第5話 盲獣

 四方をコンクリートに囲まれた暗く、凍えそうに冷たい遺体安置所――それが忍足と香織との忌まわしい再会の舞台だった。

 美しかった香織は、もうそこにはいない。彼女の可憐な相貌粉々に砕かれ、原型をわずかたりと留めてはいなかった。

 それだけではない。細い四肢は粉々に寸断され、枯れ枝のように蒼黒く変わり果てている。胴体に至っては、ほとんど原型を留めていない。気が遠くなるほど、死体の損傷は激しかった。

 だけど忍足には、それが香織だとすぐにわかった。死体の指に輝くクロス・モチーフのホワイトゴールドの指環――それは忍足が彼女の誕生日に贈ったものである。慣れないジュエリー・ショップで、若い女性店員相手に、たどたどしく相談しながら選んだものだ。客も店員も着飾った美しい女性ばかりで、野卑な風体の忍足がそのなかに交ざるようすは、場違いを通り越して、ほとんど滑稽でさえあった。

金額的なことは、問題ではない。むしろ、そういった店で買い物をする行為自体が、忍足にとっては苦痛だった。だけど、人を喜ばせるためにはどんな労力であれ、けっして惜しむべきではない――そう考えるに至り、忍足は意を決して店に足を踏み入れたのだ。

 学生がアルバイトをして買ったものである。それほど高いものであるはずがない。そのうえ、女性の好みに疎い忍足は、じぶんが選んだものを気に入ってくれるかどうか、渡す当日まで、ずっと不安だった。だけど、女性というものは高価なものでなければ喜ばない、というのが迷信であることに、忍足はすぐに気づかされることになる。

 香織は想像以上に喜んでくれた。そして忍足と会うときには、いつだってかれが贈った指環をつけてくれていた――この、悲しすぎる再会のときでさえ。

「信じられない……自殺するなんて」

 胸を抉るような痛みに堪えながら、忍足は下唇を噛んだ。

「きのうまで、笑顔だったんです。盲学校の教師になって、生徒のための道しるべになろうと、意欲に燃えていたんです。それが、踏切への飛び込み自殺だなんて、なにかのまちがいに決まっている」

「お察しします」

 無愛想に答えたのは、南部なんぶと名乗るいかめしい面構えの刑事だった。よれよれのスーツにノーネクタイ姿。太く頑丈そうな指で毬栗頭を掻きながら、語をついだ。

「しかし自殺については疑いないようでしてね。電車の運転士自身が証言しています。香織さんがよろめきながら、ひとりで踏切のなかに侵入してきた、と。踏切近くで香織さんが下車したのを見送った通学バスの運転手も、同様の証言をしているようです。制止する間も、なかったそうで」

「列車に飛び込んで死ぬなんて」香織の父親が心ない言葉を口にした。「他人の迷惑を考えられない大馬鹿者だ」

 瞬間、忍足は香織の父親に掴みかかろうとした、しかし――、

 煙草の臭いの染みついた革のジャンパーを羽織る香織の父親の体つきは、けっして大柄ではない。だが、陽に焼けた肌と頑丈な体躯、その眼光は猛禽類を思わせるほどに鋭い。猟友会にも名を連ね、猪や熊を相手にしても一歩も引かないという荒くれ者だ。

 この狭い遺体安置所で掴み合いになれば、香織の遺体をなおさら傷つけることになる――その一瞬の躊躇の隙に、先んじて香織の父親に掴みかかった男がいた。

それが、香織の弟、三助だった。

「くだらない良識を持ち出して、死人を非難するんじゃねえよ! 姉貴はいままでだれにも迷惑かけずに生きてきた。姉貴はずっとじぶんのことより他人のことを優先して生きてきたんだ。死ぬときぐらい、少しぐらい、迷惑をかけたっていいじゃねえか! そりゃ、何分か電車は遅れたかもしれない。だけど、死んだ人間のために、それぐらい待ってやるのが、そんなに苦痛かよ!」

 三助がそれほど激昂する姿を、忍足は見たことがなかった。醒めた性格の皮肉屋だと思っていたが、こんなに感情的な一面を隠していたことに、驚きを隠せなかった。

 女のような痩躯に怒りをみなぎらせた三助は、粗野な風体の父親を完全に圧倒していた。それまで忍足は三助に蔑みに似た感情を抱いていたが――かれが、じぶんと同じように、たしかに香織を愛している事実だけは、理解せざるを得なかった。

しかし、たしかに奇妙だった。香織が自殺すること自体、考え難いことだったが、それよりも、常にじぶんより他人を優先して物事を考えてきた香織が、なぜあえて大勢の乗客に影響の出る飛び込み自殺を選んだのだろう。

「ご遺体の前です。そのへんにしてもらえますかね」

 南部が面倒そうに口を挟む。投げ捨てるように、三助が父親の襟首から手を離した。気圧された香織の父親も、口をつぐんだまま、もうなにもいわなかった。

顔を上げ、忍足は南部に問い質す。

「香織は、つい今朝まで変わりなかった。行ってきます、ってスマホにメールもくれた。笑顔で学校に行ったはずです。それが一日も経たずに自殺だなんて。いったい、学校で、なにがあったんです……?」

 南部は言葉を選ぶように答える。

「学校でも、香織さんのようすに変わりはなかったそうです。職員室を去る際も、笑顔で挨拶をしていたと、同僚のかたがたが証言を――」

「じゃあ、いったい……」

 南部は視線をそらし、ふうと溜息をついた。

「気になるのはわかります。でも、きかないほうが幸せなことだって、ありますからねえ」

「なにか、知ってるのかよ」

 三助が食ってかかった。

 南部は目を閉じ、口をつぐむ。

「南部さん」

 忍足が南部の肩に手をかけた。

 しばらく沈黙を続けていたが――南部は観念したように煙草の臭いのする溜息を吐いた。

「ここからは、警察の公式な見解ではない、ということを断っておきます。わたしの個人的な推理も含んでいる――ということです」

 南部はいいづらそうに、言葉を選ぶ。

「帰りの通学バスのなかで、なにかがあったのだ――と踏んでいます」

「通学バスのなかで――?」

 どういうことなのか、まるで理解できなかった。

「申し上げにくいことですが」南部は片眼を閉じ、苦痛に堪えるように続ける。「検案の結果、香織さんの遺体に男性の体液が付着していましてねぇ……」

「体液だって?」

 三助が声を荒げる。忍足の胸に、ドス黒い感情が渦を巻く。香織と関係したことは、いちどもなかったから。

「つまり――

「馬鹿な! 通学バスでしょう? しかも、盲学校の。いったいだれが、そんなことできるっていうんです?」

 忍足は声を震わせながら詰め寄る。感情をコントロールできない。まるで泥酔したかのように声が、言葉が荒くなる。

「逆ですよ」南部は顔を上げて忍足を睨みつけた。「通学バスだからこそ、可能なんです。山の上の学校から、駅までの間、停留所もない、新たな乗客もいない。運転手の死角にさえ入れば、通学バスなんてのは、それこそ逃げようのない密室ではありませんか。じゅうぶん、犯行は可能です」

「待ってくれ」三助はごくりと唾を呑む。「じゃあ、犯人は盲学生のだれか、ってことかよ」

「ええ。わたしはそう踏んでいます」

 南部は平然と答えた。

「馬鹿な! 乗り合わせていた学生は、ひとりやふたりじゃないわけでしょう? そんな公衆の面前で、乱暴なんてできるわけが――」

「考えてみてください、忍足さん。そのとき通学バスには香織さんが担任する中等部の学生たちが乗り合わせていたそうですが――当然ながら、乗客はすべて盲人なんです。全員に事情聴取はしましたが、みんな口を揃えて供述する。なにも知らない、なにも見ていない――、という前代未聞の奇怪な状況のできあがりだ」

「そんな詭弁があるかってんだよ」三助が口を挟む。「バスのなかで姉貴がほんとうに乱暴されてたんなら、いくら盲人だって、異常を感じないはずがない」

「わたしもそう思います。恐らく、みんな口裏を合わせている。盲人であるという立場を逆に利用しているんです」

「信じられない。視覚障害者がそんな――」

「視覚障害者がそんなことをするはずがない、とでも? 忍足さん、それはまちがった認識です。この国じゃ、障害者に対して、特別な偏見を持っている。テレビや新聞に登場する障害者は、困難に対して前向きに立ち向かう障害者スポーツの選手だとか、知的障害があっても優れた感性とやさしい心を持った芸術家だとか、そんなのばかりだ。ハンディがあるからこそ優れた人格を手に入れた苦行者――そんな神聖なイメージが横行している。だけど、そんなものは、わたしにいわせればデタラメです。馬鹿馬鹿しい、歪められた障害者像だ。障害者だって健常者と変わりない、食事もすれば糞もたれる、ただの弱くて情けない人間に過ぎないんです。健常者とおなじ欲望を抱え、ときにはおなじように罪を犯す。それが道理というものでしょうが。悪事を働く健常者がいるなら、悪事を働く障害者がいて当然なんだ。ご存知ですか? 刑務所の服役囚の四人にひとりは知的障害者なんです。ろうあ者だけで構成された暴力団なんてのもある。おなじろうあ者を標的にして、障害年金を恐喝する、卑劣な連中だ。障害者はみんなおとなしい、社会が守るべき善良な弱者――それはただの思いこみです。健常者にとって都合のいい偏見であり、差別とさえいってもいい」

 忍足は、声を出せなかった。ベテランの刑事である南部の言葉には、凄みがあった。何人も、何人も、たしかにそういう例を見てきたのだという凄みが。それに反して、じぶんは障害者のことなど、なにも知らない。いや、知ろうとさえせず、目を伏せてきた問題なのだ。

 途端に、さっきの忌まわしい話に現実味が帯びはじめる。香織がバスのなかで、欲望を剥き出しにした盲学生たちにつぎつぎと入れ替わり立ち代わり犯されるさまを想像して、目の前が真っ暗になった。怒りと恐怖で呼吸が乱れ、吐瀉物が逆流しそうになる。

 いったい、どんな気分だっただろう?

 これから生涯を懸けて尽くそうと誓っていた相手から、絶望するほどの陵辱を受けるということは。

 群れを成した盲人が、躰じゅうを確かめるように手を這わせ、すこしずつ浸食するように迫りくる、その恐怖は。

 声を出せないように、ハンカチでも口に突っこまれたのだろうか。それとも、声を出すなと脅されたのかもしれない。恐怖で声が出なかったのかもしれない。だれの助けも得られず、窓の外に救いを求め、それを嘲笑うように無慈悲な速度で走りつづけるバスのなか、白く細い足をむりやり開かれ、ストッキングを破られ、ブラウスのボタンが飛び散って――、

 忍足の手足から、みるみる力が抜け落ちていた。

 肝心なときに、いちばん大事なときに、彼女を守ってやれなかった。

 空手だのキック・ボクシングだの、修練に修練を重ねて学内で大きな顔をしながら、いちばん大事なとき、いちばん大事な人に、なにもしてやることができなかった。

 ただ――報いを与えることはできる。遺された人間にできるのはそれだけだ。法の裁きにかけることはできるはずだ。

 しかし、南部は無慈悲にかぶりを振った。

「最低でもひとりぶんの体液は検出されているんだろ? 物的証拠にならねえのかよ?」

 狂犬のように歯を剥く三助を、南部は冷淡な態度でいなす。

「二〇一一年、滋賀県大津市で中学生が自殺した事件がありましてね、同級生から暴行や恐喝などの悪質ないじめを受けていた事実が認められたんです。でも大津市教育委員会は『被害者本人が故人であり、証言が得られない以上、いじめと自殺の因果関係は認められない』と責任逃れに終始した。ご記憶でしょうが? 同年、群馬県桐生市の小学生の自殺の件でも、市の対応は同様だった。埼玉県北本市でも中学生だった娘がいじめ自殺をしたとして両親が市を訴える裁判を起こしましたが、こちらもやはり被害者が故人であり証言を得られないことからいじめの事実は認められないと二〇一二年に敗訴している。死人に口なし――被害者が亡くなっていれば、加害者側の言い分は好き放題に通るというわけです。強姦罪の立証は、ただでさえ難しい。被害者である香織さんが亡くなっていて、証言も得られない、遺書もない。これでは絶望的です。加害者連中は、けっして口を割らんでしょう、それどころか、香織さんに誘われた、などと証言しだすかもしれない。それを否定できる人間は、いないんです。しかも、連中は少年法に守られている。仮に有罪判決を得ても、少年院への長期処遇、長くてせいぜい二年そこらで出所してくるでしょう。いたずらに故人の名誉を損ねるだけではないですか? 香織さんが、そんな裁判を望んでいるとは思いませんねえ……」

「でも警察がちゃんと取り調べと捜査をしてくれれば……」

「ここだけの話」南部は声を潜ませた。「通学バスに乗り合わせた盲学生のなかに土方ひじかた――という生徒がいるんです。こう、うしろで髪を縛った、ひょろりと背の高い生徒なんですが、まあ、言葉は悪いがちょっとした不良でしてね、好き放題やっている。いるんですよ、当然。健常者に不良がいるなら、盲学生にも不良がね。でも、いちどたりと補導されたことがない。なぜだかわかりますか?」

 南部は眼を瞠り、いかめしい顔を近づける。

「かれの祖父が、県警の元OBでしてね、裏で手をまわしてありとあらゆる罪をもみ消しているってぇ話です。まあ、理不尽ですが、よくある話なんですわ」

 三助がなにか口を挟もうとするが、南部はさらに絶望的な言葉をつぐ。

「それに、ここ梅倉うめくら市は障害者福祉を推進する町としてイメージ・アップに躍起になっていますからねぇ。われわれ末端にも、各方面からいろんな圧力がかかっています。人権屋のやりくちは、ヤクザとちがって加減を知らない。上も、もうこの厄介な蜂の巣をつつこうとは、考えていないんですよ」

「じゃあ――警察は、もうなにもしてくれないってことですか――」

「力になれなくて、申し訳ない」

 南部は深く頭を下げた。そのいかつい両肩は、震えている。

 かれも悔しいのだ――忍足は言葉を呑んだ。無愛想で冷淡な男――という印象は覆された。そのときようやく、この南部という刑事の本質を、垣間見ることができた気がした。

 かれもかれなりに、組織の上層の理不尽と現場の使命感に挟まれ、苦悩している。身分や立場を危険にさらすような情報も提供してくれた。だれにでもできることでは、ないだろう。これ以上、かれを非難することはできまい。

 南部は唇を噛みながら、背を向けた。冷たい跫音が、無情に高く響く。

 それは、忍足が、法に見捨てられた瞬間だった。

 目の視えない、弱者の仮面を被ったモンスターたちがへらへらと嗤う姿が頭をよぎる。

 かれらは――罪を償わない。だれもかれらを糾弾しない。香織の死などなかったように、心を痛めることも罰を受けることも謝罪の言葉ひとつ口にすることなく、これから先ものうのうと、香織のぶんまで幸せに生きつづける。

「どうしますか――忍足さん」

 三助が問うた。

 その眼つきは、冬の夜明けのように蒼白く冷え切っていた。

 忍足は、答えなかった。ただ、口をつぐむだけだった。

 考える必要が、答える必要が、どこにあるだろう?――忍足が香織のためにできることは、たったひとつだけだった。

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