秘密裏譚

Drop。

第1話 御目見え

 その場所は、広い敷地に、池や竹林、枯山水の庭を有し、大きな屋敷を五つ、構えていた。そのうちの一つは、夜ごとに艶やかな明かりを灯し、飲めや唄えやの宴が開かれている。屋敷は、気位の高い太夫の棲む遊郭のようでありながら、凛とした気品に満ちていた。

 屋敷の部屋の一つに、絢爛な着物に身を包んだ女が座っていた。恐ろしいほどに美しく、座っているだけで一幅の絵になる女だ。周りはかの女の白粉を塗られた顔に、見る者の目を惹きつける丹を引く稚児が囲んでいる。

「舞桐様、ご準備はよろしいでしょうか」

 そこに、別の稚児が現れて、舞女に声をかける。舞女は、麗しくもあかいくちびるをきゅっと吊り上げ、青いほどに白い瞳を細めて、ゆったりと頷いた。それを合図に、周りを囲んでいた稚児が心得たように身を引く。舞女は品をたっぷりと含んで立ち上がると、声をかけた稚児の元へ歩を進める。稚児は女を見上げてふわりと笑うと、一礼をして、部屋の外の長い廊下をしずしずと歩き始めた。舞女もそれに続く。

 廊下からは、夜の帳が下りた空と、完璧な手入れの施された庭、涼やかな池が見渡せた。舞女は遠い目をして、屋敷の外に見える山を見つめた。舞女には、近くに見える庭も、池も、目に入らないのであろう。女はまた、ふと、口元に笑みを滲ませた。そうして、艶やかで気品ある遊女には似つかわしくない仕草でもって、こきり、と首を鳴らしたのである。

 「本日は、よくおいでくださいました。ここへの道は分かりにくかったでしょう?」

 現代の日本では珍しい、袴装束に身を包んだ男が、鷹揚な態度で目の前に座るスーツの男に声をかけた。屋敷の一室である。スーツの男はひたすらに緊張した様子で、ハ、と頭を下げた。

 「私のようなものがお招きいただける世界でないことは百も承知しております。この度は、慈悲をいただき、誠に恐縮でございます」

 袴の男はホホホ、と笑って首を振った。

 「あなた様は今や、表の日本を背負って立つ御方。お招きするのは当然のことでございますとも。あなた様とて、ご自分の背を預ける機関をご覧になりたかったでしょう」

 袴の男は、部屋から見える池に目をやって微笑んだ。

 「今に、我らが誇る最高の舞手が参ります。それまで、あの池や、庭が、貴方のお目を楽しませるに足るかどうか…」

 スーツの男は慌てて庭へと目をやり、思いつく限りの賛辞を並べる。袴の男は愉快そうに笑うと、傍らに置いてあった杯を傾けた。

 と、失礼します、と鈴のような声がした。

 「舞桐さまをお連れしました」

 「応、おいで」

 閉じられていた襖が音もなく開き、そこに、先ほどの美が、立っていた。

 「おお…!」

 スーツの男が息を飲む。袴の男はクッ、と喉の奥で笑うと、女に向かって手招きをした。

 「こちらが舞桐、…我らが日本の誇る最上の舞手。ここへいらしたからにはこの舞を、ゆるりと堪能してお行きなさい」

 舞桐は深々と礼をすると、着物の重さを感じさせない軽やかさで、舞の型を

 舞は流れるように進む。手首や足首に鈴が取り付けられているのか、歩を踏むたび、手をしならせるたび、シャン、と耳を楽しませる音が鳴る。スーツの男はうっとりとその舞に見惚れ、ほうとため息をつく。

 「…まるで、部屋の空気ごと変わったような心地がします」

 その言葉を聞いて、女は悟られぬように、ふと笑った。

 事実、その通りであったからだ。

 舞桐の舞は、神楽を本流としたものであり、その型の一つ一つに意味がある。そこに、呼吸と着物、化粧にまで意味を持たせるため、舞桐はその舞踊を『魔術』にまで高めたともいえる。袴の男も目を細めると、ふむ、と頷いた。スーツの男の指摘が的確であることを知っているのだ。

 『表』には許されない術を、気取る才があるのだと。

 と、その空気を壊すかのように大きな音が鳴り響いた。

 鐘である。

 「…敵襲か」

 袴の男は立ち上がると、厳しい目をして外を見やった。立ち上がった男の腰元には、長物が挟まれている。刀である。

 「失敬、大尽殿」

 スーツの男に声をかけるが、袴の男を見上げるその瞳は、未だ舞に酩酊していた。男は苦笑すると舞桐に声をかける。

 「舞桐様は守護の舞を成して、大尽殿をお守りくださいませ。私は状況を確認してまいります」

 袴の男は、舞桐に極めて丁寧な言葉づかいでもって断ると、部屋を出た。舞桐は微笑むと、シャン、と一歩を踏んだ。その一歩でもって、部屋の空気が、清冽なものへと変化した。

 舞が成ったのである。

 「…終わって、しまったのですか?」

 とろりと蕩けた瞳で自らを観る男に、舞桐は微笑みを返した。

 『はじまったのさ』

 彼はそう口の形で囁くと背を向け、静かに部屋を出る。入れ替わりに可愛らしい稚児が二、三人入ってきて、彼の手を握った。

 「ぼくたちと遊んで、待っていましょう?お大尽さま!」

 可愛らしい顔の稚児は、ぼく、と自称した。


 「戦況は」

 袴の男は櫓の上にいた。鐘の傍らに立つ男は首を振る。

 「正体がわかりません、何者やら…しかし、物理的な攻撃ではありません、見張り番が悉く倒れております」

 袴の男はふむ、と一瞬考えたが、すぐに頷いた。

 「我々が術にて後手を取らされるとなれば、間違いなく中国の術者たちであろう。櫓の者は全員で守護に回れ、何としても大尽殿と宮はお守りせねばならん。舎の者は…ええい、役に立たんか。寮の者で太刀打ちできる相手では無いだろう、」

 爪をカリ、と噛んで唸ると、慣れた手つきで鐘を幾度か、打った。

 「ここは頼んだぞ。私は一度宮へ戻らなければ…」

 「…あの方に助力を頼んではいかがですか、史上最低の、」

 その二つ名を聞いた瞬間、男はひどく顔をしかめた。

 「誰が、あんな男に頼るものか。そもそも、ここへはいないはずの男の名を、出すでない。あんな男に頼らずとも、我々は――」

 そう、男が言った刹那であった。

 見張りの失せた屋敷の周りに、ぐるり、と。

 針の山が、生えてきた。

 ヒッ、と鐘番は喉を引きつらせる。男は眉根をきつく寄せた。

 「…なぜ、お前がいるのだ。史上最低よ」


 屋敷の、別の一室。

 着流しを纏った男が、目を軽く閉じて、部屋の中央に座していた。

 男の雰囲気は、舞桐の艶美でも、袴の男の優雅でも無かった。腕も体も逞しい男であるが、まるで手折れそうな儚さを背負っている。腰元には、使い込んで色の染みた鞘が収まっており、先ほどの男とは違い、その刀を使い込んでいることが見て取れた。最も、男にそう言えば、「この体が何より、錆びている」と笑うであろう。

 その部屋の襖が、すらりと開いた。

 そこに立っていたのは、黒のボディスーツに身を包んだ、口紅を引いた男であった。服の上から見ても、しなやかで、使い込んだ筋肉を持っていることが分かる。男は目を開いて彼を認めると、神前かんざき、と呼びかけた。

 「ああ、遅くなったね。ちょうど、仕事が入っていたものだから」

 「大丈夫だ。さして待ってはいない、俺も治療が済んだところだ」

 「治療?」

 神前と呼ばれた男は眉を上げ、そのあと呵々と笑った。

 「来てるのか、あいつ。ならここは任せていいねぇ」

 男も音を立てず立ち上がると、神前の隣に立ち並んだ。

 「見当は、付いているんだろう。俺たちでそっちを叩かなければ、」

 神前は目を細めた。隣に立つ男を見やると、頭をぐしゃぐしゃとかき撫でる。

 「何をする、」

 「この日本に、その刀を預けてくれること感謝するよ、鎬」

 鎬と呼ばれた剣士は深いため息をつくと、首を振った。

 「俺が剣なら鞘はここだと、だいぶん前から決まっている」


 ところ変わって、屋敷の屋上である。

 立派な屋敷に見合う、黒々と艶めきそうな瓦が贅沢に敷かれたその屋根に、一人の男が、不遜にも胡坐をかいていた。

 裸足である。

 白い狩衣をゆったりと着こなした男で、口許にはうすく、笑みが滲む。細く滑らかな指先では、朱でもって呪の書かれた札を数枚、弄んでいた。

 その目は屋敷の遠くを見据えていた。彼の目には、その光景は静かで趣深い夜景としてではなく、どろどろとどす黒い色を帯びた呪詛のうねりとして、見えていた。

 男は、さて、と独り言ちると、札の一枚に唇を寄せ、何事かを囁きかける。

 途端、その札は一羽の烏と変じ、ガァ、と鳴いた。

 「頼みますよ、私はここを動けない…。今の陰陽寮の人員では、この呪いはいなしきれませんからね」

 烏はどこか男に似通った不遜でもって首を傾けると、鋭い羽音を立てながら飛び去った。男はその烏を目で追うと、もう一度、さて、と頷いて立ち上がった。ムッとする魔力を帯びた風が頬を撫でる。男は、唇を舐めた。

 「…確かに、陰陽道の先駆は其方でしょう。ですが、何も先達ばかりに譲らねばならないという法はありません」

 どこか寂しそうに、それでも微笑んで彼は呟くと、滑らかに印を結んで、札を放った。

 「何百人の呪詛であろうと、僕は破れませんよ」

 

 「で、敵の本丸はどこなんだ」

 黒い車に乗り込みながら、鎬が問う。

 「恐らくは屋敷の裏山だね。行ってみないことには詳しくはわからないけど…、分析は不得意なんだよ」

 渋い顔で答える神前に、鎬は唸る。肉弾戦に持ち込むより勝ち筋の無い二人である。それも、術者相手に刀が届くほどの近距離に行かねばならないことを考えれば、なるべく正確な分析が、どうしても欲しい。

 「行けばわかるさ、行けば」

 軽く笑って車のエンジンをかける神前を制止しようとした瞬間、コツコツと、車のウィンドウを何かが叩いた。

 烏である。

 ウィンドウのハンドルを回して開けると、その烏は軽やかに車内に入り込んで、

 「さぁ、行きましょう!敵の総数五十あまり、周りには幾多のトラップがございますよ!」

 と朗々と宣言したのである。

 「小野、」

 鎬が呻くように声を上げる傍ら、神前はくつくつと笑った。そんな笑みもことごとく艶然として見えるのは、彼の才と言ってよい。

 「久々じゃないか。何が楽しくてそんな恰好を?」

 「おや、師匠。いたんですか?今屋敷を守るのに必死でしてね…後続の育ちが悪いものですから」

 のんびりとした口調の烏に気を害することもなく、神前は車を滑らせた。

 「敵の詳細は」

 鎬が問うと、烏は咳払いするように鳴いた後、淀みなく喋り出した。

 「敵は中国の術者軍団、帝だけでは襲撃のうまみもありませんが、本日表の総理大臣殿がおいでましになりましたので、これを機会にどさくさに紛れてまさに闇討ちを仕掛けてきたといったところでしょうか。向こう様も近頃は他の隣接国に押されっぱなしでございますから…だからと言ってこちらに八つ当たりとは、良いご身分で。確かにその文化、歴史、陰陽道を生み出しなさったその功績は評価に値しますが、それはそれ。広義の弟子としては十分に育ったところをお見せして師に報いたいところでございます。とはいえ、私が屋敷を離れた瞬間に屋敷の内部は呪詛に満たされましょうから、本丸の排除は師匠と鎬にお願いをするしか無いということでございまして。道案内くらいにはなればと烏を送り申したわけでございます」

 神前は幾度か頷くと、ハンドルを指でトントンと叩いた。

 「孝明」

 「はい、師匠」

 「山へ着いたら、お前は篠崎についていておやり。俺は一応魔力を読める、幾らか対処もできるからね」

 「承知しました、夜目はきかないけれど、本丸へ連れて行ってあげますよ、鎬」

 篠崎鎬しのざきしのぎは、重いため息をつくとシートへと体を沈めた。

 「ぺちゃくちゃ喋るなよ」

 神前は微笑みながら言葉を継ぐ。

 「一応、到着したら気休め程度の護りの舞を奉じてあげよう」

 「気休めとはご謙遜を。寄せ集めの術者であれば簡単な呪詛など効かなくなるでしょう」

 烏がけたけたと笑う。神前は楽し気に笑った。

 「さてね。この恰好じゃ、舞の効用も半減しているだろうさ」


 『山に侵入者?』

 男は、眉を寄せた。

 数人がかりで山を取り囲んだ守りの布陣が、崩されたというのか?

 『た、大変です、その通りです!侵入者の名前も判明しました…!』

 『誰だ、何者だ!』

 怒鳴るように問うと、伝令の男はごくり、と唾を呑んだ。

 『申し上げます。侵入者は、「史上最悪・神前一」、「史上最強・篠崎鎬」、…そして、「史上最低・小野孝明」の三名です』

 『…まさか、そんな。なぜ、その三人が稼働している…?』

 その名前は、術者たちの本丸を凍てつかせるに充分足りる名前であった。


 山の麓である。口々に呪を唱え、喚く術者たちに笑むと、不可思議なステップを踏みつつ彼らに近づく。彼の歩を前に、あらゆる呪は霧消していった。ヒッ、と上がる悲鳴に笑みを深めると、術者のうちの一人の胸倉を掴んで、彼は囁いた。

 『ウチを攻め落とそうなんて、易く考えるんじゃあ無いよ』

 その鳩尾に、躊躇いなく、神楽の加護を受けた掌底が、

 

 その、反対側では。

 『怯むな、史上最強は確かに強い!しかし呪いへの体制は低いはずだ!ありったけの札を叩き込め!』

 山に響く怒号に、山鳥たちがザッと飛び立つ。やれやれ、と言わんばかりの烏が彼の肩から飛び立つと、彼は困ったように笑った。

 彼の目にも見える呪詛の塊。普通の人間であれば、その距離にあっても卒倒してしまいそうなほどの濃密な魔力を目の前にしてなお、彼は、ザクリ、と一歩を踏み出した。

 呪詛が、震える。

 怯えているのだ。目の前に立つ男が、この呪詛に慄かないことに、怯えている。

 「…舐めて、くれる」

 彼は吐息をつくと、腰を落とす。そして、次の瞬間、弾かれたように走り出した。

 躊躇いなく呪詛を突っ切ると、真っすぐに司令塔と思しき術者の元へと向かい、スラリと抜刀した。

 「確かに俺は、あの日、呪詛に倒れた」

 その刀身を術者の喉元にヒタリと当てて、彼は続ける。

 「残念だが、お前らの呪詛では、…あいつを、破れない」

 奇しくも。

 その台詞はまるで、屋敷の屋上で吐き出されたものに似ていた。


 「さてさて、そろそろ終わるころですかね」

 繰り返し屋敷を襲う呪詛を全ていなした男は、のんびりと呟いて伸びをした。

 本来、あり得ない。

 大勢の術者が、その技術の粋を集め、打ち倒さんとした呪詛をたった一人で抑えただけでも驚嘆に値するが、彼は、使い魔の遠隔操作までをこなしていた。

 当代一、と囁かれた術者は、楽しそうに、笑った。

 「さて、どうでしょう。そろそろ僕を討たなくちゃ、勝ち筋なんて無くなりますよ?」

 そう、彼が声を投げると、屋根の上にもう一人分の人影が現れた。

 黒装束を身に纏った男である。

 「…呪詛は陽動のつもりでしたか。貴方は帝か、大尽か、どちらかの首を持ち帰らねばならなかったのでは?それとも、」

 黒装束の男は、静かに身構える。その手の内に、鈍く光るものが握られていることを見て取って、彼は笑った。

 「それとも、三年前のあの日、日本を追放されたはずの僕の首を持ち帰りたくなりましたか」

 その言葉は、最後まで黒装束には届かなかったと見える。

 姿が、消えていた。

 彼は一つ、息をつくと、札を懐にしまった。

 どころか、自らの周りに漂わせていた魔力ごと、消し去ったのだ。

 黒装束の男はほくそ笑んだ。いかな優秀な術者であろうと、油断だけはしてはならないものだ。そして男には、自信があった。一生をかけて研ぎに研いだ自らの刃は、必ず、あの男の首を掻き切るのに足る、と。

 『悪く、思うなよ』

 小さく、囁いて、男はその刃を、彼に閃かせた。

 彼は、これを、

 

 『な、』

 必中の一撃との自負があった男は、うめき声をあげた。彼は目を細める。

 「…だから、生ぬるいんですよ。僕が陰陽寮の出身だと、誰が言いました?」

 彼は困ったように笑うと、衒い無く、男に一歩踏み出した。男は刃を手にしたまま、それでも、彼の圧力に押し負けたかのように、一歩、後すざる。

 「僕は元々、神楽櫓に招かれた弟子でした。今頃、櫓の舞手になっているはずの人間なんですよ。この術は、私が師匠に背いて勝手に身に付けたもの。…よって、

 言いながら、ゆっくりと、一歩ずつ、男との距離を詰めていく。男は既に戦意を喪失していた。それは、体術での腕の差を本能的に感じ取っての恐怖からであった。

 「残念です、あなたには故郷があり、家族がいるのでしょう」

 彼は残念そうに首を振ると、男の襟ぐりを掴んで、立ち上がらせた。そして、でもね、と笑った。

 「僕たちには、故郷も家族も無いんです、…貴方がたには、自らの一切を捧げて技芸を究める覚悟が、おありでしたか…?」

 彼の掌底が、男の鳩尾に抉り込む。

 その型は奇しくも、山で神楽舞が打ち込んで見せたものに似ていた。


 【裏中国の術者、暗殺者をもってして行われた裏日本襲撃計画は、以上を以って鎮圧された。敵の総数五十三に対し、実働した裏日本側の人員は二人、と奏上された。たった二時間足らずの出来事であった。収穫として、敵方の暗殺者一人を捕縛。山へこもっていた術者たちは、残念ながら皆絶命していたという。帝、総理大尽両名に一切の怪我は無かった。ひとえに、神楽舞の舞桐様のお力によるものと推察される。

以上で、襲撃事件の報告を終える。】

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