感想文シリーズ

引場當

第1話 熊の敷石 堀江敏幸

 堀江敏幸の芥川賞受賞作、この作品の名前は僕が中学生ごろの時から聞いていた。父親が何かの折に東京へ出た時の事(たぶん会社の民事裁判かなにかだ)、ばったりと高校の同級生だった堀江敏幸と再会したのだという。そのとき僕はホリエトシユキと聞いて難い名前だなとかの印象をもってたぶん政治家かなにかだろうという予想をした気がする。だが父親の口から出る思い出話には存外覇気がなく、引っかかったのは「芥川賞だったか直樹賞作家だったような気がするなあ」というような言葉だった。僕は絶対的権威のある賞といえばノーベル賞くらいしか知らず、仮にノーベル賞であったら父親は「ノーベル賞かフィールズ賞を取った気がするなあ」とは絶対に言わないだろうと思い、芥川だのを美術県展大賞くらいのもんだと考えた。またさらに、自分の中では知識と誠実さのみで学歴を手に入れた愚なる父親の知人がそれほどすごい人間でもないだろうとでも考えたと思う。完全なる反抗期的判断。まあ、この本の存在とのファーストコンタクトはこんなもんで、この話の後に父が熊の敷石を買いあたえてくれたりはしなかった。今思えば、田舎で冴えない家族をもって毎日、偽善的な機械のような経営者のもとで働いている自分と華やかな賞を貰い今はフランスの大学を出て東大教授までしている同級生を比べたのかもしれない。本を買うことは故人の力の証明をまざまざと見せつけられる思いがするだろう。

 して、時は飛び、大学受験も迫ったこの夏休みに運悪く読書の楽しみに目覚めてしまった僕は「ニッポンの文学」という本で堀江敏幸の名前を目にした。芥川賞と三島由紀夫賞を賜った人物としてだ。もしや、と思い検索してみればやはり父の母校出身ではないか。いまでは又吉の「火花」の件もあり芥川賞の権威については承知している。こんなにすごい人間だったのかと今になって理解し、十分な説明をこれまでしてくれなかった父を少し軽蔑しながら図書館で借りたのであった。


 さて感想に入ろう。この物語の舞台はフランス、主人公「私」がペタンクという暇人の遊びで出会ったヤンという男との再会を語ったものである。

 主人公は人とのコミュニケーションは互いに相手を理解したいという情熱が大事だという気持ちを持っていた。そしてヤンもそれを理解しており、自分もその一人なのだというようなことをいっていた。だが、主人公はその信念のせいで知らず知らずのうちにユダヤ人の歴史の傷をえぐり、その子孫であるヤンを傷つけていたことを知る。気づきのきっかけは翻訳の仕事でリトレの伝記を持っていたこと、ヤンの住処が石材の産地であったことだ。リトレの書いたフランス語辞典で敷石を調べると熊の敷石という寓話にたどり着く。愚かな熊の親切がおじいさんを殺す話だった。その話の中で熊は敷石をおじいさんの頭に投げていたが、自分は……。

 キーワードを物語の時空を超えてストーリーをつなぐものだとするなら、それは「敷石(これはペタンクのボールやチーズだったり主人公が投げたもの全般とつながる)」と「虫歯の痛み」だと思う。一度目の虫歯の痛みによって主人公はヤンとの別れに気づき、また二度目の痛みによってヤンとの思い出の人参パイを思い出す。人参パイはここではヤンとヤンの祖母との隔絶の意味を持っている。そしてそれは主人公との隔絶でもあるかもしれない。

 またその隔絶の決定的な瞬間は主人公の投げかけた「敷石」だ。物語の中盤でヤンはアンネフランクたちが逃げなかったのは馬鹿だといい、そんな馬鹿な歴史をここの人間たちは今も繰り返しているのだと嘆いている。ヤンが定職に就かずにヨーロッパを転々としていることもその考えからかもしれなかった。そこで主人公はあることに気が付き、君はここを気に入っていて挙句に「私」がこの住処にくる際に「ようこそわが家へ」と言ったではないかと挙げ足をとったのだ。僕はこれが決定的な言葉だったのではないかと思った。

 敷石は踏むものだ。そして地雷も。「私」は見えない地雷を踏み続ける。


 ところで堀江敏幸と僕の父との再会はお話になっただろうか。

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