第十三話 雪まつり
「しかし、やってらんねーな。規格外すぎだろ」
「文句いわない、早く、歩いて」
「ごめんね、翔くん。僕も負けたのに」
灰色雪だるまの勝負は、エリカの圧勝。勝者権限により僕は全員のバッグをバス停まで持たされていた。
「ただでさえ重いんだから、お前は自分で歩けよ」
バックの口から二対のふさふさが垂れ下がっていた。決してアクセサリーではない。クーは強かにも身を潜り込ませていた。
エリカは僕の前を澄まし顔で歩いていた。あー糞っ。長い付き合いの僕には嫌でもわかってしまう。その表情や歩き方が得意気だと。それが余計に腹立たしい。
「僕たちも頑張ったんだけどねー」
僕と秀人が作った雪だるま。それも決して小さかったわけではない。標準サイズといえた。むしろ作成にかけた時間を考えると、かなり大きい部類だ。
「いや、エリカが圧倒的におかしいだけだ」
僕らの雪だるまは、彼女の作品の目のサイズしかなかった。
「そうよ。私も、びっくりしたわ」
玄関の前に立ちはだかる灰色で巨大な物体。支度が整い外に出たおばさんは、それを見て卒倒しかねた。
「ふう。やっと着いたか。それでバスはいつ来るんだ?」
バス停には十人ほどの先客。時刻表をわざわざ確認する必要はない。
「今日は祭り会場まで臨時バスが運行しているよ。二十分間隔かな。だから、そんなに待つことはないと思うよ」
案の定、秀人が正しい情報を提供してくれる。
僕らの街の移動手段は限られていた。列車は貨物運搬か軍事目的でしか使用されない。住民の移動手段は基本的に徒歩か自転車。遠方への移動はバスを利用するしか手がない。
「お、来たようだな」
黒煙を吐き出しながら近づいてくる。数十年前のオンボロだ。
「しかし、電動バスなのに木材を燃やしているってどうなんだ」
「仕方ないよ。電気の供給がままならないんだから」
「いや、だったらエンジンで走ろうぜ。昔は車といえばエンジンだったらしいじゃないか。非効率すぎだろ」
「でも、エンジンを作る原料が手に入らないし。そもそもロストテクノロジーだよ」
自動運転も、もはや機能していない。有人の運転手が必要なのだ。便数も非常に少なく普段は一時間に一回来るかどうか。自転車を使えない冬の移動は非情に不便だ。
「うわー。凄い!」
会場に到着した僕らを、巨大な雪像と氷像が待ち受けていた。
隣で秀人が目を輝かせていた。初めて見たとき僕もそうだった。
「どんな重機や工具を使用すれば、こんな大きな雪像が作れるんだろう」
ん?
「あの氷の神殿なんて精巧さが凄いね。これだけ精密に加工するには、やっぱり特殊な製造方法があるのかな。もしかしてゼネレータを持ってきて電動工具を使ったのかな。あー、製作現場に立ち会ってみたいよね」
秀人の左の中指が眼鏡のブリッジを押さえたまま離れない。興奮している証拠だ。
「なんか、それ、ちょっと、違う」
着眼点のずれた秀人に珍しくエリカが突っ込んだ。
雪まつりのイベントは、この街唯一の運動公園で開催されていた。普段は人気の感じさせない、暗い雰囲気の街。しかし、この時ばかりは人だかりと活気に満ちていた。
「小さい頃は、あそこで遊んだよな」
「懐かしい」
エリカが隣で頷く。会場の入口を入った先の両脇に大きな雪山がある。そこでは小さな子供たちが親と一緒にカラフルなソリで遊んでいた。
「何、食べよ」
「いや、朝食食ったばっかだろ。それもお前は大量に」
会場中央にまっすぐと伸びる通路。その両側に沿って多くの出店が立ち並ぶ。屋台から立ち昇る煙や湯気。それが食欲をそそる匂いを漂わせていた。
「そんなことより、あれ見ろよ!」
僕は今年の目玉を指さす。
「わ、昨年より、パワーアップしてる」
珍しく、エリカも驚いていた。
全長七十メートルのジャイアントアイススライダー! 要は、氷の滑り台だ。
「さぁヒデ、行くぞ!」
「えええっ! ちょ、ちょっと待って!」
秀人の話を聞かずに引きずる。未だ氷像や雪像の製造技術に興味が尽きないのだ。ほっておくと、日暮れまでここで調査をし続けるだろう。
僕とエリカは毎年来ているのだ。出し物の種類は毎年刷新されてはいるが、正直いって目新しさに乏しかった。
「まったく……」
背中から、ため息が聞こえた。エリカが無言で付いて来た。別に無理に来なくてもいいけどな。
そんなエリカに母親が声を掛ける。
「あなたも大変ね。そういえば、翔のお父さんも自由人を体現するような人だったわね。奥さんがいつも手を焼いていたわ」
意味深な笑みを浮かべる、おばさん。
「なっ!」
エリカは、それに抗議しようと口を開く。
しかし、おばさんがエリカの背中を「いいから、いいから」と押して見送っていた。
二人して何しているだか、僕にはさっぱりわからなかった。
「うはー。これは、ほんとに高い」
会場が一望できる高さだ。
「た、た、た、高いというか、が、崖だよ」
勾配が、やばかった。昨年よりも、かなりスピードアップしていること間違いなしだ。
雪の階段を登って、ここまで来るのも一苦労だった。少し汗ばんだほどだ。
「順番待ち、すごい」
滑り台の頂上は人でひしめいていた。さすが祭りの目玉である。
「うーさぶっ。やっと俺らの番か」
待っている間に体はすっかりと冷えてしまった。
「ねー翔くん、さっきから僕の話を聞いてくれてる?」
「あん?」
「階段の登り口に、対象年齢十三歳以上って書いてあったの見なかったの?」
「だから見たって」
「それ以下の年齢の子供は危険だから、隣の低い滑り台か会場入口のソリ場で遊ぶように書いてあったよね。僕たちはセイジとはいえ、決まり事は守らないといけないよ。こんなの滑ったら危ないって。ねえ、戻ろうよ」
「何を言っているんだよ。それ位じゃないと、スリルなんて味わえないぞ」
「ねー、エリカちゃんからも言ってあげてよ」
まったく煩い奴だな。
「翔くんは、いつもルールを守らないんだから。決まり事って何のためにあるのか知って――。わぁぁあ!」
話も途中に悲鳴とともに滑り落ちていく秀人。無防備な自分を呪うがいい。エリカに顔を向けて話していた隙をついて、僕は秀人の背中を強くひと押ししたのだ。
「わははは! あいつ超おもしろいぞ!」
遠ざかる絶叫と消えゆく秀人の背中。それを指さして大笑いする。
「ねぇ、か、け、る」
その声には感情が篭っていなかった。なんで、こんなに面白いのに無感情なんだ。
不審に思って、エリカの方を振り向いた。細長い左脚が鞭のように襲いかかってきた。そして僕の顔面を右から左へ蹴り上げる。見事な上段蹴りだった。
僕は体勢を崩して頭から崩れ落ちる。あ、まずい。
そこには急勾配が待ち受けていた。通常とは上下逆の体勢で滑り台に落下した。見上げる視線の先に冷ややかな笑みを湛える悪魔がいた。しかし、その姿はあっというまに遠ざかる。自分の絶叫が聞こえる。そして、意識までもが遠ざかっていった。
「本当に、申し訳ありませんでした」
おばさんが、深く頭を下げていた。これで何度目だろう。
相手は僕らの騒ぎに駆けつけてきた祭りの係員だった。僕らは、しこたま怒られた。そこにおばさんが駆けつけ今の状態だ。
「あんたたち! 一体、なにをやっているのよ!」
おばさんが問題を起こした僕らを叱りつけた。
「おばさん大丈夫? 兎に角いったん落ち着こうよ。顔が赤いよ」
高熱にうなされる病人のように紅潮していた。僕は心配してそう声をかけた。
「いったい、誰のせいだと思っているの!!」
逆に怒鳴られてしまった。
頭から滑り落ちたのは確かに僕だ。しかし蹴り落としたのはエリカだ。なので僕は悪くない。そう思ったが、あえてそれを口には出さなかった。
ふと氷像が目に入った。あれを砕いて、おばさんの額に当ててあげれば、この怒りは収まるだろうか。本気で思案する――。
痛っ! 僕が余計な口を滑らせそうな雰囲気を感じたのだろう。エリカが足を踏みつけてきた。ほんとなんでこんなに暴力的な女なんだろう。
「さっ、気を取り直して、次はスケートでもしようか? 靴はレンタルすればいいし」
会場の運動公園には四百メートルトラックがあった。冬は、そこがスケートリンクとして市民に一般開放されている。
「たしか、靴のレンタルは一回無料だったよな」
「そう、先月リンク作るの手伝わされた、その特典」
「普段は靴を持参するから使う機会がないと思っていたが、ちょうど良かった」
実はリンクを作るのは、さほど難しくない。
グランドに雪が積もると人海戦術で雪を踏み固め、円周状の地盤とする。次に、雪を集め外周と内周部の土手を盛る。そして、それも踏み固める。夜になったらリンクに水を撒く。すると朝方には、それが凍りついている。
最初は、氷の層も薄い。雪の地盤も真っ平らではないため、氷の表面はでこぼこだ。だが、この水撒きを毎晩繰り返すと氷の層は徐々に厚くなる。窪みも徐々に水で埋めらていく。数日も繰り返すと真っ平なスケートリングの完成だ。
氷点下のスポーツ文化は、現在まで絶えずに継承されていた。
「えー、今日は止めようよ。スケートは春先まで営業しているじゃない。いつでもできるよ。せっかくの、雪まつりなのに」
秀人は予想通り渋い顔を示した。基本的に運動が苦手なのだ。
エリカは言うまでもない。刃が細く安定性に乏しいスピードスケートの靴。それでもトリプルアクセルを難なく決める程の実力だ。
「練習しないと、いつまでたっても上手く滑れないぞ」
「でも、ちゃんと準備してからじゃないと」
「だいたい、摩擦とかモーメントが何とか考えているから駄目なんだよ。こういうのは兎に角、頭で考えないで何度も繰り返して体で覚えるんだよ」
隣で頷くエリカ。珍しく同意見のようだ。乗り気でない秀人の意見は採用されなかった。おばさんも僕の提案に賛成したからだ。
おばさんには別の理由があるようだ。同じ所を繰り返し周るスケート。その方が問題児を監視するのに都合が良いと考えたようだ。問題児とは心外だったが。
「それじゃ、気をつけて楽しむのよ。私はちょっとお手洗いに行ってくるわね」
「あ、俺も先に行ってくるわ。靴を履いた後で行きたくなると、脱ぐのが面倒くさいからな」
二人に先に滑っているように告げる。リンクの近くに併設されている総合体育館の便所へと向かう。
ほんとは屋外で雪を溶かしながらする立小便が、最高に気持ちが良いんだけどな。あの開放感と立ち上がる湯気が、たまらない。
でも、さすがにスケートリンクの土手に向かって、それをするわけにもいかなかった。そんなことしたら、おばさんの顔が真っ赤に膨れて破裂してしまうだろう。
「翔。そんなに急がなくても、時間はたっぷりあるわよ」
「だって、スケートを上手く滑れるようになった姿を、早くおばさんに見てもらいたいんだよ」
「あら、そうなの」
「あーでも、エリカと比較したら駄目だからね。あいつは規格外だから」
「そんな事しないわよ。したことないでしょう。翔が、どのくらい上達したのか楽しみだわ」
おばさんの手を引いて体育館までの坂を登る。楽しそうな僕らの姿は、どこから見ても本当の親子のようだと思う。
体育館の入口に着いたところで、後方から歓声があがった。後ろを振り返ると、リンクに人だかりができていた。その中心にエリカがいた。彼女は華麗なる氷上の舞で周囲を魅了していた。
あれっ、秀人が見当たらない。あ、いた。あいつはあんなところで何をしているんだ。リンクの端で一人ぼーっと突っ立っているのだ。まだ立つのもやっとなのかよ。今日は特訓だな、と決意した。
さっと用を済ませ手を洗う。い、痛ぇ。凍りつくような流水だった。触れるだけで指先に痺れたような痛みが走る。
顔を顰める僕をサイレンが包む。な、なんだ。発生源は外のようだ。
すぐに地響きが続き体育館が軋む。屋内外で多くの叫び声が上がっていた。また地震か――。
濡れた手を振りながら、トイレを飛びだした。まずは館外に避難しなくては。
館内の人達が一斉に出口に向かって走りだしていた。雪祭りということで、ごった返しの館内。外へ出ようと殺到する人々で、出口辺りで完全に詰まっていた。
「皆さん落ち着いてください! 押さないでください! 走らないでないでください! 焦らず、速やかに館外へと避難してください!」
体育館の係員が声を張り上げて誘導する。が、効果はほとんどなかった。体育館が揺れるたびに色めきだつ人々。悲鳴や、そこをどけ、というような怒号があちこちであがっていた。
ひ、酷いな、これは……。
突き飛ばされた人が床に倒れ込む。そして、その倒れた人に足を躓かせ他の人が転ぶ。倒れた人の手足が踏まれ悲鳴があがる。
まさに場が混沌としていた。未曾有の大災害とシェイドの襲来。これが人々の心を蝕んでいた。想定外の事態にパニックを起こしやすくなっていた。
幸いトイレは体育館の入口の脇にあった。つまり出口のすぐ側である。それでもなかなか前に進まない。僕は、苛々した。何やっているんだよ。
館外へ真っ先に避難した人達のせいだ。出た先で固まったように立ち止まっているのが原因だった。僕は人だかりを押し分けて進む。体は小さいが力には自信があるのだ。
ふう、なんとか玄関口まで辿り着いた。外の状況を確認する。総合体育館は他の施設より一段高く、周囲がよく見渡せる位置にあった。
祭りに参加していた群衆が、一方向に移動していた。会場の奥から入口へと向かっている。秩序だってというよりは、我先にと雪崩を切ったような状況だった。
人々は頻繁に後ろを振り返る。そしてその都度、恐怖に引きつった表情を深めていた。
みんな何を見ているんだ。様子が気になった僕は、皆が振り返る方向に目を向けた。
巨大な雪像が、会場に向かって来る。いや、違う。雪像は白だが、あれは真っ黒だ。そしてその像の頭の上では、何かがうねうねと動いていた。
進行方向にあった数軒の民家にぶつかった。しかしそれの勢いが弱まることはなかった。民家が激しい音と振動をたてて崩れ落ちただけだ。
これは新しい冬祭りのアトラクションだろうか。そう思ってしまった。いや、そう思いたかった。
その淡い期待は、一瞬で打ち消された。周りの大人達が口々に叫んだのだ。
「シェイドだ!」と。
そのフレーズを耳にした僕は思考が停止する。目の前に近づいて来るにつれ、それの異様さが一層際立つ。恐怖のあまり、僕は軽いパニックを引き起こしていた。
は、早く逃げないと! 慌てて逃げ出そうとしたが立ち止まる。大事な事に思い至ったのだ。
「そうだ! おばさんはどこだ!」
一緒に来たから、まだ近くにいるはずだ。僕は子供だから隙を縫って出られたけど、おばさんは未だここまで辿り着けていないはずだ。
とりあえず体育館の出口の端へと移動しよう。このままここにいると、館外に避難する人に押し流されてしまう。
飛び出して来る人々を目で追い続ける。
「あ、いた! おばさん!」
二、三分ほどで探し人を発見した。人の波に押し流されながらも、心配そうな表情を浮かべて左右を見回していた。
「おばさん、ここ、ここだよ!」
大声で飛び跳ねながら手を振る。おばさんは直ぐに気づいた。人に揉まれながらも僕の側に駆け寄ってきた。
「翔……。ああ、良かった、無事だったのね。でも、この騒ぎは一体何なの」
「シェイドの襲来だよ!」
「た、大変だわ! エリカとヒデちゃん、大丈夫かしら! 探さないと」
「あの二人なら大丈夫だよ。とっくに逃げているって。こういう時は行動が早いんだから」
「で、でも私達を待っているかも」
「いいから、ぼーっとしてないで、早く逃げよう!」
迫り来るシェイドを視界に収めた、おばさん。恐怖に顔を歪めると僕の手を強く握り締めた。僕らは会場の出口へと向かって夢中で走った。
背後からうなり声が迫る。何かが割れるような音が響いた。何事かと振り返る。漆黒のイソギンチャクの化け物が、こちらに向かって突き進んで来る。
苦心の賜物であった冬の作品が踏みにじられていく。氷の滑り台も割れるように崩れていくのが見えた。ああ、勿体ない。こんなときなのに、僕はそんなことを考えてしまった。
「翔、もうすぐ出口よ! 出たら左に逃げるわよ」
「わかった!」
祭りの会場の一本道を必死に走る。会場の出口はすぐそこだ。外に出れば好きな方向に散って逃げることができるのだ。
「おばさん! 急にどうしたの! 早く左に逃げようよ!」
会場を出て左へ走ろうとしたが、おばさんの背中にぶつかってしまった。立ち止まっていたおばさんを急かす。だが、僕もそれを見てしまった。
「あ、ああ……。もう駄目だ」
目の前に絶望が広がっていた。灰色だった雪は真っ赤に染め上げられていた。
赤い雪面に転がるのは、恐怖に引き攣った多くの顔たち。会場の入口付近の両脇には雪山があった。それのせいで、大きな死角ができていた。
会場を出たその場にも居たのだ。別のイソギンチャクが、僕らを待ち受けていた。
自らに向かってくる人々を無数の触手で絡めとる。その場に悲鳴だけが残され、イソギンチャクの頭頂部へと次々と飲み込まれていった。
効率良く捕食されていく群衆。さながら追い込み漁にひっかかった魚群のようであった。
僕は頭の中が真っ白になっていた。ただ、呆然とその場に立ち尽くしていた。両手を強く握りしめられる感触で我に返った。
「翔、聞いているの!」
おばさんは、いつのまにかしゃがみこんでいた。僕の瞳を真正面から見つめていた。おばさんの瞳には一切の怯えはない。強い決意が宿っていた。
「私が囮になるから、あなたはその隙に逃げるのよ」
「え……。だ、だめだよ! 一緒に逃げよう!」
おばさんは黙ったまま、首を横に振る。
「まずは、エリカとヒデちゃんと合流しなさい。あとは避難訓練の通りよ。駅を目指しなさい。駅までいけばなんとかなるわ。大人の指示にちゃんと従うのよ」
「そんなの無理だよ! 二人とも何処にいるのかもわからない! おばさんがいないと逃げれないよ!」
ぐずる僕を、おばさんは引き寄せる。強く抱きしめると、ゆっくりと優しく僕の頭を撫でた。スノーウェア越しであったが、おばさんの温もりを感じた。
「私はずっと、翔を本当の息子だと思ってきたわ。それはこれからも変わらないわ」
「お、おばさん! なにを――」
「翔は強い男の子でしょ。だから、私の代わりにエリカの事を守ってくれる?」
「だから何を言っているの!」
「あの娘、見かけはきついけど、案外脆いのよ。口下手だしね。支えてあげて頂戴ね」
「お願いだから、一緒に逃げてよお……」
いつのまにか泣きじゃくっていた。おばさんは、そんな僕をしばらく抱擁する。そして名残惜しそうに体を離した。最後は、いつもと変わらない優しい微笑みを浮かべていた。
逃げ惑う人々を食い散らかしていたイソギンチャク型のシェイド。奴はすでに僕らの目前にまで迫っていた。
おばさんはすくりと立ちあがる。その表情は引き締まっていた。そしてシェイドに向かって左斜めに走りだした。その手には拳銃が握られていた。護身用として外出時に常に身に着けていたものだ。
「行ったらだめだよ! 僕を置いていかないでよ!」
おばさんはシェイドから一定の距離を保ちつつ、拳銃の引き金を引いた。乾いた発砲音とともに、甲高い音が響いた。それは軟そうな外観とは似つかわしくない音だった。
イソギンチャクの皮膚は岩石のように硬かったのだ。弾丸は、外皮に傷の一つ付けることすら叶わない。それでも化け物の意識は、おばさんに向けられた。彼女の目論見は成功したのだ。
「翔、いまよ! 右に逃げて!」
僕の耳にその声は確かに届いていた。だが、足に力が入らなかった。膝がガクガクと震える。瞳孔だけが、おばさんの動きを無意識に追っていた。シェイドから距離をとったまま、さらに一発撃ち込もうと銃を構える。ヒュッという音がした。僕の視界から、おばさんの姿が忽然と消えた。
「えっ、お、おばさん、どこ!」
イソギンチャクが、こちらに近づいて来る。まるで何事も無かったかのようだ。途中、イソギンチャクが何かを吐き出した。
足元に転がってきたそれは、最愛の人の顔だった。喉から音にもならない悲鳴が漏れる。僕はパニックを引き起こす。
毎日、美味しいご飯を作ってくれる、おばさん。
両親を想い寂しく寝つけない夜に、枕元で絵本を読んでくれた、おばさん。
忙しい家事の合間を縫って、いつも遊んでくれる優しい、おばさん。
悪い事をするとすごく恐い、おばさん。
物心ついた時から、ずっと深い愛情を注いでくれた。
ぼくの大切な――
「お母さん!!」
照れ臭くて一度も呼べなかったその言葉が、無意識に口をついた。
目の前の存在が憎い! 体の芯から怒りが湧き上がる。体が燃えるように熱い。こめかみが痛くて頭が割れそうだ。なぜか視界もぼやけていく。
精神が軋み肉体にまで影響を与えているようだ。それでも怒りは止めどなく高まっていく。ついには、超えてはいけないラインを超えてしまった。
そして、僕は意識を失った。
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