第一章 遭遇

第一話 『ソレ』

 左の頬から耳にかけてじんじんとする。その鋭い痛みが、少年の意識をまどろみの中から現実世界へと引きあげる。

 僕は、どうやら眠っていたらしい。

 目を開けようとした。しかし、両瞼が糊でくっついたかのように離れない。戸惑いを覚えつつも瞼に力を込める。僅かな痛みとともに瞼が離れた。ゆっくりと明るい光が目に入ってくる。


 顔から数センチ先で視界が遮られた。なにやら球状の物体のようだ。視点がなかなか定まらず、ぼやけて見える。目を凝らすとそれの輪郭が次第に定まってきた。

 実際には、それは球というよりは楕円形。そして赤のまだら模様だった。それが緑灰白の地面の上に無造作に転がっていた。

 僕はそれに見覚えがあった。しかし何かが記憶とは異なっていた。一体どこが違うのだろうか。いまだ覚束ない頭で暫し考えこむ。

 

 そして、思い当たってしまった。

 ああそうか。いつも僕に向かってにこやかに優しく笑いかけていた顔に違いない。でもおかしい。顔だけだ。首から下が無いじゃないか。

 横向きに転がるその首筋からはぽたぽたと雫が垂れていた。締め固まった緑灰色の雪面が、じわりじわりと鮮やかな赤へと侵食されていく。雪との境界からは僅かに湯気が立ち上る。それは少し前まで生きていた証左に違いなかった。


「ああっ! お、おばさん――」

 

 それは僕の育ての親ともいえる女性の成れの果てだった。緩慢だった意識が急速に覚醒していく。あまりの衝撃に僕は反射的に体を引き起こす。


「うっ――」


 鋭い痛みに呻きをあげずにはいられなかった。どうやら地に横たわっていたようだ。

 僕の左顔面は締め固まった雪面に張り付いていたのだ。急に起き上がったらどうなるかは想像に難くない。当然、顔の皮が剥がれそうになった。

 ヒリヒリと痛む頬を手で温める。皮膚が真っ赤になっているに違いない。凍傷の一歩手前だ。

 糞っ、なぜだろう。右のこめかみ辺りまでも痛い。こちらはどちらかというとズキズキという鈍い痛みだった。

 

 左手で頬を、右手でこめかみを押さえ痛みに耐える。

 重い体を鞭打ち、よろよろと立ち上がった。いまはこんな痛みを気にしている場合じゃ無いのだ。

 自分の置かれている状況を把握するため、周りを見渡す――。


「な、なんだよ、これ!」 


 そこかしこに、おばさんと同じ形のものが無数に広がっていた。あまりにも凄惨な光景に悲鳴が口をつく――。

 しかし、僕の悲鳴は僕の耳に届くことはなかった。大きなうなり声がそれを掻き消したのだ。

 鼓膜を強く圧迫する音に反射的に体が動く。両手で耳を塞ぐ。そして恐る恐る音の発生源へと顔を向けた。


 視界に映るのは二十メートル幅の大通り。勾配が徐々に急になる下り坂。それが真っ直ぐと伸びていた。二百メートルほど先の道路の中央。そこに『ソレ』がいた。

 十メートルを超す巨大な物体。その表面はうっすらと透明がかっていた。足元は薄い紅色。上へと向かうにつれて段々と漆黒に染められていく。

 ソレの上端に黒い何かがゆらゆらと蠢いていた。夥しい数の漆黒の触手だ。そのシルエットは正に陸にあがった超巨大なイソギンチャクだ。


「ぁ……」


 掠れた声しかでなかった。『ソレ』の足元もまた僕の周りと同じ状況だった。

 灰白色のキャンパスのあちこちに赤のインクが飛び散っていた。魂の抜かれた残滓が雪面を埋め尽くしていた。ただ違うこともあった。ソレの周りには未だ多くの命が残されていた。


 逃げ惑う人々は『ソレ』から必死に距離をとろうとする。しかし、それは叶わない。なぜなら行く手が立ち塞がれていたからだ。

 二メートルほどのイソギンチャクの群れだった。巨大な『ソレ』を中心にして直径二十メートルほどの円を形成していた。つまり獲物を取り囲んでいた。


 その包囲網を無謀にも潜り抜けようとする若い男がいた。しかしその試みは直ぐに阻止された。多くの細い触手が男の体に絡みついた。そして無情にも『ソレ』の近くへと放り投げられた。どうやら一人たりとも逃がす気がないようだ。


 『ソレ』から次々と伸びる太い触手。逃げ惑う哀れな獲物へと巻きつく。人々を易々と持ち上げ『ソレ』の上端部へと連れ去った。大きな黒い口が待ち受けていた。

 人々は成す術も無い。悲鳴とともにその深い闇へと吸い込まれるように消えていく。獲物を飲み込むたび、『ソレ』の巨体がブルっと一揺れする。まるで餌を口にして歓喜する雛鳥のようだ。


 直後、『ソレ』の体の上部に漆黒の線が生じた。その線は下へ向かって波打つように流れていく。線は薄くぼやけていき薄紅色の足元に届く前には消えた。

 そしていつのまにか『ソレ』の表皮に占める漆黒の割合が増加していた。どうやら人を捕食するにつれて闇が濃くなるようだ。


 ブシュブシュっという音がして、『ソレ』の下から透明な液体が排出された。温度が高いのか雪が溶けて湯気が上がっていた。

 そして最後に体の両側面から何かを吐き出した。丸い塊が小気味よく宙を舞う。続け様に地面に落ちると不規則に転がっていく。それらは恐怖と絶望で歪んでいた。


 あまりにも凄惨な光景だ。僕は唖然として立ち尽すことしかできなかった。ただなぜだろう。この光景には見覚えがあった。そんな思いを抱く僕を大きな爆発音が襲った――。

 驚いて体が飛び上がりそうだった。咄嗟に音がした方へと振り向く。


 少し先の四階建ての建物が砂煙をあげて倒壊していくところだった。砂煙の奥にゆらりと動く大きな闇。這い出したのは『ソレ』の同類。触手をうねらせ、ゆっくりとこちらに迫り来る。


「シェイド!」

 僕は無意識のうちに『ソレ』の名を口走っていた。

 恐怖と憎しみの入り混じった瞳でシェイドを睨みつける少年。その瞳は薄緑色に輝いていた。

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