医:常坂 譲』

「つねさか?」


 俺の独り言に、


「ときさか ゆずる先生です。」


 とクスッと笑いながら雫さんが答えた。手には俺の苦手な注射器。それでも彼女が持っているとそれほど嫌じゃないのは、最早脳のどこかが機能していない可能性を示していると思う。


「若いのに割と有名な名医なんですよ。ちょっと変わってますけど。」


 笑顔で話す雫さんの声のトーンはさっきより少し明るく感じる。

医者=高収入でイケメンで腕も確か。女子なら食いつかない方がおかしい優良物件だ。

俺の不満げな視線に気づいて雫さんが慌てて口元を押えた。


「ごめんなさい、澤口さんさっきまでまだ少しぼんやりしてる様子だったのに、先生が来てから途端に元気になったから、ちょっと面白くて。」


 笑っている原因が俺だった事にちょっと心が浮つく。


「夜のゲームって何でしょうね?私も強制参加って言ってましたし。」


 常坂の発言は始終意味不明だったが、雫さんとの共通の話題が出来、会話のきっかけになったのには感謝だ。日替わりだろうが、どちらにしろ明日退院する以上、残されたアピール時間は長くない。普段の自分は進んで女子に話しかけたり出来ないタイプだが、明日には退院なんだ。恥はかき捨てるつもりでいかないと。

常坂と違ってイケメンではない以上、俺が勝負できるのはなりふり構わない押しの強さくらいだろう。こんな幾度もない機会でさえ出し惜しんでいるようでどうする。と自尊心に言い聞かせる。


「俺は、また病院に来るような事があった時に、城崎さんに会いたいから、日替わりっていうのの方が気になりましたけど。」


 聞いて、動きを止めて俺を見る雫さん。攻めすぎな発言だったか。

流れ通りに、何のゲームでしょうねーと世間話を続けるべきだったか。と内心焦る。


「私もそれ不思議に思ってたんですよ。この病院、余所に比べてすごく待遇が良いんですけど、皆一日で移動してしまうらしくて。」


 え、ほんとの話なの?とぽかんと口を開けて雫さんを見るが、彼女の表情は真面目そのもので、冗談を言っているような様子は見て取れない。


「じゃあ、この病院って今ナース城崎さん以外の人も初日なの?」

「いえ、そもそもナースが私しかいないんです。」

「はぁ?」


 あまりに常軌を逸したこの病院の管理体制に、思わず遠慮会釈ない訊き返し方をしてしまった。

驚いてびくっと肩を竦ませた雫さんに、しまった。と苦い顔をするが、それでも俄かには信じがたい発言内容だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る