第12話

 ピスカは建物の前に立ち止まっていた。都市エリツヘレムでは大祭司の家にしか設えることが出来ない飾り。それが戸口に掛けられていた。ユイルの足音に気づいたのか、ピスカは肩越しに振り返った。けれど一瞥しただけで、再び顔は扉に向く。

 確認もせずにピスカは扉を開けた。中で灯されていた燭台。それが置かれている机。そして本棚に台所。置かれた器や書物。すべての物がここで人が生活していることを知らせた。敷き詰められた石に足跡できる。扉をしめると、風で揺らいでいた炎がとまった。衣服の裾からは水が滴っている。

 ユイルは視線を巡らせた。棚のある一点で目がとまり、そこから畳まれた布を取った。

「ピスカ、これ」

 差し出した布に視線が落ちる。そして無言でピスカは受け取った。顔を拭き、頭を拭き、腕や、脛についた雫を落とす。水を吸収し重くなった布を地面に落とし、今度は自分の衣服を絞った。大量の水がピスカの外套や衣から流れ出る。

 ユイルも同じように身体を拭きながら、周りを観察した。見覚えがある。調度品や飾りつけ、そしてその配置などは見たことがあった。

「ピスカの家と似ているね」

 なおも視線を巡らせる。部屋は一つのようだ。けれどもここで住む人影は見当たらない。

「どこにいるんだろうな」

 その問いにはこたえずに、ピスカは壁に立て掛けておいた剣を握った。そして部屋の隅に歩き、そこにある地面の一部を蹴っ飛ばした。木の板が音をたてて外れ、下に続く道を露呈させた。

「あいつと同じ方法よ。こうやって隠れて玩具を造ってたんだわ」

 ピスカの剣柄を握る力が強まり、震えた。降りようとしたピスカに声を掛ける。

「持とうか?」

 剣を握ったまま梯子を降りることは難しい。けれどもピスカはその提案を断った。

「玩具の手なんて借りないわ」

 そう言うと、剣身が身体に当たらないように逆手で持ち、降り始めた。ユイルは掴むものをなくした腕をそのまま下ろした。

 明かりのないなか手探りで下りた。

 地面に足をおろすと、ロイの製作所と同じように扉が一つあった。そこから漏れる光と、何かが動く音。人がいるのだろう。エリツヘレムを破壊し、人々を傷つけ、そして殺した元凶である大型玩具。それを街に送り込んだ人物が扉を隔てた向こう側にいる。

 剣を握る小さな手が震えていた。ユイルはそれを見る。剣を奪い、ピスカの動きをとめることは簡単に出来ることだった。けれどもそれをするべきかどうかが、ユイルには判断することが出来無かった。

 ピスカは扉を開ける。室内は想像とは異なって暗かった。大空間を照らす灯火は僅かに備え付けられたもの。故に何が置かれ、そしてどの程度の広さなのか正確に知ることは出来なかった。

 空気が変だ。ユイルは手の甲で口許を覆った。地下特有の臭いなのだろうか。けれども、ロイの場所ではしなかった臭いが鼻腔を刺激した。

 その中で動く一つの人影。ユイルたちが入ってきたことにも気づいていないのか、作業を黙々と続けている。切っ先が地面を叩き、音が響く。男だろうか。その影は動きをとめて背筋を伸ばした。

「やっと会えたわ」

 ピスカは剣で地面を傷つけながら進む。

「なんでわたしの村を襲ったのかとか。どうしてわたしのユイルを殺したのかとか。もうどうでも良くなっちゃった。ただね」剣先を男に向けた。「死んでくれれば、それでいいのよ」

 ピスカは剣を構え、足裏に力を込める。その動作を見て、ユイルの身体は自然と動いた。ピスカをとめなくては、と腕を伸ばす。がその手が届く前に、ピスカは自ら剣を落とした。

 主を無くした剣が地面を転がり、とまる。

 ユイルは顔をあげた。ピスカは揺れる腕を持ち上げて、震えた掌で口許を覆っていた。目は見開き、長い睫毛が揺れる。乱れた吐息が喉を震わせていた。

 ユイルは首をよじって男を見た。誰だろう。知っている人なのだろうか。男は眉をよせて、覗き込むようにピスカを眺めた。その目が見開き、確認するように訊ねた。

「もしかして、ピスカか?」

 この男は誰なのだろう。皮のサンダル。赤よりも黒に近い色で染色された外套。それは都市エリツヘレムの祭司の職服と良く似ていた。飾り帯は少し膨らみ、何かが挟まっているのが分かる。そして蓄えられた髭と、やや伸びた髪。その色は白色だった。

 何者なのか、というユイルの疑問がすぐに解かれた。

「父上……なのですか?」

 ピスカの口を覆っていた手がさがり、小刻みに動く唇が声を出した。ピスカはその言葉と共に父上と呼ばれた男に駆け寄った。そして勢いそのままに抱きつき、胸に顔を埋めた。

 ユイルは状況が飲み込めずに、ただそれを眺めていた。

「父上……ほんとうに父上なのですか?」

 と、ピスカは頬を擦り寄らせながら訊いた。

「お前が私の知っているピスカ本人だとするなら、私は父親と呼ばれる存在になるだろうね」

 父上は小さな頭の上を撫でた。湿った髪の毛が水を地面に垂らす。

「ピスカです。わたしはピスカです」

「そうか。久しぶり、だな。外は雨が降っているのか」

 父上は髪を摘み、それを眺めた。そして視線がユイルに向く。

「なら、そっちはユイルか? 大きくなったな」

 目を細める父上。その声と眼差しは、なぜか以前感じたことがあるように思えた。ピスカの頭が父上の身体から離れ、ユイルを向いた。

 二人の視線を受け、戸惑ったようにユイルは一歩下がった。なぜこの人は僕の名前を知っているのだろう。ピスカが視線を落として小さな声で言った。

「あれは玩具です」

 父上の目の端が緩む。

「ああ、分かってるさ。確かに感じるものが人のそれとは異なるからな」

 ピスカはさらに頭を垂れた。足元には小さな水たまりが出来ている。

「さすが私の子どもたちだ」

 父上は言い放った。ユイルの体躯をつぶさに調べるような視線。ユイルは気味が悪くて体重を後ろに掛けた。衣服の裾から雫が落ちる。

「おおそうだ。風呂に入ってみてはどうだ? ピスカもそのままだと風邪を引くかもしれないしな」

 父上は何かに気づいたようにそう言った。

「それはなにをする場所なのですか?」

 小首を傾げるピスカ。父上の前面は水で濡れた部分が色合いを濃くしている。

「衣服をすべて脱ぐ場所さ。ああ、温かい水で身体の疲れを癒す場所でもあるな」

 ピスカの表情が明るくなる。

「はい! ぜひ入ってみたいです」

 そうか、と父上はユイルを眺めながら擦り寄ろうとする小さな頭を撫でた。

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