第三十四話 引導

「ちっ、あともう少しで僕の目的に近づけたのに」


 鬱陶しい枝を振り払うようにして蓮夜は森の中を歩いていた。その背中から荒々しい息遣いが聞こえてくる。


「はぁ、はぁ……。なんで、わ、儂が、こんな汚い場所を歩かないといけないんだ」


 太鼓のような腹を揺らして歩くのは、蓮夜の父親の神崎元市長だ。顔は脂汗でぎとぎとだった。


「大丈夫ですか。おい、君達。もっとしっかりと旦那様を支えなさい! まったく何のために高い給料を支払っていると思っているんですか!」


 元市長の両脇で肩を貸すボディガード。それを不甲斐ないと叱咤する秘書の沖田。彼らは元市長の馬鹿みたいな重さに心のなかで悪態をつく。が、黙って頷いた。今にも折れそうな細い体の沖田。その彼でさえ貴重品が入ったと思わしき大きなリュックを背負っていたからだ。


「旦那様、やはり昨日のつけが……」


 元市長は昨日のつけもあり、普段よりも自身の体を重く感じていた。ここ最近、列車に詰めこまれることが多かった。その鬱憤を晴らすかのように、昨夜は夜遅くまで贅を尽くした宴会をしていたのだ。勿論、店は貸し切りだ。


「なぜ止めなかった!」

「いえ、私は何度もその位にされたらとお止めしましたが」


 何度進言しても聞き入れなかった。付き合いきれなくなった沖田はそっと席を外したのだ。それがいけなかった。自制心を失った元市長は食べ過ぎ、飲み過ぎ、さらに睡眠不足だった。


「旦那様、もう少しだけ頑張りましょう!」



 沖田は対照的だな。普段の青褪めた顔とは違い今日は血色が良いしやけに元気だな。昨晩は父に最期まで付き合わなかったので良く眠れたからなのだろうか。それとも荷物のあまりの重さに顔が赤くなっているのか。先頭を歩く蓮夜はどうでもいいことを考えていた。


「もうこれ以上、我慢ならん! 儂はここで休む。いいかもう一歩たりとも動かんぞ! もう少ししたら、セイビーのやつらがあの化け物たちを退治するだろう。もしかしたらもう片付いているかもしれんしな」


 とうとう歩くのに耐えられなくなった元市長。地面に座り込もうとした。だが、その巨大な臀部が地面を揺らす事はなかった。ちょうど後方から複数の叫び声があがったのだ。


「お、おい! 今度は何だ。誰か早く様子を見に行ってこい!」


 枝の立て続けに折れる音が近づいて来る。


「森は安全だったんじゃないのかよ」


 それを視界に収めた蓮夜は独りごちる。斑な緑の毛に覆われた二メートルサイズのヒグマだった。真っ赤に血走った瞳が凶悪さの度合いを強めていた。


「ひっ、ひぃぃ」


 生存本能が無意識に元市長を後ずさりさせる。一歩、二歩と下がる。背中が木にぶつかった。その衝撃で我にかえった元市長が甲高い絶叫をあげる。その声に真っ先に反応したのはヒグマではなかった。


「あ! こら! 君たち待ちなさい!」


 ボディガードが元市長を置いて逃げ出した。彼らは無駄死にする気は毛頭もなかった。今のクライアントは確かに金払いは良かった。しかし、自らの命を賭すには相応しくないと常々思っていたのだ。


「お、お前たち! 儂を裏切るのか!!」


 契約違反ともいえるその背信行為に元市長が怒り狂う。


「あ、危ない!」


 裏切り者に気をとられてシェイドから目を離した。その隙に獰猛なシェイドは元市長の目前にまで迫っていた。蓮夜が父親を庇うようにその間に割り込む。それを見た元市長の瞳に希望が宿る。


 蓮夜は如何にして先手をとるか思案する。これまでの特訓の成果を発揮するのは今しかない。幸い北都で入手した武器を携帯していた。腰に手をかけてそれを取り出そうとする。


「うわっ!」


 背後からドンと強い衝撃を受け、そのまま正面によろけてしまった。武器も持たずに無防備な姿勢でシェイドの射程範囲に入ってしまったのだ。ヒグマは獲物を仕留める格好のチャンスを見逃すはずもない。ヒグマの凶悪な腕が振るわれた。

 それを躱そうと地面に倒れ込みながらも蓮夜は身を捩る。頬に熱い衝撃が走った。鋭い爪が頬を掠めたのだ。


「いまこそ、これまで育ててやった恩を返すのだ! 儂の犠牲になってそいつを足止めしろ!」

「だ、旦那様! 坊ちゃんに何を!」

「これまでの投資はもったいない。だが州都にまでいけばセイジの養子など金で幾らでも買える。儂の命の方が大事だ。おい沖田。行くぞ!」

「くっ、ぼ、坊っちゃん申し訳ありません」


 父親は地面に突っ伏す蓮夜に冷酷な命令を浴びせた。そして秘書の沖田を連れて森の奥へと大きな体を揺らしながら逃げ去った。シェイドは直ぐには追いかけなかった。いつでも追いつけるのだ。まずは目の前の獲物からだ。置き去りにされた蓮夜へと牙を剥いて飛びかかった。


 蓮夜は横に転がり、鋭い牙から逃れる。すぐに立ち上がり、腰から黒い棒状の武器を引き抜いた。それはセイビーが手にしているのと同じブラッドだった。

 正眼の構えでシェイドと相対する。四つん這いで唸り、蓮夜を見据えるシェイド。その身に残る生存本能が蓮夜の手に握られている物に脅威を感じていた。


 僅かに生まれた静寂。自らの呼吸音が耳につく。頬がやけに熱かった。睨みあいは数秒だったのか数分だったのか。それさえ蓮夜にはわからなかった。ただ、とても長い時間に感じられた。


 理性の尽きたヒグマが雄叫びをあげて右腕を振りあげる。蓮夜は地面を力強く蹴り、シェイドの懐へと一気に飛び込んだ。ヒグマの腕が振り下ろされる。が、それよりも速く赤い光を帯びたブラッドが振るわれた。ヒグマの振り上げていた腕が肩からスパっと斬り落とされた。

 振り下ろされたブラッドはそこで止まらなかった。ブラッドを反転させて下段から斬り返していた。左上段に振り切った姿勢で蓮夜は静止した。

 蓮夜の顔の前にヒグマの顔があった。まさに獲物に喰いつこうと牙を剥きだしていた。その獰猛な顔がゆっくりと胴体からずれ、地面へと落ちる。


「くっ、急がないと間に合わない!」


 蓮夜は父親を追って森の奥へと走り出した。色々な方角から大小様々な悲鳴があがっていた。あれ一体のはずがない。おそらく他にもシェイドが森にひしめいているに違いない。このままではシェイドによって父親が殺されてしまう。それは何としても阻止しないと。蓮夜は必死で森を駆けた。


 腐っても肉親。彼にとってはやはり父親は掛け替えのない存在なのだろうか。


 幸いにも彼の願いはすぐに叶えられた。森を進んだ先に尻餅をついた父親の姿があった。父親の視線の先には先程まで死闘を演じたのと同類のシェイドがいた。すでにそこには秘書の姿はなかった。


 蓮夜を置き去りにして逃げた父親の元市長と、その後を追った秘書の沖田。彼らは不幸にも数分後に別の子熊のシェイドと遭遇していた。硬直する元市長と秘書。

 このままでは沖田はボディガードと同じ行為に走るに違いない。元市長は即座にそう考えた。


「あっ! な、何をなさるんですか!」


 元市長は沖田をシェイドの方へと突き飛ばした。先手必勝だった。突然の事に沖田はよろめき、元市長とシェイドの間に突っ伏した。


「そう言えばボディーガードを選んだのも、沖田、お前だったな。しっかりと代役は果たしてもらうぞ!」


 そう言って嫌らしい笑みを浮かべた元市長。縋るような視線の沖田を見捨て、森の奥へと再び駆けだした。


 そんな元市長であったが直ぐにまた別のシェイドに見つかってしまった。なんて運の悪い。もう身代わりもいない。自分の命もここまでなのか。元市長は失意と恐怖のどん底に墜ちていた。そこに蓮夜が駆けつけたのだ。どうやら幸運の女神は未だ自分を見捨てて居なかったようだ。元市長は安堵した。


「おお、お前! 生きていたのか。さあ、父さんを助けてくれ! 沖田の奴も儂のために身を挺して他の化け物に殺られてしまったんだ!」


 父親は息子に助けを乞う。そういえば今まで名前で呼ばれた事すらなかったな。蓮夜はしみじみと思い返す。


 シェイドが蓮夜に気づき咆哮をあげる。新たな獲物の出現に歓喜したのだ。もう、正面で震えている獲物をゆっくりといたぶる必要はなかった。さっさと片付けてしまおうと元市長へと近づく。


 そうはさせまいとブラッドを抜いて父親の元へと疾走する、蓮夜。


 恐怖に怯えてシェイドを見上げことしかできない元市長に鋭い爪が襲う。同時に蓮夜が赤く煌めくブラッドを振り抜き、そして斬り返した――。


 シェイドの爪が元市長に届くことはなかった。振り抜かれたブラッドに切断された黒くて太い腕が地面を転がる。溢れ出す血が大地を緑色に染めた。蓮夜は満足そうな表情を浮かべる。


「そ、そんな、な、ぜ……」


 元市長は目を見開く。その瞳はシェイドではなく蓮夜を見上げていた。しかしその顔は首から僅かにずれていた。ゆっくりと胴体から離れ、シェイドの腕と同じように地に転がった。違うのは、大地を染める色が緑から赤になったことだ。


「ふう、なんとか間に合った」


 片腕を失い体勢を崩して地に突っ伏すヒグマ。想定外の蓮夜の行為に状況が飲み込めていなかった。不思議そうに見上げるヒグマの首に再び赤い閃光が迸る。それで全てが終わった。


 蓮夜はどうしても自らの手で父親に引導を渡したかったのだ。他の者にそれを横取りさせるつもりは毛頭も無かった。

 紙一重でこの社会に繋ぎ止めていた血の繋がった最後の肉親。裏切られた時、蓮夜の心の中で何かが完全に崩れ落ちた。


「全てが劣悪な旧世代の人類たちめ。俺は絶対にお前たちを根絶やしにする」


 地面に転がる物を蹴り飛ばした。すでにそれから興味を失っていた。

 州都に向かって歩き出す少年の双眸は紫色の狂気に支配されていた。

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