『時流』(2007年02月08日)

矢口晃

第1話

 仕事の空いた時間、会社の喫煙所の汚いパイプ椅子に腰をおろしながら俺は、くたびれたスーツのズボンのポケットから煙草を取り出して一人で煙にまみれていた。俺の他に喫煙室にいる人は誰もいなかった。俺は細く開けた窓から、うす雲の向こうにうっすらと見える早春の青い空を眺めながら、毎日が平凡であることの退屈さを今日も感じていた。

 ふと室内に目を転じると、五個ある空いた椅子の一つの上に、無造作に折りたたまれた新聞のおいてあるのが見えた。何気なくそれを手にとって広げてみると、ある有名な新聞の号外だった。そこには、アメリカのマドンナという人気歌手がどうこうしたという記事が、大きな文字でにぎにぎしく書かれてあった。そういえばお昼の情報番組でも、散々「マドンナが、マドンナが」という声が聞こえていたように思う。しかし別段その人に対して関心のない俺は、特に注意もせずにいたから、一体何があったのかは覚えていない。恐らく新聞の号外に出るくらいのことだから、相当なことなのだろうとは思う。

 俺は新聞を一字も読まないまま、折り目通りに畳み直し、もとあったように椅子の上に放り投げた。そして再び目を窓の外の上空に移し、晴とも曇りともつかない空の色をぼけっと眺め始めた。

  五分ほどして作業場に戻ると、そこは例のマドンナの話題でもちきりだった。どちらを向いても、どこの席でも、人が集まればしきりと「マドンナが、マドンナが」と話をしあっている。いかにマドンナに興味のない俺といえど、それだけ皆が夢中になってマドンナの話ばかりしているのを見ると、さすがに少し気になり始めた。

 席に座ったばかりの俺に、さっそく隣の同僚が声をかけてきた。

「すごいよな、あの、マドンナが――」

「マドンナが、どうかしたのかよ?」

 俺は坂井というその男に質問をしてみた。すると坂井は、

「お前、まだ知らないのか?」

 とさも驚いたような顔で俺のことを見た。

「ああ、知らないんだ。で、そのマドンナがどうしたんだよ?」

 しかし俺がそう言い終わらないうちに、坂井はもう自分の席を離れて他の同僚とマドンナについて話をし始めているのだった。

 俺は首を傾げた。そんなに、大きな事件なのだろうか。いよいよ不思議に思って、俺は自分の机のパソコンからインターネットでマドンナについて色々な記事を検索してみた。しかし、皆がそれほどまでに熱くなるような記事はどこを探しても見当たらないのだった。

 仕方なく思った俺は席を離れると、坂井の混じっている四名ほどのグループの中へ自分から割り込んでいった。そしてその間に立ちながら、彼らの会話をしばらくはただ傍聴していた。しかし彼らは口々に「すごい」だの「信じられない」だの感嘆やら称賛やらの声を上げるばかりで、肝心の事件についての話は一向に出てこなかった。

 業を煮やした俺は、ついに自分から口を開き、その真相を確かめようとした。

「おい。お前たちが話している、そのマドンナって何なんだよ?」

 すると、それまで歓談を続けていた四人の口が一斉に止まり、続いて八本の冷たい視線が俺の顔の上に集中して向かってきた。

「……お前、まだそんなこと知らないのか?」

「……知らないの、お前くらいだぞ」

 その後四人は誰からともなく「行こう」と声を掛け合い、そそくさと俺の前を離れてしまった。俺は再び一人になった。

 なぜだ。どうして誰も、教えてくれないのだ。俺は彼らの不親切なやり方に憤りを覚えた。

 知っているのなら、教えてくれたらいいじゃないか。そういう怒りが頭をよぎる中、俺の眼前に一瞬ある光景がはっと浮かび上がった。

 ――喫煙室!

 あそこに行けば、さっき手にとって読まなかった号外が、まだあのままあるかもしれない。それを読めば、きっと彼らの話している内容だってわかるはずだ。

 俺は走り出すように職場を後にすると、暗い廊下の突き当たりにある喫煙室に舞い戻った。そしてその鉄製の厚い扉を開けて中へ入ると、椅子の上に置いてあった新聞の号外を探した。

 しかし、ない。さっきまで汚いパイプ椅子の上に確かに置いてあった号外が、どこにも見当たらない。俺は椅子の下やテーブルの下、ゴミ箱の中からロッカーの上まで、調べられるところは全て調べた。だがいくら探しても、確実にあったはずのその号外は、どこにも見当たらないのである。

 ――しまった!

 俺の心の中には、そういう思いが込み上げて来ていた。どうしてさっき読める時に、あの記事を読んでおかなかったのだ。俺は自分のことながら、悔しさを覚えずにはいられなかった。

 と見ると、少しあいた喫煙所の窓からは、さっきより雲のとれた春の空が気持よく見えている。ある予感のした俺は、その窓をさらに大きく開けて、頭を出して窓の下を見下ろしてみた。

 すると五階下の地面の上に、何やら灰色の紙のようなものが見えるではないか。

 あれだ。あれが号外に違いない。

 そう思った俺はいてもたってもいられずに喫煙所を飛び出した。エレベーターを待つのももどかしく、非常用の階段を一階まで駆け降りていった。外に出ると、素早く裏庭に回り、喫煙所の真下の空地までたどり着いた。そこまで全力疾走を続けてきたため、息はすでに上がり気味だった。それでもそんなことに構わず、俺は先程喫煙室から見下ろした地面の上を、新聞の号外が落ちていないか丹念に探した。

 ところが、ないのである。つい数分前、ここから五階分の高さにある喫煙室の窓から見た時には確かにあったはずの、あの灰色の新聞紙のようなものが、どこにもないのである。あるのは冬の間腐らずに残っていた無数の落ち葉と、ころころとした小さな石ころと、誰かが捨てたジュースの空き缶ばかり、その他に目につくものはなにも落ちてはいない。

 そんなはずはない。俺は心にそう思った。いくらなんでも、数分前に上から見た時にあった新聞紙が、このわずかの時間になくなるはずはない。誰かが拾ったとも考えづらいし、突風に飛ばされた可能性もまずない。すると一体なぜ新聞は消えたのか。

 こうなったら草の根を分けてでも号外を探し出すまでだ。号外を見ないまでは、気になって他のことなど手に付くものか。

 号外を見る最も簡便で確実な方法。それは実際自分で号外を受け取ることより他にないであろう。ならば、自分で受け取りに行くまでだ。

 そう思うが早いか俺は会社の敷地を抜け出し、足は最寄りの駅へと向かっていた。もちろん駅へ向かう間、町中にあるあらゆる活字に注意をしなかったことはなかった。床屋が出している小さな電光掲示板、本屋が出している最新号の雑誌のチラシ、宗教団体が出している世界平和を願うポスター。活字さえあれば俺はそれを獲物でも見つけたような眼で眺め、俺の必要な情報がないとわかるとまた歩き出すのだった。

 会社の最寄り駅といっても、そこは東京の外れにある片田舎の小さな駅に過ぎなかった。昼過ぎともなれば利用するのは近所のスポーツジムへ通う年寄りばかりだ。俺は切符を一枚買うと、改札を抜け駅の中へ入った。俺は駅のホームのベンチに腰掛けながら、二十分に一本しかない都心方面行きの電車を待った。

 突然のことで上着を着てこなかったから、肌寒い空気が身に沁みた。三月とはいっても、まだ空気は冷たかった。俺はなるべく日当たりのいいベンチを選んで、なかなか来ない上りの電車を辛抱強く待った。

 十分ほど待ち、電車がようやく来た。俺は我先に乗り込むと、がら空きの車内のシートの真ん中に深く腰を掛けて、車内の景色を観察した。通勤時間でないため、スポーツ新聞を広げている会社員の姿は見当たらなかった。次に網棚の上を見たが、そこにも読まれたまま放置されてある新聞紙は一つもない。最後に張り出されている無数の広告類に目を走らせていくが、そこにもやはり、マドンナのマの字も出ていることはなかった。

 どうやら新聞の号外を見るまでは、その真相は決して知ることはできないらしかった。俺は停まっては走り停まっては走りする電車がもどかしくてならなかった。だから三十分ののちようやく電車が終点の新宿駅に着くと、俺ははやる気を抑えながら、駅構内をもっとも人通りで賑わう西口目指して歩いていった。

 二つの大型百貨店が寄り添うように並んでいる西口前は、この日も当然ものすごい量の人通りであった。道の途中で少しでも立ち止まろうものなら、たちまち後ろの人に追突されてしまいそうだ。田舎育ちの俺には、正直言ってあまりなれない土地である。しかし今日はそんなことを言っている場合ではなかった。

 俺は西口に現れると早速あたりを見回して号外配りの姿を探した。しかし号外はとっくに配り終わった後だったらしく、その姿はどこにも見えなかった。

 西口でだめなら、南口だ。俺は駅前の百貨店のショウウィンドウの前を足早に通り過ぎ、駅の南口へ回った。南口も西口に劣らぬ人でである。券売機の前には常に長蛇の列である。しかし夥しい人こそ見当たれ、肝心の号外配りは、やはり影も形も見当たらないのだった。

 それも無理はないと俺は思った。何しろ俺が会社で休憩をしている時には、すでに会社の喫煙室に号外はあったのである。だとすると、それが配られたのは少なくとも午前中ということになる。いくら俺が午後の四時過ぎに慌ててもらいに来たところで、今更午前中の号外が受け取れるはずはなかった。

 しかしこのまますごすごと引き下がることはできない。会社の同僚たちが一様に口をそろえて語り合っていることの真相をつかむまでは、俺は決して会社に戻ることはできない。いくら号外配りがいないと言ったって、ここは新宿だ。一枚くらい、必ず読んで捨てられた号外が見つかるはずだ。

 俺は地面を注意しながらゆっくりと歩き出した。雑踏の中には、意外と多くの紙切れが散乱していた。しかしそれらは駅前で配られている割引券の類や、雑誌の一ページであることが多かった。

 人の通行を妨げるように、右つ左つしている俺を、多くの人々は嫌なものでも見るような怪訝そうな顔つきで睨んでいった。ある人は露骨に俺にぶつかっていった。俺は何度そういう人たちと、一触即発の険しい視線を絡めあったか知れなかった。だがそれらに難癖をつけるよりも、俺にとっては号外を探すことの方がはるかに重要だった。

 南口の周辺を一通りくまなく探し終えても、結局号外を見つけることはできなかった。そこにある名案が俺に浮かんだ。

 ――そうだ。会社員の最もよく通る通路を歩けば、きっと見つかるに違いない。

 これには自分ながらいいアイデアだと思わざるを得なかった。俺はこう踏んだのである。駅前で号外を受け取るのは、おそらく大部分が出勤途中の会社員であろうと。彼らは会社への道すがら、受け取った号外を読んで行くであろうと。しかしすぐに読み終わってしまう号外は、会社に持って帰るまでに道端に捨ててしまうだろうと。

 これを思いついた俺は急に新たな闘志が芽生え始め、再び西口方面へ取って返すと、まっすぐ都庁にまで続く大通り沿いをゆっくりと歩き始めた。

 新芽を出したばかりの街路樹は、ちょうどその下をゆく俺と同じように、冷たい空気に肩を縮ませているように見えた。絶えず強いビル風の吹き荒ぶ新宿は、俺の会社のある田舎より一層寒く感じるのに違いなかった。俺は辺りによく気をつけながら、まっすぐな広い歩道を注意深く歩いて行った。道の両脇には高層ビルが立ち並び、いくつとも知れない会社が軒を連ねているのだった。その中の一人くらい、号外を道端に捨てて行ってもまったくおかしくはない。そう思いながら、俺はゆっくりと歩道の上を歩いて行った。

 だが期待に反して、ここでもやはり号外はなかなか見つからないのだった。俺は都庁の下を通り過ぎ、中央公園が見える十字路まで来たところで立ち往生してしまった。新宿という街は、案外掃除が行き届いているのかも知れなかった。道に捨てられた紙くずは、すぐに清掃員が片づけて行ってしまうのかも知れなかった。そう考えると、俺は無念さにがっくり肩を落とさざるをえなかった。

 しかし、次のひらめきはすぐに悩める俺に訪れる。俺はその時とっさに気がついた。俺の目の前にあるのは、新宿中央公園ではないか。毎日昼過ぎともなれば無数の会社員たちが休息を求めにやってくる、まさに会社員の聖地ではないか。そこに行けば、きっとあるはずだ。たとえベンチや植え込みの中に放置されていなくても、ゴミ箱を丹念に一個ずつ探して行けば、必ず一つくらい号外に巡り合えるはずだ。

 俺は信号が赤から青に変わるのをそわそわして待った。そして信号が変わると、一気に公園の中へ駆け込んでいった。

 公園内は、どこも高い樹木の作り出す日陰に覆われていた。寒さのせいか時間のせいか、ベンチの上には会社員らしい姿は一つも見えなかった。ただ時々、公園をねぐらとする浮浪者たちが二、三人よりそって話をしあっていた。彼らは、ゴミ箱の中を入念に調べて歩く俺に、好奇のまなざしを向けているようだった。その目は、俺を新米の浮浪者と勘違いしているようだった。そんなことには一向構わず、俺は園内のゴミ箱を一つ一つ丁寧に見て歩いた。だが残念なことに、どのゴミ箱の中にも、それらしい物体は見つけることができなかったのである。

 道路を隔てて隣接する二つの公園をくまなく見て歩いても、とうとう俺の望みのものを見つけ出すことはできなかった。時間は五時半になろうとしていた。俺は全身を襲う徒労感のために、手近にあったベンチの上に腰をかけ、天を仰いで溜息をついた。今日一日走り回っても、とうとう発見することのできなかった号外。そこには一体、どんな記事が書いてあったというのであろうか。見る者を必ず驚嘆させる、何かものすごいことが書いてあったのに違いない。どうして俺は、最初喫煙室でその号外を見た時に、ちゃんと読んでおかなったのだろうか。または昼休みにしっきりなく流れていたテレビの情報番組を、どうしてちゃんと見ておかなかったのだろうか。後悔だけが、ずっしりと肩にのしかかってきた。

 その時ふと目を移すと、何気なく見た視線の先に、植え込みの中にたたずむ一軒の段ボールハウスが目に留まった。その中では、毛布にくるまった住人が、さっきから何かしきりに手元のものに読みふけっているらしかった。俺は反射的に立ち上がった。段ボールハウスの住人が熱心に読んでいるもの、それは、紛れもないあの号外のようだった。

 俺は恐る恐る歩を段ボールハウスの方へ進めると、入口のところにしゃがんで中の様子を眺めてみた。そしてその住人が手にしているものを見た。するとやはりそれは、俺が長い間駆けずり回って探していた、あの号外だった。

 人の気配を察した住人が、じろりと俺の方を睨んだ。そして、

「なんだよ」

 と邪険に俺にそう言った。

「あのう……」

 俺は段ボールハウスの中の蒸れたような臭いを微かに鼻の先に感じながら、勇気をもって住人に事情を話し始めた。

 事情を聞いた住人は、その号外を百円で俺に売ってくれると言った。もちろん、俺は喜んでそれに承諾した。嬉しさのあまり、百円でいいというところを二百円払って、俺はとうとう、待ち望んでいた号外を手に入れることができた。

 これでやっと皆と対等の会話をできる。やっと時流に追いつくことができた。そう思う俺の胸の内には、安堵と喜びの泉がどこまでも果てしなく広がっていた。

 号外を手に入れるた俺は、すぐさま会社へ引き返した。新宿から電車に乗り、最寄駅から会社に走って帰る頃には、時計は悠に夜の七時を回ろうとしていた。俺は五階までの階段を一段抜かしに駆け上がると、息を切らせながら職場のドアを開けた。そしてこみ上げる嬉しさを爆発させるように、まだ残っていた同僚に向かって、叫ぶように言った。

「おい皆、ついにわかったよ!」

 しかし同僚たちの反応は、俺の予想に反して冷たいものだった。同僚たちは何時間もかけてやっと号外を手に入れてきた俺を白けたようなまなざしで一瞥し、また余念なく自分の仕事を続けていた。

「おい、佐伯」

 早く誰かとこのことについて話したい俺は、まだ残っていた隣の席の佐伯の肩を掴んで声をかけた。

「お前らが話していたあのこと、やっとわかったんだって」

 しかし佐伯は俺の存在を無視するように、黙って仕事を続けている。俺はさすがに虫のいどころが悪くなった。

「何だよ。さっきみんなでまであんなに楽しそうに盛り上がっていたくせによ!」

 その時、後ろから突然自分の名を呼ばれた。

「馬場君」

「はい」

 そう言って振り返ると、いつの間にか俺の後ろに背の小さな部長が立って、にこにこと俺のことを見上げていた。

「何か、いいことでもあったのかね? やけに楽しそうじゃないか?」

 やっと俺の話を聞いてくれる人が現れた。俺はそう思い、興奮しながら話し始めた。

 が、

「部長、知っていますか? マドンナが――」

 とまだ言い終わらない内に、

「大馬鹿者!」

 そういう部長のどなり声が、会社の壁を通り越して外にまで聞こえるのではないかというくらいの大音量で、職場中に響き渡った。

「お前は五時間も、仕事を離れてどこに行っていたんだ!」

 俺は何とか部長を冷静にさせようと、笑顔をひきつらせながら弁解しようとした。

「じ、実は、マドンナがですね――」

「大馬鹿者!」

 また頭上に雷が降ってきた。

「お前は仕事よりも、マドンナの方が大切なのか!」

 後で聞かされたのだが、会社はこの日、ある取引に失敗して一千万もの損失を出していたそうなのである。だからただでさえ部長の気が立っていたところへ、俺が油を注いでしまったのだ。

 その後も、俺は職場のど真ん中で、こんこんと部長から説教をされ続けた。同僚たちの蔑むような眼差しが、俺の体に痛いほど突き刺さった。

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『時流』(2007年02月08日) 矢口晃 @yaguti

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