BOOK
中村 繚
1月1日から3月31日まで
01 長靴を履いた猫×ピノッキオの冒険
01-①
日常が非日常になる1年間が始まる。
その1年間を語るにあたり、物語の始まりをどう切り出せばよいか悩むところであるが、物語はいつも「昔々」から始まるのでこのフレーズから始めよう。
「昔々」――あるところに、不思議な白い【本】がありました。星の数ほどの【本】は、コノ世に存在する星の数ほどの物語を書き記した不思議な不思議な【本】でした。
ある一冊の【本】に登場する姫は、月の世界からやって来た輝かんばかりの美しい姫。その姫がただ1人の勝者に与え賜るのは、不死の薬……50年に一度、人々は【本】を手に不死の薬を求めて非日常の中へと飛び込んでいく。
「昔々」――202X年1月某日。
1年間は、新年を迎えたその瞬間から始まる。世界には物語が溢れ、読者が望めばそれは現れる。
魔法のような現象も、架空の生物も化け物も、想像すれば創造される。
陸を走る丸太のいかだも、人間の口から吐き出される無数の石も。
真冬に萌える緑の植物も、銃口からぴょんと飛び出る初々しい若葉も。
操り人形のように糸に絡まる人間も、巨大な鬼に相応しい巨大な金棒も。
真夏の南半球の銀世界も、若い女性の腕の中でこと切れる小さなごんぎつねも。
2人の【読み手】と二冊の【本】が邂逅すれば、日常は非日常の物語に塗り潰される。
「地の果てまでも、奴を狩る……!」
「こんなものなのかな。正直、拍子抜けした」
「思ったより、ハードだね」
「始まったばかりだよ。姫を巡る【戦い】は」
物語の終わりは、この言葉で締められる。
お決まりのフレーズとともに本は閉じられ、物語の世界から日常へと帰還するのだ。
「めでたし、めでたし」
否、まだ【本】を閉じることはできない。
非日常の1年間は、輝く姫を巡る物語は、始まったばかりだ。
***
202X年1月14日――
東京都こよみの市の外れに位置する月山寺において、
喪主は故人の娘である
夫に支えられながら遺骨を大事そうに抱えるその隣で持つのは、彼女の息子であり故人の孫である彼――
暦野北高校1年生。まだ16歳の彼にとって、葬儀に参列する機会と言うのは滅多になかった。以前に参列したのは10年前、蔵人の妻である祖母が亡くなった時だ。
あの時はまだ幼かったため、祖母が亡くなったと言う実感もあまりなかった。両親と祖父が酷く悲しんでいる空気を感じ、祖母にはもう逢えないと言う事実を徐々に感じ取り……この月山寺にて大声で泣いてしまったことだけは覚えている。
読人にとっては二度目の経験。敬愛していた――大好きだった祖父の死が、長い前髪で隠れた彼の目に暗い影を落としていた。
黒文字家の墓に彫られている名前は、祖母の名前と読人が産まれる前に亡くなった伯父の名前だけ。もう少し経てば、ここに祖父の名前も並ぶ。まるで、新しい住居に表札を立てるように。そこが次の家であると言わんばかりに。
今年の冬は暖冬と言われていたが、その日は雪が降っていた。パラパラと降る雪は、読人の制服にも落ちて来る。
父の黒いネクタイを巻いた濃紺のブレザーに白い粒が落ちると、彼の体温によって一瞬で水になってしまった。
「読人、お前も」
「……うん」
蔵人の死因は急性心不全であったが、何かがあった時のために言付けのような遺言を残していた。その中に、自分の骨は四十九日を待たずに墓へ納骨して欲しいと認めてあった。
骨壺の中の遺骨を生前縁のあった人々が一つ一つ、箸で摘んで墓に納める。
父から箸を受け取った読人も、バラバラの小さな欠片となってしまった祖父の、その中でも小さな一つを摘まみ……ゆっくり箸を動かして、ポッカリと空いた墓の中へと落とした。
「バイバイ、おじいちゃん」
黒文字蔵人、享年77歳――
生前は大学教授を長く勤め上げて文学に関する数々の本を出版し、その道では中々の有名人であった。
引退後も本に囲まれながら孫を可愛がって余生を過ごした。
読人も祖父が大好きだった。おじいちゃんっ子と言って差し支えないほど蔵人に懐いていた。読人が一番尊敬していたのは祖父の蔵人であったのは間違いない。
だから、亡くなったと実感したその日は、自分の部屋でみっともなく大泣きした。
あれだけ泣いたのだから、この納骨ではもう涙は流さないと決めていた。笑顔は無理だけど、せめて……幼いあの頃、祖父の家を去るあの時のように別れを告げたのだった。
翌日、ちょっと遅めの時間に自室で目を覚ました読人は、ゆっくりと階段を下りて洗面所へ向かう。本来ならば、冬休みも成人の日もとっくに終わってしまった平日であるが、忌引きやその他諸々の後始末のため今週いっぱいは高校を休んでいた。
顔を洗ってからリビングへ向かうと、母がボーっとテレビを眺めながら椅子に座っていた。父は昨日の後始末やらのために家を出た後のようだ。
「おはよう」
「おはよう読人。お味噌汁、温めるわね」
「うん」
いつも通りに振る舞っているかもしれないが、やはり母に元気がない。父を亡くしたのだから当たり前だろうが、なんだかこちらの調子が狂ってしまう。
朝食のおかずは思いっ切り手を抜いて、昨日の葬儀の食事会で出た折詰の中身をレンジで温めただけ。油まみれのべしゃべしゃになってしまった海老の天ぷらは、あんまり食べたくないので箸を付けないことにする。
「読人」
「何?」
「今日、先におじいちゃんの家に行って。お母さん、ちょっと調子が悪くて……少し、休んでから行くわ」
「……分かった。無理、しないでね」
「うん」
「母さん」
「何?」
「おじいちゃんの本、何冊かもらっても良い?」
「良いわよ。読人がもらってくれれば、おじいちゃんも喜ぶと思うわ。それも仏壇と一緒に運び込みましょう」
「うん。先に行って、どの本を持って来るか決めておくよ」
今日の予定は祖父の家の片付けだ。家主の急死により、色々のところが手付かずのまま放置されてしまっている。それに、あそこに置いてある仏壇も移動するので、粗方片付け終わったらトラックでも借りて読人の家に運び入れなければならない。
母が温め直した味噌汁に口を付けると、中から甘海老の頭がこんにちはと突き出ていた……他の具は細切りの大根、つまりツマである。どうやら刺身を再利用したらしい。意外と出汁が出ていて美味しかった。
今日は昨日と比べて暖かいので、コート一枚で良いだろう。マフラーもいらない。
昨日の雪は直ぐに溶けてしまって積もらなかったので、読人はいつものように自転車を引っ張り出して蔵人の家へと向かった。
最寄りの駅から電車で一駅。車で10分足らず。自転車ならば……赤信号の連鎖に引っかからなければ、20分ぐらいで到着する。幼い頃から通った築30年の黒文字家の庭に自転車を置いた。
読人の家にあるこの家の鍵には、貝でできた鈴のキーホルダーが付いている。それをからからと鳴らして家の鍵を開けると、玄関には主を喪った上質な皮靴がきっちりと並んでいた。何となく下駄箱にはしまいたくなかったので、母と読人は蔵人の靴をそのままにしておいたのだ。
「おじいちゃん、来たよー」
いつも癖で……条件反射のようにその言葉が出て来て、読人は蔵人の家に入った。脱いだスニーカーはきちんと揃えた。
蔵人は孫を可愛がったが、甘やかしはしなかった。
スニーカーを脱いで揃えずに家に上がると、どこからともなく湧いて出て来るように玄関に現れては、「靴を揃えなさい」と言わんばかりの無言の圧力をかけていたものだ。
祖父の躾はしっかりと身に沁み込んでいた。
まさか、今もどこからか現れるのではないかと警戒したがそんなことはなかった。この家は無人だ。もう、そんなことはないのだ。
スニーカーをきっちり揃えて読人は蔵人の書斎へと向かった。
大学の文学部の教授であった彼の書斎は、出入口と窓を除いた壁の四方が本棚でできていると言っても過言ではないほど本に溢れていた。そこには一枚のローテーブルと、質の良い黒檀でできたデスクと座り心地の良さそうな大きな回転椅子が置いてある。
幼い頃から、読人はこの書斎に入るのが好きだった。遊園地やゲームセンターに行くよりも、蔵人に導かれてこの書斎の扉を開ける方がよっぽど楽しかったのだ。
「全然変わってないな、おじいちゃんの仕事場は」
学術論文にエッセイに小説。小説だって、推理小説にノンフィクション、コメディ、ホラーも恋愛小説も何でも揃っている。勿論、幼い頃の読人が読めるような童話も絵本も、ちゃんと読人専用本棚に几帳面に並べられていた。
この書斎にない本は最近人気の漫画コミックぐらいだろう。蔵人は漫画を嫌ってはいなかったが、物語が文字の羅列のみで綴られた本その物が彼にとっての特別であったようだ。
読人は何気なく、本棚に収められている一冊の本を手に取った。
タイトルは『ライ麦畑でつかまえて』――中学生の頃に読んだきりで、大雑把なあらすじしか覚えていないその本をパラパラめくりながら、祖父の椅子に座り込む。
書斎の椅子は小さくギシリと音を立てると……薄手のカーペットの上に、カランと何かが落ちた音がした。
「? 何か、落ちた……鍵?」
落ちていたのは一本の鍵だった。家の鍵ではない。机やキャビネトの鍵のような小さな鍵には、黄色く変色したセロテープが貼られている。
椅子の下を覗き込んでみると、キャスターの付け根にセロテープの跡を発見。どうやら此処に鍵を貼り付けていたようだ。
何の鍵だろうか?まるで、隠されるようにしまわれていたこの鍵は?
鍵のセロテープを剥がして鍵を見詰めていたら、甲高いインターフォンの音が読人の耳に飛び込んで来た。
不意打ちの来客だったため、まだ椅子の下にいた読人は突然のインターフォンの音に驚いて椅子に頭をぶつける。
頭の痛みに数秒悶絶し、慌てて玄関へ走り件の鍵は咄嗟にコートのポケットに入れておいた。
「黒文字さーん、宅急便でーす」
「宅急便? は、はーい。今開けます」
「おはようございます。荷物でーす」
「おはようございます……あの、荷物ってどこから?」
「海外からです。受取書にハンコかサイン、頂けますか?」
伝票に書かれた国の名前は、なんとスイス……宛先は勿論、黒文字蔵人だった。
どうしてヨーロッパから宅急便が届くのか疑問にも感じたが、宅配業者を待たせるのも悪いのでボールペンを借りて「黒文字」とサインして荷物を受け取る。
しかし、本来この荷物を受け取るはずの人物はもういない。
伝票には「本」と書いているが、わざわざヨーロッパから本を取り寄せたのか?
読人は首を傾げた。ちょっと困った時とかに右手を首に添えてしまうのが彼の癖であるが、しっかりと右手を首に添えて困っていた。
「海外から取り寄せた本……あり得る、おじいちゃんなら。高価な初版本とかじゃないよね」
高価そうな物だった場合、本人がいなくなってしまった今となっては扱いに困る。
カッターを拝借して箱を開けると、中には本……ではなく、小型のジェラルミンケースが入っていた。ちょっぴり拍子抜けした。
ならば、このケースの中に本があるのかと思ったが、鍵がかかっていて開けられない。箱の中を探してみても鍵らしき物は入っていない、荷物の中身はこのケースだけだ。
「……まさか」
そのまさか、椅子の裏に貼られていたこの鍵がケースを開ける鍵なのでは?
あまりにもタンミングが良すぎるが、鍵穴のサイズは一致している。
コートのポケットから件の鍵を出した読人は、恐る恐るケースの鍵穴へ近付けて……ピッタリと合致した鍵を回せば、小さな音を立ててケースは口を開けた。
「やっぱり本だ」
やっぱり中身は本だった。
ケースを開けた読人が見た物は、B6版コミックと同じ大きさの白い装丁の本だった。立派で汚れ一つない白い裏表紙は金糸で縁取りされ、同じ金糸で本のサイズよりも二回り小さく長方形が描かれていた。
触るのに躊躇しそうになるぐらい綺麗なその本をしばらく眺めていた読人は、手汗を服で拭ってからゆっくりとその本を持ち上げる。ひっくり返してみると、表紙には流暢な筆文字で本のタイトルが書かれていた。その物語は読人も知っていた。否、彼だけではなく、日本で生まれ育った者ならば一度はその名前を聞いて、読んだ事もある物語だろう。
「『竹取物語』――」
それは、日本最古の物語……かぐや姫を巡る、『竹取物語』であった。
「にゃ~」
「っ、猫?」
「にゃ~お、にゃーん」
「この近所に猫なんていたかな?」
玄関の扉の向こうから猫の鳴き声がする。磨り硝子の向こうに大きな身体の猫の影が見えたのだが、読人の記憶ではこの近所で猫を飼っている家はないし、野良猫の気配もないはずだ。
哀情たっぷりな声で必死に鳴く猫を無視できない子である読人は、玄関の戸を開けた。
そこにはやっぱりちょっと大きな黒と白のハチワレ猫がいた、猫がいたんだけど……読人が現状をしっかりと理解する前に、磨り硝子が盛大な音を立てて粉々に崩壊したのだった。
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