黒犬と猫パンツ

 2発のジャブはかわしたが、辛うじてガードした強力な右ストレートの威力に弾き飛ばされる。

 アスキスを屋根の端にまで追い詰めた執事姿の女は、月を背に半眼のまま大棟でステップを踏んでいる。


「余裕だな畜生!」


 師であるアビゲイルの話では、簡単な仕事のはずだった。

 実業家、宗蓮院しゅうれんいん紅劾こうがいの別宅に忍び込み、ある品物を回収するだけ。


 主は先日死去したばかりで、館は無人のはずだった。

 それなのにアスキスは、邸内でばったり出くわした執事に追われ屋根の上。眼下で騒いでいるのは宗蓮院の娘か。


「危ないですわ灰里かいり! ゴスロリの貴女も大人しく降りてきなさい!」


 今回の使いも、いつもと同じ『そろそろお前も独り立ちかねえ』という、アビゲイルの思い付きのような一言が発端。だがアスキスは、その『ちょっとしたお使い』で、人外の化け物に昼夜問わず付け狙われる羽目になったり、『簡単な探し物』のために、三日三晩迷宮をさまよい続けたこともある。


 この探索クエスト が終わればやっとあの妖怪ババァから解放される。浮かれて下調べがお座成りだったのか。

 アスキスは今更ながらに反省するも、後の祭りというものだ。


「あのババァ! あたしに厄介事を押し付けて、いまごろ楽しく見物してやがるに違いない!」


 ポケットの黒曜石はあと二つ。この場を切り抜けるだけには十分だろう。

 だが警戒され、次のチャンスは絶望的になる。


「クソッ! 手ぶらで帰る? このあたしが? 冗談じゃない!!」

「死にはしませんよ。上手に落ちなさい」


 構えるアスキスに、体勢を低くした執事が突っ込んでくる。

 自分が落ちるとは毛ほども考えてない思い切りのいいダッシュだ。


「上等!!」


 月下にアスキスの黒いスカートがひらめく。

 黒曜石で呪唱をキャンセルし、風の加護で速さと鋭さを増した回し蹴りは、右ストレートを放つ執事にカウンターで決まった。

 執事は跳ね飛ばされ屋根を転がったが、樋に手を掛け辛うじて落下を免れている。


「畜生、しぶとい!」


 勝利を確信したアスキスは、余裕の表情で屋根の縁に歩み寄り執事を見下ろした。


「誰が落ちるって? ――っ、ああ!?」


 腰に手を当て決め顔で見得を切るまでは良かったが、わずかに体勢を崩し足を踏み外し、本当に――


「ふわッ? ちょ、危ないですわ!!?」


 避けようとしたのか受け止めようとしたのか。右往左往していた縦ロールの少女の上に落下。

 2階の屋根からとはいえ、下手な姿勢で落ちればそのままリタイアは免れない。

 だが、残っていた風の加護の効果が、落下の衝撃を和らげた。


「お嬢様!!」


 主を案じた執事が、壁を蹴り身軽に飛び降りてくる。


「どけ、猫パンツ!!」

「なっ? 誰が猫パンツですの!?」


 捕まえようとしているのか、逃げようとしているのか。

 もがく朱鷺乃はアスキスと絡み合い、大盤振る舞いで寝巻きの裾を捲り上げている。

 上になった朱鷺乃を突き飛ばそうとした瞬間。

 アスキスは迫る異様な気配にとっさに判断を変え、朱鷺乃を抱え地面を転がった。


 ゴウッと。

 突風を巻き起こす勢いで。

 寸前まで二人がもがいていた場所を、黒い影が駆け抜けた。


「危ねぇ!! 番犬か!?」

「知りませんわあんなの! それより手を放しなさい!」


 黒犬の影は速度を落とさぬまま、再び闇に溶けた。

 二人が絡まっているうちに地面に降り立った執事は、主の無事を確認すると、黒犬が走り出た木立に鋭い視線を向け誰何の声をあげた。


「この娘の仲間ですか? 出てきなさい!」

「やれやれ、バッティングかな? もうちょっとこう、スマートにやりたかったものだけど」


 若い女の声。

 木立から現れた女は、フード付きパーカーにキュロットスカートという、街歩きの途中のようなラフな服装をしていた。

 だが、フードの奥の右目は眼帯に覆われ、残る左目だけが剣呑な光を放っている。


 アスキスには覚えはないが、偶然のはずがない。

 アビゲイルはこの展開を予測していたはずだ。


「狙いは同じか、畜生! 難易度がどんどん跳ね上がるじゃないか!!」


 眼帯の女は、ポケットから取り出した指ぬきグローブをはめ、からかうように執事を指で招く。

 執事はたやすく挑発に乗り女に向けて突進した。


「灰里! 血の気が多すぎですわ!」

「大丈夫ですお嬢様! 手早く済ませます!」


 しかし執事が繰り出す拳はことごとく空を切る。

 眼帯の女は余裕の表情を浮かべたまま、軽やかなステップでかわし続ける。


「速さが足りない! 角度も甘い! それじゃわたしには届かないよ?」


 眼帯の女はあざ笑いながら、パーカーのポケットから掴み出した何かをばらまいた。

 一瞬目元を庇ったものの、執事は攻撃の手を緩めようとはしない。


 目潰しではない。

 アスキスの目には、無数に浮かぶ数cmから数十cm大の不揃いな水晶片が見えている。

 この光景が執事に見えていないのなら、呪具か何かの触媒に違いない。


「顔を隠してる理由が分からないのかな? カタギのあんたらを殺さずに済むようにでしょ。気付いてよボンクラ!」


 呆れ声と共に、眼帯の女が初めて放った拳はまるでリーチ不足。

 かわすまでもなく、そのまま拳を繰り出そうとした執事はしかし、まともに右ストレートを喰らったかのようによろめいた。


「何ッ!?」

「灰里!!」


「……なるほど、角度か」


 眼帯の女はどうやら水晶片を触媒に、衝撃を反射させているらしい。

 周囲を囲む水晶片が見えてもいない執事には、何をされているのかさえ理解できないだろう。


 朱鷺乃は戦いに気を取られている。

 可哀想だが執事に勝ち目はない。奴が立っていられるうちに仕事を済ませるか。

 手近の窓を破ろうと動いた瞬間、眼帯の女の視線がアスキスを捉えた。


「そっちの半人前は、バスカヴィルと遊んでてよ」


 闇の中から再び黒犬が飛び出してくる。

 アスキスは慌てて朱鷺乃を突飛ばし、その反動で際どくかわした。


「ぎゃふん!」


 お嬢様らしくない悲鳴を上げる朱鷺乃に構う余裕はない。

 すれ違いざま目にした黒犬の頭部には、皮ベルトで目隠しと口輪が施されていた。


「手加減してくれてるってか、舐めやがって!」


 真っ直ぐ走る黒妖犬。

 噛み殺されることはなくとも、高速で疾走する大型犬の体当たりを喰らえば、一撃で意識を持っていかれる。

 かわした黒犬が折り返し、再びスピードに乗りは駆け寄る前に。

 窓枠に手をかけた刹那、アスキスはあり得ない方向に黒い影を目にし戦慄した。


「ぐッ!?」


 頭上からの一撃を受け、アスキスは地面に打ち付けられ跳ね飛ばされた。


 気付くのが遅すぎた。

 ばら撒かれた水晶片は、いつの間にか屋敷の庭一面に漂っている。

 反射するのは眼帯の女の攻撃だけじゃない。

 黒犬の疾走は水晶片から水晶片へと反射され、攻撃の起点を掴むことさえ叶わない。


 アスキスは倒れることさえ許されず、黒い暴風と化した衝撃を受け続ける。


「クソッ! がッ!」


 防戦一方の執事に駆け寄ろうとしていた朱鷺乃は、アスキスの苦鳴に足を止めた。

 朱鷺乃にも水晶片は見えていないはず。

 それなのに、木偶のように打たれ続けるアスキスの姿に何を思ったのか、踵を返し戻ってきた。


「バ……ッ!? お前に……でき……ない! すっこんで……ろ!!」


 アスキスの警告は声にはならず、朱鷺乃は庭中をランダムに疾走する黒犬に跳ね飛ばされた。

 だが奇妙なことに、黒犬自身も同じ衝撃を受けたかのように、弾き返されよろめいている。


「お嬢のくせに無茶すんなよ……」


 息はある。気を失っているだけのようだ。

 緩く上下する乱れた寝巻きの胸元に、壊れた青い石のペンダントが見えた。


「このッ!!」


 反撃の機会は黒犬が足を止めた今しかない。

 ふらつきながらもアスキスは蹴りを繰り出すが、黒犬はわずかに早く水晶片に飛び込んだ。

 出し惜しみをしている場合じゃない。アスキスは最後の一つの黒曜石を砕き突風を生み出した。


「どんなに速かろうが――」


 もうまともに風を操るだけの集中力は残っていないが、ただ一方向に吹かせるのなら容易いことだ。


「どの欠片から出てこようが――」


 水晶片の群れは、アスキスの眼前に吹き固められてゆく。


「見当ついてりゃ何てことないっての!!」


 アスキスは飛び出した黒犬の鼻先に、全力の踵落としを叩きこんだ。

 口輪の中でくぐもった悲鳴を上げた黒犬は、横ざまに倒れ、わずかな痙攣のあと動きを止めた。

 やがてふわふわと漂う水晶片に取り囲まれ、諸共に姿を消した。

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