旭日のかりん隊 ~異現代歴史小説~
天道安南
第1話 プロローグ 周人と博士
◇プロローグ
――まただ。
――危なっかしくて、見ていられない。
少年のような若い女性は、ひっかけた片方の足を宙ぶらりんにしたまま、もう一つの手を反対側の欄干にかけ損ねている。
できもしないロッククライミングに挑戦して、くじけそうになっている中学生みたいだ。
遠くの窓からそれを見ていた矢倉周人は、顔を拭いたタオルを投げるようにおいて、素早くジャケットを着た。
――今日はいつもより、時間が早い。
周人はあっという間に階段を走り降りて、外に出た。数歩で道を横切り、素早い身のこなしで橋の傍まで来た。
それからまるで、身体の中にあるスピードのスイッチを切り替えたように、ゆっくりとした動作で、女性がぶら下がっている橋の欄干を覗いてみせた。
そしてのんびりと声をかける。
「やあ。上手くいってる?」
数日前から彼の心をとらえている女性が顔をあげた。
「ダメみたい」
困った顔をしながらも、周人の顔を見て嬉しそうだ。
「私、ロッククライマーは無理ね」
周人は彼女の腕を軽く引き上げて、欄干のこちら側に抱えあげた。抱えあげたといっても、彼にとってはたいしたものではない。だいたい橋といっても、周人だったら数歩で降りられる小さな川だ。
「今日も散歩? やっぱりあなた失業中なのね」
「ばれたか」
周人はにっこり笑って、彼女が歩き出す横に並んだ。身長180cmを超える彼からするとこの小さな女性の歩みに合わせるのは、意識して歩幅をゆっくりと取らなければいけない。
「ねえ、私やっぱり筋力を必要とする仕事はむりみたい。どう思う?」
それは始めから明らかだったが、彼は考えるふりをした。
「そうかもしれないね。でも散歩の様子じゃあ、随分元気になった感じだけど」
「そう思う?」
喜んで彼の顔を覗く目が輝いている。
きれいだ。楽しい。
何しろこのために、駈け下りてきたのだ。
聡明そうな瞳を持った、少し幼い顔立ちだ。10代に見えるがたぶん20代だろう。時に30代と感じることもある。
周人には、女性の年齢が分からない。年齢不詳の女性を見た場合、首筋と手で判断しろといわれたが、ここ最近の寒さで彼女はいつも首に何かを巻いている。手はきれいだ。
彼女との話の中からすでに割り出しているのは、何かのアクシデントの後らしく川上の知人の別荘みたいな場所で一時的に休養中であること。何らかの理由で高校は中退らしい。頭は悪くない。海外で住んでいたことがあるらしい。たぶん東南アジアだろう。紅葉し始めた樹木を見て「日本の木ってほんとに写真で見たのとそっくりね」とびっくりしていた。
そういう言葉を吐く割には、植物の名前をよく知っている。図鑑でおぼえたのか。
彼女の毎朝の散歩に気づいたのは、彼がここにきて初日のことだ。
窓から眺めていたが、直ぐに降りていって近くを歩いた。
何となく前に会ったよう気がしていたし、少し危なっかしくて、何かあれば助けるつもりだった。近づいて、始めて女性だと分かった。
翌日は自分も散歩の振りをして、ぶらぶらと待ち伏せて、何気を装って話しかけた。
どうせ自分は仕事といっても、ほとんと休暇のような身だ。毎回部屋に設置された固定電話に出て、「異常ありません」と報告の連絡をするだけだ。
そしてここ数日、彼女の散歩の時間に合わせて下に降りる。
立ち止まって道に何かを見つけたり、川の流れに魅入られてずっと立ち止まったり、時には何かを始めたり、彼女の散歩はのんびりだ。そんな様子が好きで、彼も自分の散歩の振りをして付き合っている。そしていろんな話をしている。
彼女は歩きながら続けた。
「それでね、仕事なんだけどね」
「君の? それとも僕の?」
ほんとは分かっていたけど、からかってみたくて言ってみた。
「ああ、あなたはきっと大丈夫よ。その体つきだったら、どんな仕事でもできるわ。それより」
彼女は、急に彼に顔を向けた。
「私、またイヤな仕事が始まりそうなの。これで私に学校の先生になるという将来はないわ」
「おやおや、教師になるのはあきらめたのか」
彼女は毎日、将来の仕事の夢を語る。こんな仕事がしたい、あの職業は私に向いているか。どれも、可笑しくて聞いていられないほど現実離れしている。
少なくとも彼女の様子からは、実際には一度も仕事の経験がないように思える。言ってみれば、ちょっと可愛いらしいニートだ。
ところで彼女が「イヤな仕事」と言ったのは、これで二度目だ。前回はすぐに別の話題になってしまっていた。今回は聞き逃さない。この一年の研修というか訓練の行き届いた彼が、その彼女のわずかな口のゆがみを見逃すことはない。
「仕事」と言うのは言葉のあやで、たぶん自分の不本意なコトをしなければならない状況におかれるのだろう。
やっと、彼女の小さな頭を悩ましている事に触れてくれるかもしれない。一歩前進だ。彼女の……。
ふいに、周人は視線を感じて周囲を見回した。
-気のせいか。
観光地でもあるため、意外に車の往来は激しい。しかもスピードがある。
「ねえ。ここは車が危ないから、あの山道の方をいかないか」
「だめなの」
「え?」
「道路沿線から5メートル以内を散歩するように言われているの。外れる場合は、連絡が必要なの」
周人は、始めて見るもののように女性を見た。顔を観察した。
ウソをついている顔には見えない。さりとて川上の病院に入院している患者にも見えない。焦点のあった目をしており、言動にも不安定な様子はない。
突然。
周人は彼女の頭を押さえこんで屈んだ。きゃあと彼女は叫んだが、それどころではない。
間違いない。見た。
次に周人は、反射的に彼女を抱えて、道を外れて走り出そうとした。
だが、黒塗りの車が二人の前を遮った。
瞬時の判断で、反対側の道に止まっているもう一台の青いワゴンも、同じ目的の車だと、彼には分かった。
だが敵意は感じられない。周人にはそれがわかる。それに。どうやらこいつらは、こういうことに関しては、素人だ。これもわかる。
では?
青い車のドアが開いて、男が一人降りて、礼をした。
「博士」
彼女に言ったことだけは分かった。
いやいやをするように彼女の頭が、周人の右わきで動いた。
「申しわけありません。休暇は終わりです」
重くなった足取りで階段を上り、乱暴にドアを開けて、周人は部屋に入った。そのままベッドに仰向けに投げ出した。
避暑地の恋は終わったというわけだ。
このあたりは会社の保養所や、ペンション、公共施設がひしめいている。
確かに上流の方に、どっかの官公庁の幹部用保養所がいくつかあると聞いた。
どこの官庁だか。
ずっと違和感はあった。誰かが近くにいるわけでもないのに、習慣的に襲う誰かにみられているかんじ。
ぬかったな、と円城寺文也だったら言うだろう。
でもそれは周人の仕事上仕方のないことだと思っていた。訓練のテストの一環で、向かい側の別荘の監視をしているのは、周人の方だ。とても簡単なテストで、これがどうして最終テストなのか分からないほどだ。
川の向かい側にある別荘に、管理人の定期的な掃除と見回り以外の動きがあれば、周人はそれを一時間ごとに固定電話にかかってくる電話に報告することになっていた。その別荘は、周人が監視して以来まったく何の動きもない。
寝返りを打った。
……それで。
避暑地の淡い恋は終わった、というわけだ。
柄にもなく、そんな言葉が頭に浮かんだ。
―避暑地ではなく温泉地よ。
―何言ってんの。可哀想じゃないの。
頭の中で、鬼頭蓉子と大内さくらが突っ込んでくる。
―恋というには、情報がちょっと足りないよな。
―え、こ、恋? そうなの?
想像のなかで、萩原白秋と吹浦サトコが続いた。
いや、恋というわけでもない。淡い思いがあったことは確かだが、恋というわけではない。頭の中の文也は、口角をあげたままで何も言わない。けれど周人は弁解するように言った。
そうだよ。恋というわけではない。
再び寝返りを打った。
とにかく、終わった。官公庁だと思ったのは、迎えに来た者のその雰囲気からだ。
一体彼女は、何者だろう。
何らかの警護らしいものが付いている。警護と言ってもそれほどのプロではない。どちらかというと、警護というよりは付き添いという感じだ。警備や警護を専門とする人間とはあきあらかに違う。
しかしどちらにしても、あの態度からして、大事な関係者だろう。おまけに、彼女の事を博士と呼んでいた。
周人が抱えた彼女は自分の運命を諦めるかのように、彼の腕の中から離れて、彼らに囲まれて車に乗り込んだ。
もう周人の顔を見もしなかった。ちらりと見えた彼女の目は、空を見ていた。
ーおやおや、君がそんな詩人のようなことを言うなんて。
頭の中の文也がもう一度微笑んで、そう言った。
電話が鳴ったのは、そのほんの数分後のことだった。しかし、すでに周人は身支度を済ませていて、いつでも出発できる状態だった。
おなじく官公庁に務める身、あの娘に側近としてついていたと思われる彼らが、そこに居合わせた周人について何らかの報告を彼らの上司にし、その上司が同じく横組織である周人の機関に何らかの報告、つまり文句とかが行き、周人の上司が決断を下すまでに半日はかかると思っていた。
しかし、もともと散歩以外は何もやることはないし、すでにやる気を失っていた周人は、パッキングをして沙汰を待っていた。無論、まさかこんなに早く沙汰が来るとは思わなかった。
電話は携帯にではなく、部屋取り付けの電話にかかってくる。
掛けてきたのは、「部長の秘書」だった。周人本人の確認をして、向かう先と集合時間を淡々と告げる。
周人は猛スピードで山を下り、特急列車に乗り込み、指定どおり場所に行った。
そしてメモの通りのビルに入り、言われた部屋のドアを開けた。
「失礼します」
開けて中を見たとたん、入り口で立ちどまった。
部屋の中では、チームメンバー全員がそろって、こちらを見ていたからだ。明らかに全員、周人の避暑地での最終テスト失敗を合図に、集められた様子だ。
まさか、俺の失態で全員が最終試験に落ちることになるのか……? 連帯責任って、ほんとなのか……。
5人は、いつもの態度で周人を見た。
「あんたのせいで、休みが台無し」鬼頭蓉子が口を尖らせた。
「急に呼び出されたんでメイクの時間がたりないわよ」大内さくら。
「こちらはとっくに選び終わっていたし」白秋の言葉は相変わらず意味不明。
「元気がない声だね」いつものように悪気なく率直に、吹浦サトコが言った。
そして円城寺文也が、片方の口角をあげて周人を見やった。
「そう、それで……」
何もかも見透かしたような、何もかも知っているような、いつもの穏やかな目つきだ。
「最後にやっと決めてくれたというわけだ」
……なにを?
さて。
話しは一年前にさかのぼる。
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