狂人の妄執

 物音の正体を確認しようと足を踏み入れた途端、朱鷺乃ときのを突き飛ばすようにドアが閉まった。

 隣の部屋にはものみしかいなかったはず。仔猫が飛びついてドアにぶつかったところで、こんな勢いで閉まるはずがない。


「ものみですの? いたた……」


 妙な倒れ方をして、足をくじいてしまったようだ。

 暗闇の中、手探りでドアを開けようとするも、ノブが回らない。

 不運にも鍵が掛かってしまったのか。


「困りましたわね……」


 壁を手探りで伝ううち、見落としていたスイッチを探り当てたが、残念なことに明かりが灯る様子はない。

 ドア越しにものみがドアを引っ掻く気配が伝わる。

 誰かが気付いてくれるのを待つしかないと判断し、朱鷺乃は壁に背を預け座り込んだ。


 視覚情報を遮断され、他の感覚が鋭くなったのか、時折ちゃりちゃりと鎖が触れ合うような音が聞こえる。

 机に置かれている黒い本だろうか。

 窓もない部屋のこと。鎖を揺らすほどの空気の動きなど、あるはずもないのに。


 加えて何かを引き摺るような音と、微かな息遣いのようなものまで聞こえる気がする。

 闇が想像力を掻き立てているだけだ。そう自分に言い聞かせ、朱鷺乃は耳を塞いで膝に顔を埋めた。


 突然、轟音が鳴り響いた。

 強い揺れに書架に収められた本が落ちる気配。

 闇の中、しわがれた男の絶叫が響く。


『ガぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁあああッ!!』

「だれ?! 何ごとですの?! 地震?!」


 慌てて頭を抱え身を固める。

 幸い書架が倒れ掛かって来るようなことはなかった。

 轟音が治まったあと、朱鷺乃は奇妙なことに気が付いた。

 叫び声は依然室内で響き続けている。


『ぶるゥガぁああああぁっ!! ギぎゃああああああぁッッ!!』


 強い揺れは一段落ついたが、微弱な振動が続いている。

 獣じみた叫び声と、荒い息遣いが近づく気配がする。

 何も見えないまま、朱鷺乃は喉の奥で悲鳴を押し殺し、床を後ずさる。


「無事かッ!?」


 ドアを開け、さばきが明かりを付けた。

 闇が払われる刹那、狂乱の表情を浮かべた上半身だけの老人が、朱鷺乃の足に手を掛けようとしている姿が見えた。

 引き摺られる内臓が続くのは、鎖を巻かれた黒い本。

 幻影はすぐに消えたが、黒い本は微かに振動し、金属音を響かせ続けている。


「朱鷺乃。危険に巻き込んで済まない」


 膝を付き、朱鷺乃を気遣う裁の顔色は優れないままだったが、先ほどと違い、声や眼の輝きに力を感じる。

 その左手を貫き刺ささったままのペンに気付き、朱鷺乃は小さく悲鳴を上げた。


「たいへん! 慧士郎、早く手当てしませんと!」 

「問題ない、ただの眠気覚ましだ。アルハザードに意識を奪い尽されないよう、ここ数年まともに眠っていないからな」


 朱鷺乃を安心させるように笑顔を見せ、裁は無造作にペンを抜く。

 やつれてはいるが、昔憧れたままの、強い意志を感じさせる表情。

 ハンカチで傷の手当をしながら、朱鷺乃は不謹慎ながら安堵のため息を漏らした。


「あの本は……それに、いま幽霊のようなものがが見えたように思うのですけれども……」


 鎖を揺らし続ける黒い本を、気味悪そうに見やりながら朱鷺乃は問う。


「アブドゥル・アルハザード。今這い出しかけていた、あの亡霊の名だ。奴は死を恐れ、不死の秘術を完成させた。世界の終わりに不安を覚え、時の果てまで旅をした。この世の全ての知識に手を伸ばし、神とも呼べる存在に行き着いた」

「それは……信仰を得たということですの?」

「それなら話はまだ簡単だったかも知れないな。本物の神に触れたアルハザードは、震えて逃げて怯え抜き、最後にとうとう正気を手放した。恐怖を動機に探求を続けた者の当然の末路だ。狂った奴が始めたのが、全ての神を滅ぼす神殺しの計画。自分以上の存在を消し去れば、もう何も怖くないって浅はかな結論だ。その遂行に、どれだけの犠牲が必要か考えもせず。何でも小器用に出来ただけの、強欲で怯懦な、哀れむべき男だというのに」


 黒い本から威嚇するような唸り声が響いた。


「メンアと組んで仕事していたころ、残酷奸譎ざんこくかんけつで鳴らした人工神話編纂局じんこうしんわへんさんきょくの局長・ディー博士から手に入れたのが、そこの『黒の淵』だ。神がいつどこに顕現するか、何を仕出かすかが記されている。知ってしまった以上、ディー博士のような人物の手元に放って置くわけにもいかないと意気込んだが、それが奴の罠だった。アルハザードは『黒の淵』を手にした者を操り、脳内で神殺しの計画を叫び続け、完遂を強要する。あとは狂気へ一直線だ。ざまぁ無い。俺はアルハザードの次の器候補に、自ら手を挙げたって訳だ。もはやどこまでが俺の意志で、どこからが狂人の妄執なのか、区別することなどできはしない」


 神というものが、朱鷺乃が地下深くで目にしたような存在であり、崇拝か蹂躙かの選択を突き付けられたなら。

 高潔で勇敢な人間であれば、それでも抗うことを選ぶだろう。『黒の淵』はその選択ができる人物を誘き寄せ、自らの意思を奪い操り人形にする。

 朱鷺乃はアルハザードのそのやり口に、忌まわしさしか感じ得なかった。

 ディー博士も、おそらくその前の持ち主たちも。過去の亡霊の妄執に、決意と理念を利用された被害者だろう。


「俺の目的も神の顕現を阻止すること。結局はアルハザードの計画通りに事を進める他にない。アルハザードを封印で抑え付け、最低限の接触で『黒の淵』から必要な情報だけを得ていたつもりだが、本を手にした瞬間からアルハザードの影響を受けている。己の意志を保ち続けるには、深く眠ることも許されない。メンアは鳥の見張りで結界に籠り切り。フランチェスカは何か含みを持ってやがる。例え信頼できても、『黒の淵』を制し切れる者の心当たりもない。自刃し痛みで己を確信できるうちに、紅劾こうがいへ鍵を送ったが……俺に俺のままでいられると面白くない奴がいるようだな。紅劾には詫びのしようもない」

「……お父様は、こんな場面で信頼してもらえたことを知れば、きっと喜ぶと思いますわ……」


 確かに父の死は巻き添えとしか言いようがない。

 けれど、裁が阻止に努める神の顕現が、自分の住む街で起こるなら。

 巻き込まれさえしなければ、他人事だと目を逸らしていられるのか。

 朱鷺乃には、沈鬱な面持ちで頭を下げる裁を、責めることはできなかった。


「それでも、俺は未だ『黒の淵』を手放す訳にはいかない。たった今、地下に封印していたハスターの屍骸が活性化を始めた。預言の記述を紐解く必要がある。その鍵を――」


 焦燥した表情で、裁は言葉を詰まらせた。


 いまの裁は信用できる。けれど、“鍵”を使ったあとも裁のままでいられるのか。

 父の名代としてこの“鍵”を預かる以上、手渡すべきではないのではないか。

 自らを傷付けなければ正気を保てない彼に、全てを押し付けていいのか。


 再び強まる振動と狂人のうめきに心乱されながら、朱鷺乃は鍵を握りしめ逡巡を続ける。

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