第18話「長い長い夜へ」

 巨大な夕日が廃墟を染めて、棄てられし遺都いとが闇に飲み込まれようとしていた。

 その光景に目を細めて、五百雀千雪イオジャクチユキは冷たくなり始めた風に黒髪を抑える。彼女を甲板に乗せた巨大な高高度巡航輸送艦こうこうどじゅんこうゆそうかん羅臼らうすが、ゆっくりと浮上を始める。夜を待たずに、再び閉鎖されたかつての皇都こうとに攻め入ろうというのだ。

 セラフ級パラレイド、サマエルの危険性は、これを最優先で排除せねばならない。

 今この瞬間、大地の底へと消えたサマエルは動き続けている。

 人類を脅かしながら、この星を少しずつ壊してゆくために。

 それは人類社会と世界秩序、そして生きとし生ける生物全てへの挑戦だった。


「それにしても……なんて悲しい光景。わびしくて、寂しくて、そしてとても……かなしい」


 吹きさらしの甲板から、ゆっくり離れてゆく大地の町並みを見て千雪は呟く。

 この街にはかつて、一千万人を超える日本皇国にほんこうこくの国民が暮らしていた。国の中枢、皇都として栄えていたのだ。極東、そしてアジアを世界と繋ぐ、経済と流通の巨大な中継地点……その面影は今はなく、ひたすら無常な景色が広がっていた。

 こんな時でも、隣にいて欲しい人がいる。

 こんな時だからこそ、いつもの調子で一緒にいて欲しい人たちがいるのだ。

 だが、戦技教導部せんぎきょうどうぶ海軍PMR戦術実験小隊かいぐんパメラせんじゅつじっけんしょうたいへと刷新さっしんされて、兄の五百雀辰馬イオジャクタツマは大忙しだ。冷徹な美人副官に変貌してしまった御巫桔梗ミカナギキキョウも同じで、ラスカ・ランシングも格納庫で愛機の整備と強化に首ったけ。友人の更紗サラサれんふぁは医務室で、今は摺木統矢スルギトウヤがつきっきりだ。

 そう、統矢はこんな時も側にいてはくれない。

 そのことが寂しい反面、本当に彼が必要な人間を千雪は心得ていた。

 失われた記憶を求めるあまり、暴走して負傷したれんふぁ……彼女には今、統矢の力が必要だった。パンツァー・モータロイドに乗れば狂戦士バーサーカー、そして復讐鬼リベンジャーへと変貌する少年は、不器用だが優しくて繊細で、そして誰よりも純真だ。死んだものさえ胸の中に生かして戦い、決別を終えたあとでも想いだけを宿した少年……彼の優しさが今、れんふぁには必要な気がした。

 もっとも、あの不器用な統矢になにができるとは言わない。

 ただ、なにかやってくれる、なにもしなくともなにかが生まれる……そう信じていた。


「ふふ、れんふぁさん……貸す、だけですからね? 貸すだけ、です」


 ひとりごちて小さく笑って、自分でもふと不思議になる。

 周囲が見ればその表情は、仏頂面ぶっちょうづらの無表情が小さく唇を歪めただけに見えるかもしれない。でも、千雪は昔に比べてよく笑うようになった気がするし、表情が豊かになった気がする。

 たとえ統矢しかそれを見出してくれなくても、統矢だけで彼女には十分だった。

 そうして艦内に戻ろうとした、その時。

 千雪は、少し離れた艦首側、対空機銃のターレットが並ぶ影に人影を見る。

 それは、普段の三つ編みを解いて生まれたウェーブの長髪を揺らす、サングラスの美少女だった。花束を手にサングラスを外す横顔を、千雪はよく知っている。


「あれは……御巫先輩? なにを……あ」


 千雪は瞬時に思い出した。

 彼女の身の上が知識から実感へと変わる瞬間。

 それは、桔梗が手にした花束を空へとそっと投げるのと同時だった。そうして彼女は、しばし夕焼けに長い影を棚引かせていたが……思い出したように、敬礼をする。

 これから向かう先、遺都東京ではあの日、一千万人以上が死んだ。

 首都機能は完全に破壊され、再建不能の廃墟群がちるのを待つだけの世界。

 そこで彼女は……桔梗は全てを失った。

 自然と千雪は、なにか神聖不可侵の時間と場所に居合わせてしまったような気がして、思わず身を隠す。だが、そっと吊るされた救命艇の影から見やれば、敬礼の手を降ろした桔梗は、寂しげな瞳で斜陽の廃都を見詰めていた。


「そうでした、御巫先輩は……この街で、ご家族を」


 御巫桔梗、高等部三年生……元、皇立兵練予備校西東京校区こうりつへいれんよびこうにしとうきょうこうく出身。そして、日本皇国で軍需の大半を担う軍産複合体、御巫重工の社長の娘。社長だった男はもう既に亡く、彼女もまた娘だった少女と過去形で語らねばならない。

 そして、桔梗はこの土地で生き残った、数少ない人間なのだった。

 両親と弟を失い、御巫家の地位と名誉を失い……御巫重工が名前だけを残して経営陣の首をすげ替える中で、都落みやこおちのように青森にやってきたのだ。そんな彼女が持つ、黄昏たそがれたような陰りに、多くの男子がとりこだというのは有名である。

 この際、そういう噂を耳にしてる千雪こそが、一番のアイドルだという自覚はない。

 学園で天使と愛でられてる千雪の瞳に映るのは、同じく学園の女神とあがめられている上級生の御姉様……そして、狙う全てを撃ち抜き穿うがつ、魔弾の射手しゃしゅなのだ。

 これ以上はと艦内にそっと戻ろうとした時、千雪は聞き慣れた声を耳に拾う。


「おう! ここにいたか、桔梗。探してたんだけどよ……挨拶は済んだかい?」

「辰馬さん。……ええ」


 不意に甲板に、兄の辰馬が現れた。

 その顔を振り向いて、桔梗が静かに笑みを見せる。ああいう風に笑える女性の魅力は、造形美を一層華美に引き立てる女性としての魅力に満ち満ちているからだ。

 実際、千雪は桔梗に微妙な距離感を感じていたが、認めなければならない。

 女性特有の柔らかさと、華奢きゃしゃ痩身そうしん、そして穏やかで気遣いに溢れた性格。文学少女といったたたずまい、深窓の令嬢という雰囲気が、サングラスを取ってようやく再び戻ってきていた。

 だが、彼女は手にしたサングラスを開いて、それをかけようとする。

 その手を辰馬はつかんで止め、細い腰へと腕を回した。

 簡単に恋人を、さも当たり前のように抱き寄せてしまえる兄は、やはり人誑ひとたらしなのだと思う。誰にでも気さくで、誰からも愛される色男、軽薄で軟派に見えて、誠実で熱いのが兄の辰馬なのだ。


「あ、あの……辰馬さん」

「そのサングラス、な……桔梗。悪ぃ、全っ! 然っ! 似合ってねえぞ」

「また、そう言うんですね。わたくしも存じてます、でも」

「でも、じゃねえだろ? ほら」


 辰馬は自分の胸のポケットから、なにかを取り出した。

 それは、普段から桔梗が使っていたいつものメガネだ。細長いレンズの眼鏡で、辰馬はそれを丁寧に開くと、そっと桔梗へとかけてやる。

 長身の辰馬の胸に両手を当てながら、呆気あっけにとられて桔梗は目を瞬かせていた。


「やっぱよ、桔梗。こっちの方がお前、綺麗だわ」

「辰馬さん……また、そんな」

「髪を解いてサングラスして、そうやって自分を作ってなにしてんだよ、桔梗」

「……わたくしは、強くならないといけないんです。辰馬さん……貴方を皆さんごと守るために。皆さんと一緒に戦うために」

「お前なあ」


 グイと辰馬が、桔梗の腰に回した腕に力を込めた。

 ぴたりと腰と腰が密着する中で、桔梗が「あっ」と小さく声を漏らす。

 冷たい空の空気を震わす声は、甘く霞んで軍艦の轟音の中に溶け消えた。


「お前が頑張ってんの、わかってるつもりさ。……苦労、かけてるのもな。お前はでも、そうやって自分を、クールで厳しい鬼の副官にして、それで俺が喜ぶと思ってるのか?」

「……辰馬さんに、嫌われても……役に、立ちたいんです。もう、誰も……一人も、失いたくないから」


 桔梗はようやく、辰馬の胸に頬を寄せて本心を吐露とろした。

 千雪にもわかっていた。

 豹変した彼女の、それは演技で、虚栄で、そして虚勢だった。

 自ら姿まで変えて、優しい上級生の顔を封じて殺した。そうして、皆が生き残るために冷酷な仮面を被ったのだ。だが、その仮面の下にある素顔を、誰よりも辰馬が敏感に察していた。

 そんな辰馬に甘えるように、桔梗が彼の腕の中で目を閉じる。


「私は、今でも……怖いんです。あの日を、あの時を……あの瞬間をいつも、思い出してしまって。パラレイドの前ではいつでも、わたくしは……無力なあの日の自分に戻ってしまう」

「親も弟も殺されたんだ、お前だって……その背中の傷」


 背中の、傷?

 それは、千雪にも初耳だった。

 誰もが憧れる上級生、高嶺の花……桔梗の白い柔肌に、傷があると辰馬はいう。そしてそれは、二人が肌を重ねる仲であることを物語っていた。

 桔梗は身も心も辰馬に重ねて、小さくささやくようなつぶやきを零す。


「わたくしの背の傷は、あの日の烙印スティグマ……生き残ってしまった者の、罪の十字架です」

「馬鹿言うなよ、桔梗。馬鹿だぜ、お前」

「わたくしは、生き残ってしまったからには、その命に意味を、意義を見出したいんです。でも、あの子のように……摺木君のように、戦えない。彼みたいに、復讐心があるのに、上手く燃やせないんです。すぐ、恐懼きょうくに身も心も潰されてしまう」


 抱き締める辰馬が、桔梗の背を優しくポンポンと叩いている。

 二人はまるで、何度も生まれ変わっては出逢であって結ばれる、昔からの恋人たちのように千雪には見えた。

 二人だけの時間、素顔の二人を盗み見ているという罪悪感が込み上げる。

 同時に、憧れでもある恋仲の男女からは、不思議と目が離せない。

 自分も本当は、あの人と……統矢と、ああいう風になりたいのではないだろうか。そう思うが、千雪は自分が桔梗と違ってかわいくない女の子だという自覚が少しあった。


「なあ、桔梗……お前の、その……俺が気さくなイイ隊長で、お前が厳しい副隊長っての、よう。やめねーか? それ、設定に無理があるわな」

「無理、ですか?」

「俺の知ってる御巫桔梗は、そういう器用さも狡猾こうかつさも、ついでに小賢こざかしくて小利口こりこうなとこもねーからよ」

「……そうでしょうか」

「そうでしょうよ。な?」


 辰馬の胸の中で、桔梗がにこやかな笑みを見上げる。

 辰馬は今、夕焼けの最後の残照を浴びながら、優しく桔梗に笑いかけていた。


「そもそも、だ! なあ、桔梗!」

「は、はいっ」

「あのサングラス、ありゃいただけねえぜ……ひどく胡散臭うさんくさい上に、若干引くぜ……そして、何度も言うが似合ってねえ!」

「そう、ですか……」

「やっぱり、その眼鏡が俺は好きだぜ? 俺の愛する女は、世話焼きで几帳面で包容力があって、気が利いて気遣いもあって、背中に消えぬ傷を背負って尚立ち上がる、芯の強い女の子じゃんかよう」


 へらりと笑って、辰馬は桔梗の頭の上に手を置いた。

 そして再度、強く抱き寄せ抱き締める。

 桔梗もまた、辰馬の背中に手を回してぴたりと重なった。

 そこには、いつもの兄と先輩ではなく、普通の年頃の少年と少女がいた。人類滅亡の危機の中で、消耗品として使い捨てられる幼年兵ようねんへい……その鈍色にびいろの青春を血で彩ろうとする、二人の健気な愛があったと思う。

 二人は太陽が完全に見えなくなるまで、ずっと抱き合い素顔を見せ合った。


「でも、わたくし、知ってます。いつも、わかってるんです。……この人はわたくしを愛してくれている、って。でも、そんな人を愛して守るために、わたくしは戦います。戦えなければいけないんです。それと」

「それと? なんだよ、桔梗。俺らの仲だ、なんでも言えよ」

「はい……辰馬さんは、わたくしのことを綺麗だって。時々、かわいいぞ、って言ってくれます。そして……」

「ああ。そしてもこうしてもねえ、それが全てだろ」

「ふふ、そうですね。でも……そして、辰馬さんは……眼鏡の、好きですよね?」


 一瞬、千雪は頭に疑問符を浮かべた。

 同時に、辰馬は「ギク!」と、わざとらしい台詞でおどけて桔梗から目を逸らす。それは、永らく五百雀家で兄妹きょうだいとして育った千雪には、おなじみの表情だった。気まずいことや都合の悪いことをごまかす顔だ。


「お、おお、おっ、俺は、別に! そんなことないぞ、桔梗」

「……時々、眼鏡の女性を目で追ってますよね?」

「はっはっは、寒くなってきたな。そろそろ中に入ろうぜ? もうすぐ夕飯だ」

「このふねの副艦長、綺麗な方でしたね……眼鏡の似合う、知的な美人でした」

「あー、あれだ……うん、その、なんだ。桔梗、愛してるぞ! チューしてやろうか?」

「もっ! またごまかして。そういうのは部屋に戻ってからにしてください。そ、それに……それに、いつも……その」


 今度は赤面にうつむきつつ、桔梗が口籠くちごもった。

 あの余裕たっぷりで御嬢様おじょうさまといった雰囲気の桔梗が、千雪には今だけ普通の女の子に……同世代の少女に見える。自分を遥かに超越した、本当の、本物の恋する乙女に見えた。

 その彼女が、言いにくそうに小さく呟く。


「辰馬さん、その……いつも、眼鏡に……ベッドの中でも、わたくしに眼鏡を」

「そ、それは違うぞ! 違うからな、桔梗! お前が最初に、俺の顔が見えなくなるからって……あの日の、初めての夜に!」

「はっ、恥ずかしいです! 恥ずかしい、ですから……でも、そう言いました。わたくしは、確かに。でも、だからって……辰馬さん、だからって」


 そして、桔梗が恥じらいと共に言葉の核弾頭を炸裂させる。

 男子のアレコレには理解があると、頭では知識を飲み込んでいた千雪は……耳年増な自分が未経験の話に、思わず赤面してしまった。


「辰馬さん、いつも……め、眼鏡に……そ、その、えっと……、じゃないですか」

「待て! 待て待て桔梗っ! それは……違わ、ねえ、けど、よ」

「あれ、あとで大変なんです。その、カピカピに乾いて、洗うのがいつも」

「桔梗、誤解してるぜ! 眼鏡に出してるんじゃない、お前の顔に……なんでもないです、ハイ。ワスレテクダサイ」

「……わたくしは、辰馬さんの子を産んでもいいんです。いつもそう思ってるのに、辰馬さんは」


 男女の仲とは知っていたが、二人きりだからと生々しい。

 そして、完全に千雪の存在を知らない二人は、本当に恋人同士の顔になっていた。

 そろそろ本気でこの場を離脱しないと、恥ずかしさで死んでしまう……恥ずか死ぬ。そう思った千雪が、こっそり気配を殺して後ずさった、その時だった。


「あ、そんなとこにいたのかよ。千雪! 飯だ、行こうぜ……千雪?」


 背後で声がして、振り向けばそこには統矢の姿があった。

 見られた……盗み聞きなんかしてるところをバッチリ見られた。

 恥ずかしい、死にそうだ……顔から火が出るとはこのことだ。


「とっ、とと、統矢君! ……いつからそこに?」

「今きたとこだけど、なんだ? あれ? あっちにいるの、あれは辰馬先輩と桔梗先輩じゃねえか。丁度よかった、おーい! 辰馬せnフガ! フガガ、フガフグ!」


 慌てて千雪は統矢の口を手で塞ぐ。

 必然的に二人は、身体が密着する中で重なった。

 むーっ、と千雪がにらむ統矢の顔が、驚くほどに近い。


「ぷあっ! はあ、なんだよ千雪……どした?」

「いえ……恋人同士の時間を邪魔してはいけないです。そう、蜜月みつげつ……二人が二人でいられる時間は少なくて短くて、ここから先にはないかもしれないんです。私たち、パラレイドと……サマエルと戦う夜に向かってるんですから」


 その言葉に、統矢が真面目に表情を引き締める。

 そこには、先程のどこか呑気であどけない少年の姿はなかった。

 パラレイドのことを耳にした瞬間、戦士の顔がそこに現れる。


「そう、だな……そうだ、千雪の言う通りだな。二人にしといてやろうぜ。で、俺らも」

「お! おっ、おお、おおっ!? ……俺、らも? 俺らも、なんですか? なんなんですか統矢君はっきり言ってくださいなんでも聞きますからなんですか」

「な、なんだよお前……俺らも、飯食おうって。あ、やっぱ腹減ってんのか?」

「……いえ、別に。期待、してなかったですけど。でも、ええ、はい。統矢君、本当に統矢君ですね」

「なんだそりゃ。みんな先に食ってるけどよ、お前いねえし。……お前と飯を食おう、って俺……と、とにかく! 行くぞ! 腹が減っては戦はできぬ、だぜ」


 そう言って歩き出す統矢の背を、少しはずんだ歩調で千雪は追い掛ける。

 二人が去りゆく風景の中で、唇を重ねる恋人たちが夜の宵闇よいやみに溶け込んでいった。

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