地下鉄大空洞

 東京の地下には蜘蛛の巣のように張り巡らされた地下鉄がある。


 だがさらにその下に、蟻の巣のように深々と掘り下げられた地下鉄道があるのをご存知だろうか。人目を避け、ひたすらに地下深くに広がる地下道をひとはこう呼ぶ。


 地下鉄大空洞。


 およそ東京都内全域にまで広がるとされる地下道だ。あまりに眉唾な話からほとんどのひとは噂や怪談の類いだとバカにするが、地下鉄大空洞は存在する。


 なぜなら今、私は件の地下道のなかにいるからだ。


 ライト付きのヘルメットを僅かに動かし、頭に心地の良い位置に移動させる。鞄から水筒を出し、一口呑んだあと、再び鉄道へと視線を戻した。


 ライトの光の先には、延々と暗闇が続いている。


 もうかれこれ四日ほどは歩いただろうか。その広大さには舌を巻かざるを得ない。


 かつて多くの鉄道探検家たちが、この超々地下鉄道に挑み、そして行方知れずとなった。


 子どもの頃にいなくなった、私の父もそのひとりだ。


 この地下鉄道が何時誰に造られたのかは、誰も知らない。


 第二次世界大戦時に政府の避難所として造られたとも軍が秘密裏に軍事力を増強するためだとも、あるいは地球外の生命体が基地として造ったともいわれる。


 どれも荒唐無稽でほら話の域を出ない代物ばかりだ。


 そしてこの地下鉄道が何故造られたのかこそ、鉄道探検家たちを最も魅了する謎のひとつでもある。その謎を解き明かすために彼らはこの地下に挑み、そして帰らぬ人となった。地上に戻って来ない彼らが、実際にどういう状況にあるのかはわからない。ほんとうに死んだのかもしれないし、実は生きていて地底人に囚われの身となっているのかもしれない。


 いま自分が考えたことに笑いがこみ上げた。地底人とは我ながらセンスがない。


 そんなものがいれば、もっと早くそいつらは地上の人間とコンタクトしに来るだろう。


 そう思いながら、私は再び足を動かした。だがさすがに体力が減ってきているのか、体は重く、肩に食い込むバッグの肩紐からはより一層の痛みを感じるようになってきた。


 さすがに四日間も地下深くを歩くとなれば疲労も溜まってくる。いまが昼なのか夜なのかも周囲の環境からは量れないので、時間感覚が狂い、精神的な疲れも大きくなる。


 そろそろ引き際だろう。


 一端地上に戻り、休息を取ったあと、またこの地下道に挑むことにしよう。


 私は地下道を引き返そうと踵を返すが、その瞬間、暗闇に覆われた地下道に強い光が点った。私は光の方向に振り返る。いつからいたのか、そこには巨大なトロッコを列車に改造したような不出来な乗り物が存在した。


 緊張と恐怖に、私は唾を呑んだ。


 この場所が、なぜ地下大空洞ではなく、地下鉄大空洞と呼ばれるのか。


 その由縁が、あのトロッコ列車の存在だった。


 何処からともなく現れ、見たものを攫うというトロッコ列車。


 ……まさかほんとうに実在したとは。


 だが伝説が正しければ、このトロッコ列車を見てしまった私は地上には二度と帰れないということになる。


 命運、ここに尽きたというわけだ。


 しかし、そんな根も葉もつかない伝説に屈する私ではない。


 命ある限り、私は生還のための努力をするつもりだった。


 私はすぐさまトロッコ列車とは逆方向に体の向きを変えて走り出した。


 だがそんな私を嘲笑うが如く、トロッコ列車は凄まじい速度で私に突進してきた。


 トロッコ列車に取り付けられたライトが私の全身を包むと、私の意識はそこで途切れた。


 次に目を開いた時、私は初めて見たもののあまりの衝撃に思考が出来なかった。


 全身を縄で縛られた私の目の前には、ひとりの男の姿があった。全身毛むくじゃらでまるで原始人のような様相であったが、その顔には見覚えがあった。


「……親父?」


 口から漏れた言葉に、自分自身驚いた。


 そう。確かに目の前の毛むくじゃらな男は、私の父の特徴を持っていたのだ。


 子どもの頃に別れた父。再会するのは十数年ぶりということになる。だが今はとても再会を喜べる状況ではなかった。目の前の父親は毛むくじゃらの原始人になっているし、周りを見てみると父と似たような姿をした男たちが幾人もいる。なかには女もいただろう。恐らく過去に行方不明になった鉄道探検家たちだ。


 そして何より状況を困惑させているのは、私が縛られている場所そのものだった。

 深い暗闇に呑まれている地下鉄大空洞が明かりに包まれているのだ。電気があるわけでもない。蝋の火があるわけでもない。ただ空洞の天井が得たいの知れない力で光を得ているようであった。そしてこの空間のそこかしこに咲き乱れた蓮の花。


 ここはまるで仏教で言う所の涅槃のような場所だったのだ。


 不意に甘ったるい花の香りが鼻孔をくすぐった。その匂いを感じ取った途端、私の意識は急激に薄められた。理性を剥ぎ取られ本能のみが表出しようとしているような感覚だった。


 これは不味い、と思った。


 きっとここにいる人たちがおかしくなったのは、この花の匂いをかいだからだ。


 だが気づいた所で、今の私に何が出来るだろうか。両手足は縛られ、周囲には毛むくじゃらの人間たち。どうやってこの場所を出れば良いのかもわからない。


 私の意識はカルピスのように薄められていき、やがて思考を奪われていった。

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