ワルプルギスガーデン
藤村灯
嵐の前
青い空の下、何処までもひまわり畑が広がっている。穏やかな風が渡る黄金色の海を、小高い丘から二人の男が見下ろしていた。
一人は季節はずれにも、着古したコート姿。傍らに立つ男は、牧師服を身に纏っている。遠くから眺める者がいたなら、それは美しい風景画に付いた染みのように見えたかもしれない。その小さな染みが、のどかな風景を、どこか漠然とした不安の漂う物にしていた。
「いつも思うことがあるんです」
牧師服の男が口を開いた。長身でひょろ長い手足を持つその姿は、麦藁色の髪と相まって、畑の番をしている
聞こえなかった訳でもないだろう。だが傍らに立つコートの男は、鉄色の瞳をただ空に向けたまま身じろぎもしない。見詰めているのは蒼穹なのか、さらにその奥の深淵か。彫像のように整った貌には何の反応もない。
「この世の中に真理という物が存在するなら、僕は今それから最も遠いところに居るんじゃないかってね」
じゃらりと、重たげな鎖の音が響く。
コートの男が携える大きな本。長い歳月を閲した物らしく、何の物とも分からない皮で装丁された表紙は、様々な色を混ぜ込み濁った黒色。鎖を巻かれ厳重に錠を掛けられたそれは、男が身動ぎもした様子もないのに、時折重たげな音を漏らす。まるで本の中から何かが這い出そうとでもしているかのように。
「清く美しくいそれに近付こうと足掻いていた筈なのに、いつの間にか腰まで汚濁に浸かり、手にしているのは蛆の湧いた腐肉だけ」
そよ風が牧師服の裾を揺らす。無意識のうちに胸元の十字架を弄びながら、牧師は続ける。
「その事に気付きながらもなお、真理を追い求めずにはいられないのは、おそらく僕に科せられた罰なんでしょうね」
錆びた歯車の緩慢さで、コートの男は牧師に視線を向けた。退廃に沈む街の路地裏を流れる、下水のように澱み濁った瞳。それは牧師に反応したのではなく、彼の背後を弱々しく飛び回っている羽虫でも見付けたのかも知れない。
意識して目を背けていた不安が、牧師の胸中にぬらぬらと怪しい形を取る。
隣に立つこの男は、本当にまだ自分の相棒なのだろうか?
いつからだろう、この違和感は。エジプトの墳墓に潜り込んだ時からか? ブリチェスターの廃屋を訪れた時か? それとも、夜通しホンジェラスの密林を逃げ落ちた時からか?
かつての彼になら、言葉を交わさずとも、安心して背中を預ける事が出来たのに。言い訳だ。問題なのは彼じゃない。覚悟も確信も持てぬままこの場に立っているのは、自分の弱さだ。
じゃらりと。彼の葛藤を嘲笑うかのように、鎖の音が響く。
「それでもお前は進むしかない」
迷いを見透かしたように、コートの男は錆びた声で呟いた。無味乾燥な言葉の底に、滓のようにこびり付く憎悪と嘲笑。
呟いたのは本当に彼なのか、それとも彼の背後にぼんやり浮かぶ異形の影か。
「時間だ」
もはや牧師の煩悶に一片の興味も示す事無く、コートの男は視線を蒼穹に戻す。それに合わせるかのように、強い風が吹き抜けた。しっかりと足を踏みしめていないと、押しやられてしまうほど強い風圧を感じるというのに、眼下のひまわり畑は穏やかに波打つ程度。
迷いを断ち切れぬまま、牧師服の男が見上げたその先に、雲を割り彼らの敵が姿を現した。
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