全人類総妹化計画

柳塩 礼音

第1話 異変


「……お兄ちゃん?」


 ふと、弱く震えたような少女の声が、俺の部屋の中に響いた。目の前に臥すのは、顔を真っ赤にして虚ろな目を向ける女の子。大量の汗を流し、おでこには濡れた布巾を乗せて、息を荒げている。


 まるで何かを訴えるかのような寂しさに満ちた声。そんな虚ろな声を、彼女は俺に向かって投げかけてきたのだ。


「……は?」


 しかし、俺はそんな彼女の呼び声を突っぱねた。


 いや、それもそのはず。彼女の名は上賀茂佳緒里かみがも かおり。そして俺の名は三倉祐一さくら ゆういち。彼女は妹なんかじゃない。


 別に生き別れたとかいう変な事情も一切ない。というか、佳緒里は俺のだ。俺をお兄ちゃんなんて呼ぶ筋合いはない。


 どうしてこんな状況になっているのかと言うと……それはつい先ほどのことだ。風呂に入り、そのままもう少し勉強しようかと英作文の参考書を開いた時、突然玄関のチャイムが鳴った。


 優に夜の9時は回った時間。開けると、暗闇の中に顔を真っ赤にした彼女が息を切らしながら立っているではないか。


 なんでも彼女の家から歩いてここまで来たらしい。高熱の上に会話すらもおぼつかないような状況でよくここまで耐えてきたものだ。以前から彼女は我慢強いところがあったが、まさかここまでとは思わなかった。


 そもそも彼女は一昨日あたりから学校も休んでいた。


 原因はインフルエンザ。この大学受験直前の時期にまあ運が悪いものだなと呆れたものだったが、互いに受験勉強の邪魔をしないようにとしばらく連絡を断っていた身だ。確かにあまりうまくいっていなかった節はあったが、心配はした。


 しかし、何か連絡を取るかと言われると彼女からの連絡があれば応えるか……ぐらいのスタンスでいたのだ。


 まあそのせいかはともかくまさか家までやってくるとは思わなかった。まあ確かに彼女は俺の幼馴染で、家自体はそう遠くない。


 来ようと思えば徒歩5分もすれば来れる範囲だ。もちろん逆にこちらから彼女の家に連絡を取ろうとは試みた。だが彼女曰く、彼女の家は一家全員インフルエンザで倒れてしまっているらしい。それなら仕方ないかと、俺は母や妹におされて部屋に彼女を置くことになったのだ。


 全く、こんな受験期直前に……と彼氏ながら苛ついた俺ではあったが、こんな彼女の弱った姿を見せられれば嫌という訳にはいかない。こうして、今に至るという訳だ。


 出来るだけ物が少なくなるように整理され、本棚にも上級大学の過去問やテキストなんかばかりが置かれた部屋。


 そんな殺風景な部屋のベッドを佳緒里はまるまる占領し、ぜぇぜぇと苦しそうな息を上げている。


 何でもわざわざ俺の部屋じゃなくてもいいのにと反対した俺だったが、妹なんかにはお兄ちゃんは女心が分かってない云々と猛烈に批判された。奴の口角が不自然に吊り上がっていたのが気にはなったが、そこまで言われて俺はしぶしぶ佳緒里を看病するに至ったのだ。


「どうした佳緒里? お前に兄なんていたか?」


 当然の疑問である。そもそも彼女に兄がいたなんて話は聞いたことが無い。彼女の家は会社員の父親と専業主婦の母、そして佳緒里の3人だけ。典型的な核家族だ。小さいころは2家族合同でデパートなんかに頻繁に行った。そのくらいは熟知している。

 

 俺のことを兄と誤認するには少々謎が多い。


「はぁ……はぁ……カオリ? 私、だよ? お兄ちゃん、お兄ちゃんはいないの?」

「ショーコ?」


 彼女は荒げた息の合間にそんな事を言い述べていった。短く切った髪は内巻きで、はっきりとした顔、そして目は少し垂れ目気味。身長は高くないが、それでもって中高と女子バスケ部に所属していた運動少女だ。


 そんな可憐な見た目に、誰とでも仲良くなれる人なつっこい性格で、彼女は学校の男子にも1、2を争う人気を誇っているという。


 俺と付き合う前もそうだが、付き合った後ですらも3度は告白されたという話を聞いた。こちとら彼女を3歳くらいのころから知っている仲だ。


 クラスメートにはおいおいと肘をつつかれる毎日だが、そこまで良いものなのかと首をかしげてしまう。そんな態度でも、俺はそいつらからの顰蹙を何度も買ってきた。


 さて、話は戻ろう。ショーコ? いやいやまてまて。彼女の名前は間違いなくカミガモカオリ。一文字も違うこと無くこの通りだ。ショーコなんて一文字も合ってやいない。


 じゃあ何だ、前世の記憶でも蘇ってるってのか? 馬鹿馬鹿しい。どうやらインフルエンザの高熱で参ってしまったようだ。しょうがない。氷枕の氷でも変えてやるか。


 俺は書きかけの英作文を一旦おいて、下の台所に氷を取りに行くことにした。彼女の頭をそっと持ちあげ、敷いている枕を取り出そうとする。


「お兄ちゃん……!」

「うわっ!? バカ、抱き付くな!」


 すると、彼女は突然俺に抱き付いてきた。火照って汗にまみれた身体が俺に触れ、それだけでも彼女が酷い熱を出していることが容易に分かる。触れただけで燃えるように熱いのだ。自分で出していたらと思うと肝が冷える。


 しかし俺は受験生だ。彼女とはいえ、こんなところで風邪をうつされたらたまらない。


「は、離せ……!」


 しかし彼女はどれだけ振りほどいても離れようとはしなかった。それどころか、人ならざる強さで俺の胴体を締め上げてくるのだ。筋肉に乏しい俺の身体は、容易にみしみしと悲鳴を上げる。


「ぐ……痛て……」

「……ごめんね……だい……す……」


 すると、彼女から微かにそんな声が聞こえた気がした。それと同時に、不意に彼女の力が弱まる。俺はその機に乗じ、なんとか彼女を振り払うことに成功した。


「はぁ……はぁ……?」


 彼女はそのまま再びもとの寝床に戻っていた。先ほどまでと違い、少しだけ安らかな顔で眠りについている。


 最後の言葉はよく聞きとれなかった。いったい今のは何だったんだろうか……



 ともかく、一旦俺は氷を取るために部屋を後にした。


「あ、お兄ちゃん! 佳緒里さんの具合はどう?」

「ああ志乃、大分悪いみたいだ。幻覚まで見ちまってるらしい」


 すると部屋を出ると、ちょうど俺は妹、三倉志乃さくら しのに出くわした。今度は俺の正真正銘の妹である。


 高1の女子にしては高めの身長、華奢な体、そして髪は肩下まで届くストレート。おまけにレンズの大きな黒縁メガネをかけ、白いヘッドフォンを装着している。着ている服は無地のスウェット。どうやら彼女ももう寝るところのようだ。


 顔つき自体はそこまで悪くないのだが、黒縁メガネが明らかに地味な印象を増幅している感が否めない。


 これを指摘するとまた『女心が分からない』でぴしゃりと言い捨てられてしまうのだ。女心と言うものはなんとも世知辛いものである。


「幻覚? どんな?」

「いきなり俺のことをお兄ちゃんなんて呼び出してさ。しかも自分のことも『ショーコ』なんて名乗り出したんだ」

「お兄ちゃんて……もしかしてそう言う趣味?」


 突然侮蔑に満ちたような眼差しを俺に向けてくる志乃。黒縁メガネの奥から、鋭い眼光が俺へと一直線に突き刺さる。


「おいおい待ってくれ、俺にそんな趣味は無いぞ。しかも妹なんざお前ひとりで十分だよ」

「本当!? 良かった」


 彼女は鋭い眼光を柔らかな笑顔に変え、俺の方へと向けてきた。


「良かったって……何をそんな安心してるんだ?」

「むっ、女心の分からないお兄ちゃんには教えませんよーだ! で、お兄ちゃんも何か用があるんじゃないの?」

「ああ。氷枕を変えてあげようと思ってね」

「あら、さっきはあんなにぶーぶー言ってたのに何だかんだ優しいんだ」

「言ってろ。こちとら受験生なんだよ。ぜぇぜぇと寝息を立てられても勉強に集中できないんでね」

「あーあーもうお兄ちゃんたらそんなことばっかり言ってさ。あんな可愛い彼女なんだから大事にしないと駄目だよ?」

「それも女心ってか?」

「そうそう」


 満足げに首を縦に振る志乃。さらりと長い黒髪がふわりと揺れる。


「お前は何だ? また今からお絵かきでもやんのか?」

「うん! また新しいアニメが始まって友達の間でも話題でさ、そろそろ仕上げなきゃ」


 運動系女子の佳緒里とは対照的に、妹の志乃はオタク基質な女子だった。元々は俺が奴と一緒にアニメやらを見ていたのがきっかけだったらしいが、今ではそれが高じてお絵かきやBL方面にまで手を出しているらしい。


 残念ながら勉強はめっきり。まあ人の趣味に口を出すほど野暮ではないが、将来が不安になるものだ。


「ま、またいいのが出来たら見せてくれよ。アドバイスでもしてやるからさ」

「本当!? お兄ちゃんのアドバイスって大体ドンピシャで当たるからありがたいんだよねぇ~」


 俺は手を振って階段を下りていった。志乃もまた、肩にかけていたヘッドフォンをつけ、自分の部屋へと入っていく。


 しかし、あの佳緒里の症状がただの幻覚ではないということを知るまでには、そう長い時間はかからないのだった。

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